1. 消えた同級生
何をしても失敗してばかりで、誰からも見捨てられてしまったと感じている人へ。
気が付くとわたしは暗いところにいた。ふらつく足取りで出口を探した。体のあちこちが痛いなと思って下を見れば、腕に切り傷があった。足に擦り傷があった。その上、身にまとっているものは白いぼろ切れで、あちこち破けて、血が滲んでいた。
どうして怪我をしているかは、たいした問題じゃない気がした。とにかく早く明るいところに出たかった。明るいところ、明るいところはどこだろう。そう思って歩いていると、誰かに声をかけられた。
「おいお嬢ちゃん、まだ修理が済んでいないだろう。どこに行く?」
振り返ると、いつの間に、そこに立っていたのだろう。一人の老人が見下ろしていた。ポケットのたくさんついた作業着のような服を着ている。暗いのに、不思議とその老人の姿ははっきりと見えた。わたし自身の身体と同様にはっきりと見えた。わたしと老人の二人しかいない奇妙な空間にいるような感覚を覚えた。
目が合うと老人はにこりと笑った。顔にお面を張り付けたような奇妙な笑顔だった。
「あの、明るいところへ出たくて」
「明るいところはあっちじゃよ」
老人は、暗闇の中、すっと右手を伸ばし、指をさした。指の先を見ると、暗幕を針でつっついたかのような小さな光が灯っていた。わたしはその光を見て、安心する。お礼を言って、老人のもとから去ろうとした。足を出そうとして、ふらついて、転んだ。転んだ拍子に地面に何かがことりと落ちた。わたしはそれを手に取って、ぎょっとした。叫び声を上げた。それは、わたしの顔だった。わたしの顔が、剥がれ落ちたのだ。目の部分だけくり抜かれ、二つの穴が空いているそれはまるでお面だった。『わたしの顔』がわたしを見返していた。嫌な顔だ、わたしは剥がれ落ちた『わたしの顔』から眼を逸らした。
「おやおや、そんな寂しい顔になっちゃ、明るいところへ行けないねえ」
老人が言った。相変わらず、にっこりとお面のように固まった奇妙な笑顔を顔に貼り付けている。お前の顔こそ、取り外し可能なお面なのではないか。わたしはそのお面をはぎ取りたいような気持を抱えながら、老人の顔をぼうっと見ていた。
ふと気になって、わたしは手のひらで、自分の首から上の部分を撫でてみた。そこにはそれまであったはずの凹凸がなかった。包丁ですっとこそぎとられたかのように滑らかだった。わたしが自分の顔を、両手の指の腹でしきりに撫でていると、老人がポケットから手鏡を出した。鏡を使って、わたしの顔を見せてくれた。わたしはのっぺらぼうになっていた。口と鼻がない。眉もない。――けれど、二つの目だけが残っている。睫毛のない二つの目だけが見返している。不思議と恐ろしい気持ちにはならず、むしろほっとした。ああ、やっと。やっと顔がなくなった。
「明るいところに行きたいなら、醜い表情を隠すお面がいるじゃろう?」
老人の言っていることの意味はよく分からない。それでも、わたしは、とりあえず頷いた。なぜだか、その老人を救世主のように感じ始めていた。薄気味悪い、お面じみた老人の笑顔が、奇妙な引力を持って、わたしの心をひきつけ始めていた。
「ほら、これが新しい顔じゃよ」
見れば、老人が差し出した掌の上には、両目がくりぬかれた『人の顔』がぺったんこになって載っている。わたしではない、誰かの知らない『人の顔』。
わたしはお礼を言って、その『人の顔』を手に取った。指先に、冷たい、けれど生々しい弾力を感じて、わたしは安心して――
はっとして目を醒ました。何だろう今の。気味の悪い夢だった。いや、夢だったのだろうか。少女はぼんやりする頭で考えた。不自然な笑顔の老人、剥がれ落ちた自身の顔、手渡された生々しいお面――奇怪な情景が頭の中でぐるぐると入り乱れた。なんだか気味が悪くて訳が分からない。
少女は一人、暗闇の中、膝を抱えた。足の裏と尻に冷たい石の感触を感じる。どこかから呻き声のようなすすり泣きのような声が聞こえる。こつこつこつこつ。遠くで誰かが歩いている音がする。
ここはどこだろう。どうしてこんなところにいるのだろう。まだ夢から醒め切らないぼんやりとした頭で考える。きょろきょろとしたが、暗闇に目が慣れず何も見えない。灯りが欲しくなり、携帯電話はどこだろうと考えた。暗闇の中、手探りで何かないかと探したが、携帯電話も鞄も何も見つからなかった。ただ冷たい壁に囲まれていた。それと――何か冷たくて固くて細いものが手に触れた。目の前に、垂直に突き立てられた鉄の棒がいくつもあるようだった。一本、二本、三本、四本、五本――均等な間隔で鉄の棒が立っている。鉄格子。まるで牢屋に閉じ込められてしまったみたいだ。
あれ、と思う。おかしいなと首をひねる。どうしてこんなところにいるのだろう。だって、わたし――日向かなめは、確かに死んだはずなのに。
◇
彼女が学校に来なくなって三日が経った。三日間、誰にも使われなかった机と椅子が寂しくぽつんと西日にさらされている。多くの生徒は、自分のことで頭がいっぱいだからそんな空席目にも留めない。部活の練習、期末試験、気になるあの子のこと、ムカつくあいつのこと――皆、自分を取り巻く環境のことで頭がいっぱいだ。しかし、ある男子生徒だけは、この三日間、ふと気がつけば、その女子生徒、日向かなめの空席をぼんやり見つめていた。
三日前の朝礼で担任が言った。――日向さんが昨日の夜から行方知れずになっている。何か心当たりのあるものがいれば、速やかにわたしに報告するように。
教室は、一時、ざわついた。家にも帰らず、学校にも来ないという。「家出」なのか「事件」なのか、ひそひそと囁き合う声が聞こえた。心配する声も少なからずあった。しかし、そのひそひそも心配も少しずつ減っていき、三日目くらいになると、たぶんちょっとした「不登校」だから気にかけるほどのことじゃないだろうという雰囲気ができあがりつつあった。その席には誰も存在していなかったかのように、ただ淡々と時間が過ぎていった。
放課後、その男子生徒は少し沈んだ表情で、またその空席を見つめている。そうして、あの席に座っていた女子生徒――日向かなめのことを考えていた。
つい先週までは、毎日のように斜め前のあの席に、日向かなめは座っていたのだ。教壇の方を見る時に、ちょうど彼女の席の方向を見ることになるから、プリントを配る時に目が合うこともあった。――彼女が目を細め、控えめに笑いかけてくれるだけで、身体がじいんと熱くなり、腹の底から不思議な力が湧き上がるような気がした。
なぜだか、もう二度とそんなこと、授業中にかなめと目が合って、彼女が笑いかけてくれるなんて――そんなことは起こりえない気がした。
「たーなか、せいぎくん!」
ぽん、と頭を後ろから軽くはたかれ、正義は日向かなめの空席から視線を外した。声がする方を見れば、にやにやと笑った、調子の良さそうな男子生徒が立っている。きちんと制服を着こなしているのに、ブレザーの第二ボタンだけふらふらと取れかかっている。
「なんだ青田か。お疲れ。なに?」
正義の口から沈んだ声が漏れる。はたかれた拍子にずれた眼鏡をなおす。
「なにって失礼だな。お前、昨日部活さぼっただろ。だから迎えに来てやったよ」
相変わらずにやにやと笑いながら青田が言葉を返す。正義のテンションの低さなどお構いなしに、近くの椅子の上に尻をのせると、ぺらぺらと喋りつづけた。
「お前最近ぼうっとしてない? 俺が、名前読んでも、気づかないし、席に座ったまま固まってるし」
「そうかな。ちょっと考え事してただけだって」
「へえ? なに、考え事?」
「別にたいしたことじゃないよ」
「なんだよ。あ、好きな子でもできた?」
青田はにやにやと意地悪気な顔で見下ろしている。正義は、「別に、そういうんじゃ」と言って、言葉を濁した。
「図星かよ」
青田は少し驚いた調子で言う。
「だからそんなんじゃないって」
「ふうん。ま、別にいいけど」
青田は、それ以上つっこむ気はなかったようで、声の調子を変えて、再び言った。
「それより部活いくだろ! 早く準備しろよ」
正義は少しためらい、無意識に例の空席をちらりと見て、それから視線をさまよわせて、
「いや。今日やることがあるから、休むよ。部活」と言った。
「やること? やることなんてないだろ」
「それは」
正義は口ごもった。お前にやることがあるとすれば、家に帰って漫画を読むかゲームをするかくらいだろう、と調子の好い青田の表情は言っている。
「今日、母さんの帰りが遅いからさ。食事の用意とかしないといけなくて」
適当に嘘を吐いた。食事の用意など、正義は一度もしたことがない。
意外にも青田は、嘘だと思わなかったらしかった。「ふうん。たいへんだな」と、取れかかったブレザーの第二ボタンをいじりながら、相槌を打つだけだった。というか、正義が部活を休む理由にたいして興味を持っていないだけかもしれない。正義は話しを変えた。
「青田、それより、日向さんのことなんか知らない?」
「は、ヒナタ? ヒナタってあの例の日向?」
「……他にどの日向がいるんだよ。今日も学校来てないだろ。青田なにか知らない?」
「知ってるも何も……俺あの子と話したことねえし。ただの登校拒否じゃねえの?」
青田の口調が「俺全然興味ないし」と言っていた。「あんまり関わりたくもないし」という雰囲気まで感じ取れた。
「そっか。ごめん。何でもない」
「あ、分かった!」
青田が急に声を大きくした。
「は?」
「お前の好きな子って、その日向って子だろ」
そう言う青田の表情を見れば、顔中が今日一番のにやにやで埋め尽くされている。
正義は、そう言われても思ったほど、動揺しない自分に驚きながら、落ち着いた声で「そうかも」と言った。
その意外な反応に、青田は拍子抜けしたようで、少し黙った。それから心配げに眉を寄せ、少し低い声で、「お前、本当に大丈夫? そんなショック受けてんの?」と言う。
「うん、まあ。行方不明だっていうのに、みんな心配してないから気になって」
「ああ、そりゃ、だってあの子、一年の頃、不登校気味だったらしいし、またかって感じなんじゃねえの。
最近少しいじめられてたって聞くし。ただの不登校だろ」
ただの不登校なら、家には帰るだろ。そう思ったけれど、言ったところで、どうにもならないと思ったから、言葉は飲み込んだ。
「日向さんと正義、なんか接点あったっけ?」
「あの子と使ってる駅一緒だったからさ。何回か話したことあって」
「あー、確かに、お前が日向さんと喋ってるの見たことあるわ。まじ奇妙だったぜ」
「奇妙で悪かったよ」
正義は口をへの字にした。青田のいう『奇妙』というのは、普段女子と全く話さない、というか話せない正義が、よりによって日向かなめと――彼女は、女子の中でも少し特殊な立ち位置にいる――話していることが不可解だったという意味だろう。
青田は、明日の数学のテストがだるいだとか、隣の席の男子生徒の自慢がウザいとか好き勝手ぼやくと、「んじゃ、また明日!」と言って、さっさと支度を済ませ教室を出ていった。正義は、教室に一人取り残された。気が付けば、他の生徒も出ていたため、本当に一人だった。
黒板の上、ちくたくと、時を刻む時計を眺める。こうしている間にも、こうしてただぼんやりとしている間にも、彼女は何か恐ろしい事件に巻き込まれているのではないか。
――あるいは、すでに。
正義はその考えに吐き気を催して、その恐ろしい考えから逃げるように、急いで、荷物を積めると、教室を後にした。
心当たりが――そう、ないわけではない。あまりにもぼんやりとしているけれど、それでも縋るものがそれしかないのなら、縋るしかない。
正義は電車に乗ると、揺られながら考えた。日向かなめとの出会いから思い返していた。
続く。




