表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠けた月の夢を見る  作者: 秋野
12/13

12.死にたい感情と蛍の光


 禰木は橋の欄干に頬杖をついて、足元の下、流れる水を見ていた。場所は、城の裏手、緑に囲まれた、人気のないその場所を彼は好んでいて、一日の仕事が終わると、頭を冷ますために、度々足を運んでいた。


 日が沈んでしばらく経つと、その場所にはいつも明るい光がちらつき始める。黄色にも緑にも見える不思議な色を放って、水流の上を気ままに光が踊っている。よく見れば、その光は昆虫の尻だった。禰木は幻想的な景色に身をゆだねながら、この昆虫の名は何だったかな、と思い出そうとしていた。来るたびに、何だったかな、と思っては、思い出せないまま、帰るのだった。誰かに聞けばいいのだけれど、なぜか気が引けて訊くことができない。


 禰木の仕事は、この都の秩序の維持に貢献している。罪を犯したものを監視して、うつし世の匂いのするものを排除する仕事だ。


 犯罪とは一般的には、うつし世の匂いをさせるもののことだった。窃盗、強姦、暴行、詐欺、痴漢――それから表情罪。うつし世に比べれば数はぐんと少ないのだろうけれど、ここかくり世でもそうした事件は時々起きる。


 そうした犯罪の中でも、最も質が悪い犯罪は恋愛だった。恋愛は人から理性を奪う。人を凶暴にする。


 それは禰木の記憶が教えてくれるのではない。禰木が仕える都の教えだ。そして、都の教えが彼にとっての真理となる。それ以外、彼に頼るべき指針はない。なぜなら彼は、感情も記憶もない、空っぽの器だからである。


 禰木は今日も、城の地下牢で、罪穢れを持ってこの土地にやってきた哀れな少女に、うつし世の醜さを説いた。うつし世での汚らわしい記憶を持っていては魂がむしばまれるから、早くうつし世でのことは忘れるようにと教えた。古い名は捨て、新しい名を名乗っていきなさいと諭した。


 それは正しいことのはずだった。自分は正しいことをしている。そう思っていた。


 しかし――本当にそうだろうか。


 禰木は、うつし世は醜い、汚らわしい、と力の強い言葉を使っておきながら、その言葉に血が通っていないことを自覚していた。うつし世のことなど、とっくの昔に忘れてしまった。もともと自分自身がいた場所だということは知っている。知っているが、覚えていない。いったいうつし世の何がそんなに醜かったというのだろう。この土地よりも犯罪が横行しているというなら、確かに醜いかもしれない。しかし、その醜さを想像することができない。実感として思い出すことなど、できやしない。


 空っぽだった。自分はただ毎日雑務をこなす器だった。うつし世は恐ろしいところだ、と人に言い聞かせ、その面影を残すものの排除に尽力していながら、全くぴんと来ていない。仕事が終わると、こんなとりとめのない気持ちにとらわれて、虚しくなる。


 深い緑と水流の上を、淡い光が飛び交う――目の前の景色が綺麗だ、と思う気持ちだけは少なくとも確かだと思った。だから、こういう気持ちを大切に、


「あ、禰木さま!」


 高い声がした。振り向けば、暗闇の中、狸が一人立っている。笑った顔の狸だ。手に大きな籠を提げた笑い顔の狸は、橋板をこんこん鳴らし、駆けだしそうな足取りで禰木の方へ近づいてきた。


「小夜か。お面はとっていいよ」


 少女は、狸のお面を外した。愛らしい垂れ目の少女が現れる。その手に提げた籠の中には、無造作に放り込まれた白い布たちが見えた。給仕で使ったものだろう、ところどころ汚れている。洗い場に行く途中らしい。


「禰木さま、こんなところでなにしてらっしゃるんです?」


「いや、ちょっと考え事を」


「なにか難しいこと考えてらしたんでしょう」


 そう言って、ころころと笑った。彼女はよく笑う。禰木からすれば、どこに笑うところがあるのか全く分

らないところで、よく笑う。


 彼女は、名を小夜といい、最近、城で働き始めたばかりの給仕係だった。床を拭き、窓を拭き、皿を洗い、衣服を洗う。時に、ここの壺にほこりがたまっている、とちくちくと嫌味を言う天狗の気分をなだめ、嫌な顔一つせず割れた壺を磨く。狸は愛嬌を振りまくお面だった。いるだけで自然と場が和み、華やぐ。


 普段、禰木は給仕と話すことなどないが、彼女はなぜか、彼に懐いており、よく話しかける。城で働く者の多くが、禰木に遠慮がちな態度をとるなかで、彼女は、なれなれしいと言ってもいいくらいの距離感で禰木に話しかける。まだ城に来たばかりでその空気に慣れていなかった彼女は、位が上のものに対する距離の取り方を間違えたらしい。その距離感の間違え具合が、禰木にはなぜか心地よかった。だから、訂正する気もない。


 なんとなく懐かしいような感じがする。


「わあ、綺麗な蛍ですね! この土地に来てから、蛍を見るなんて初めてです!」


「ほたる?」


 禰木のきょとんとした顔に、小夜は無邪気な笑い声をあげた。「蛍を見ていたんじゃないんですか?」と言った。


「ああ、そう。ほたる、それを見ていた」


 そうか、ほたる――蛍か。言われてみれば、そういう名だった気がした。ひたすら幻想的だと崇めるように眺めていたものの名が分かり、少し拍子抜けしたような気分になる。


「あちらの丘の方まで、ずっと蛍の光がつづいていますね」


「うん」


 確かに、見てみればずっと先の方まで蛍の光が途切れることなく続いている。このあたりには蛍の餌か何かでもあってそれで群がっているのだろうか、とぼんやりと思った。


「なんだか不思議な光景。まるで天の川みたい」


「そうだね」



 小夜は夢見心地の様子で蛍の光を眺めている。


「なあ、小夜。うつし世のことを思い出すことはある?」


 だしぬけに、禰木はきいた。かねてから聞こうと思っていたわけではなく、ぽろりと口から出た問いかけだった。本来であれば、うつし世のことなど、口にするのも禁忌とされているから――もちろんうつし世を忘れろとさとす時は例外だけれど――この問いかけは、小夜にとっては予想外だった。


「うつし世の、ことですか?」


 小夜の声の調子が変わった。暗闇のためその表情は、禰木からは見えない。しかし、きまり悪そうにしていることは感じ取った。


「いや、何でもない。忘れてくれ」


 禰木は自分に呆れた。全く何を馬鹿なことをきいているのだろう。うつし世のことを訊くなんて。よりによって自分のような立場のものがきくなんて。どうも、あの罪穢れの少女とのやり取りが、自分におかしな影響を与えてしまったらしい。


「禰木さまは――禰木さまは、覚えていらっしゃいますか?」


 うつむいていた少女は、ぱっと顔を上げた。その眼には、気のせいか、涙がにじんでいるように見えた。その眼差しに意表を打たれ、禰木はごまかすことが出来なくなった。少し黙って、「いや」と話し出した。


「わたしは、何も覚えていないんだ。ここに来てから長いから。育った街の景色さえ何一つ思い出せない。生まれてからずっとここにいるような気持ちさえする」


 だから、胸にはいつもぽっかりと空洞がある。


「何も、何も覚えていらっしゃらないのですか?」


「ああ、何も」


 小夜の顔を見れば、その瞳からは既に涙は消えていた。禰木は、ほっとする。欄干の向こう、細く淡い軌跡をつくりだす昆虫の尻の方へと視線を転じた。ああ、蛍。


「わたしは、まだ覚えています。元の名は忘れましたが。そこでの景色もぼんやりとしか思い出せません。でも、感情を覚えているんです」


「感情? どんな感情?」と禰木は、何気なく聞く。


「死にたい、と思っていた感情です」


 心臓がどきんとした。


「時々、夢に見ます。知らない人に罵倒され、逃げ回る夢です。崖の淵まで、ぎりぎりと追い詰められるんです。崖の下では、白い波が岩場に打ち寄せて、その打ち寄せる音が、どどんどどんというその音が、心臓に直接響くように感じられるくらい大きく響くんです。後ろからは、飛び込め飛び込めって声がします。どうしようか迷っていると、はっと目が覚めるんです。そうして、ああ、夢だったんだな、と気付くと、幸せな気持ちになります」


 小夜は、禰木とは目を合わせないままそう言った。空っぽな禰木は、この痛々しい告白に、どう返事をすればいいのか分からなかった。


「わたしは、毎日、この感情を忘れたいと思っています。だから、禰木さまがうつし世のことを何も覚えていないのでしたら、わたしはそれをうらやましく思います」


 知らなかった。今まで、その明るい笑顔を振りまいていた彼女が、このような思いを隠していたなんて、全く知らなかった。気がつかなかった。禰木は、申し訳ないような、情けないような気持になって、彼女を慰めたいような気がした。


 しかし、その苦しみに共感できない禰木の口から、たいした慰めの言葉が出るはずがない。


「そうか。嫌なことを話させてしまって、すまないね。まだ仕事中だというのに」


「いえ、そんなこと……。胸の内を話せて、少し楽になりました。禰木さまも働き詰めで疲れていらっしゃるんでしょう?」


 そう言って、小夜は、覗くように、禰木の顔を見た。禰木は形だけの笑みを浮かべた。


「そうだね、少し疲れているのかもしれない。小夜も早めに仕事を切り上げて休むといい」


「はい、ありがとうございます。今日はこれで終わりです」


 小夜は籠を少し持ち上げると、笑って言った。その表情には、先ほどの憂いの色は見えない。それを見て、禰木は思う。皆、こうなのだろうか。あるいは、自分もうつし世のことを覚えていた昔は、こうだったのだろうか。心のうちに、痛いという感情を抱きつつも、平気な顔をして笑っていただろうか。


 それとも、と思う。皆、本当は自分のように空っぽな気持ちにとらわれているのだろうか。胸の空洞をもどかしく感じているのだろうか。感じているけれど、口にしないだけなのか。奇妙なお面を顔に貼り付けることで、胸の空洞からは目を背けてごまかしているのだろうか。


 籠を手に提げた少女は去っていく。禰木は身体をくるりと返し、背中を欄干に預けて仰向いた。濃紺の空の中、いつ見ても丸い月が怪しげな輝きを帯びて浮かんでいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ