選択肢2 預言者
楢崎省吾は、吉岡から届いたメッセージを読み返していた。
『明日、昼飯一緒にどうですか? 最近元気なさそうなんで、おごりますよ』
明日の昼休み、吉岡は会社の前の交差点で車にはねられる。
もちろん、楢崎が勝手に想像したことだ。部長が空想どおりに死んだのも、ただの偶然に決まっている。
それでも、もし本当に事故が起きたら。
楢崎は返信欄に文字を打ち込んだ。
『明日はあの交差点を渡らない方がいい』
送信する前に読み返し、理由を尋ねられたらどう説明するか考えた。まさか、吉岡が車にはねられて死ぬところを想像したとは言えない。
結局、電話をかけた。
「吉岡君、変なことを言うけど、明日の昼は会社の外に出ないでほしいんだ」
『どうしたんですか?』
「事故に遭う夢を見たんだよ。君が交差点で車にはねられる夢を」
電話の向こうで吉岡が笑った。
『楢崎さん、そんなことで電話してきたんですか』
「そうだよな。馬鹿げてるよな」
『いや、心配してくれたんですよね。分かりました。明日は一緒に社内で食べましょう』
楢崎は礼を言って電話を切った。
これでいい。
事故が起こらなければ、吉岡は無事に一日を過ごせる。それで十分だ。
ただ、もし事故が起こったとしても、自分が警告したせいで空想が外れたのか、最初から何も起こらなかったのか、もう確かめようがない。
少しだけ、惜しいと思った。
*
翌日の昼休み、二人は社員食堂で向かい合っていた。
「そういえば、昨日の夢って、どんな事故だったんですか?」
吉岡が弁当の蓋を開けながら尋ねた。
「君が横断歩道を渡っていたら、車が突っ込んできて」
「怖いですね。それ、何時頃です?」
「昼休みだったと思う」
「じゃ、ちょうど今ぐらいですね」
吉岡は笑いながら時計を見た。
その直後、窓の外から大きな衝突音が聞こえた。
食堂にいた社員たちが一斉に顔を上げる。
楢崎と吉岡は窓へ駆け寄った。
会社の前の交差点で、乗用車がガードレールに突っ込んでいた。歩行者用信号のすぐ脇だった。
車の前部は潰れていたが、通行人がはねられた様子はない。
吉岡はしばらく黙っていた。
「……楢崎さん」
「うん」
「これ、昨日の夢と同じ場所ですよね」
「たまたまだよ」
「でも、僕がいつも渡る横断歩道です」
「君は渡ってないじゃないか。だから夢とは違う」
吉岡は返事をしなかった。
その日の午後、事故を起こした車の運転手は軽傷で、歩行者に被害はなかったと知らされた。
楢崎は安心した。
吉岡が無事だったことも、誰も死ななかったことも。
だが、あの交差点で、まさにあの時間に事故が起きた事実だけは、いつまでも頭から離れなかった。
*
翌朝、吉岡は出社すると真っ先に楢崎の席へやって来た。
「楢崎さん、昨日は本当にありがとうございました」
「偶然だって」
「それでも助かったじゃないですか」
吉岡は深く頭を下げた。
それから、少し声を落とした。
「ところで、今日は何か見ましたか?」
「何かって?」
「事故とか、そういう夢です」
「いや、見てないよ」
吉岡はほっとした顔をした。
「よかった。実は今日、車で出かける用事があるんです」
楢崎は、何も見ていないことが安全の保証になるわけではない、と説明しようとした。
しかし吉岡はもう、自分の席へ戻っていた。
それから毎朝、同じ質問をされるようになった。
「今日は大丈夫ですか?」
「何か変な夢、見ませんでした?」
「明日は遠出するんですけど、どうでしょう?」
最初は冗談半分だった。
楢崎も笑って答えていた。
ところが、吉岡はその返事によって予定を変えるようになった。
楢崎が「今日は何だか嫌な予感がする」と漏らした日には、友人との約束を取り消した。逆に、何も見ていないと聞いた日は安心して外出した。
一度、楢崎が風邪で会社を休んだことがあった。
その日は朝から吉岡の電話が何度も鳴った。
『楢崎さん、今日、僕は大丈夫なんでしょうか』
「大丈夫だよ。何も起こらないって」
『本当ですか?』
「本当だよ」
『よかった。じゃあ会社に行きます』
電話を切ったあと、楢崎はしばらく天井を見つめていた。
自分は何を保証したのだろう。
そもそも、空想が現実になるのかさえ分かっていないのに。
*
一か月ほど経った頃、吉岡の様子が目に見えて変わり始めた。
以前は誰にでも愛想がよく、昼休みには同僚と外食することも多かったが、今は楢崎のそばを離れようとしない。
退勤時も楢崎が帰るまで待っている。
ある日、吉岡から本社への異動を打診されていると聞かされた。
「いい話じゃないか。君なら向こうでも十分やっていけるよ」
「でも、楢崎さんがいないでしょう」
「そりゃ、そうだけど」
「向こうで何かあっても、すぐには教えてもらえませんから」
楢崎は思わず笑った。
「だから、そんな能力なんかないって」
吉岡は笑わなかった。
「じゃあ、あの日の事故は何だったんですか?」
「偶然だよ」
「偶然だったら、僕は死んでいたかもしれませんよね」
楢崎は答えられなかった。
それから数日後、吉岡が異動を断ったと知った。
本社での昇進も見込める話だったらしい。
「もったいないことをしたな」
楢崎が言うと、吉岡は不思議そうな顔をした。
「何がですか?」
「せっかくの機会だったのに」
「命の方が大事でしょう」
あまりに当然のことを言うので、楢崎はそれ以上何も言えなかった。
*
その夜、楢崎は吉岡を呼び出した。
これ以上、自分のせいで吉岡の人生が変わっていくのを見ていられなかった。
二人きりの会議室で、楢崎は最初から説明した。
部長が死ぬ前夜、階段から突き落とす空想をしていたこと。
翌日、本当に部長が死んだこと。
偶然なのか分からなくなり、もう一度試そうと思ったこと。
そして、吉岡が車にはねられて死ぬところを、自分の意思で想像したこと。
「だから、予知したんじゃないんだ。君が死ぬところを、俺が勝手に考えただけなんだよ」
吉岡は黙って聞いていた。
「君を助けようと思って見えたんじゃない。最初は、能力を確かめるために君を殺そうとしたんだ」
楢崎は頭を下げた。
「本当に申し訳ない」
吉岡はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かに尋ねた。
「それで、部長は死んだんですよね」
「そうだ」
「僕の事故も、同じ場所で起きたんですよね」
「でも、君は死んでない」
「楢崎さんが教えてくれたからでしょう」
「だから違うんだって!」
思わず声を荒らげた。
「俺にはそんな力はないんだ。空想で人が殺せるわけないだろう!」
「じゃあ、どうしてあんな事故が起きたんですか?」
「偶然だって言ってるだろ!」
「二度も?」
楢崎は口を閉じた。
吉岡の目には、恐怖というより、何かを確信した人間の落ち着きがあった。
「楢崎さんが僕を殺そうとしたことは分かりました」
吉岡は言った。
「でも、最後には助けてくれたじゃないですか」
「それは……」
「だから、僕は楢崎さんを信じます」
その言葉を聞いたとき、楢崎は初めて、吉岡が恐ろしくなった。
*
翌日、吉岡はいつもどおり出社してきた。
楢崎の机にコーヒーを置き、笑顔で挨拶する。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
昨夜、殺人の空想を告白されたとは思えない態度だった。
吉岡は隣の椅子に座った。
「あの、ひとつお願いがあるんです」
「何だい」
「もう一度、僕が死ぬところを想像してもらえませんか」
楢崎は顔を上げた。
「何を言ってるんだ」
「この先、僕が事故に遭うとしたら、先に分かるかもしれないでしょう」
「そんなこと、できるわけないだろ」
「でも、一度できたじゃないですか」
「あれは、君を殺そうとして……」
「でも、僕は死ななかった。楢崎さんが警告してくれたからです」
吉岡は真顔だった。
「僕は、楢崎さんが事故を起こしたんじゃなくて、起きる事故を先に見ていたんだと思います」
「そんな保証はないだろ」
「分かっています。だから、怖いんです。次は何も知らないまま死ぬかもしれない」
「僕が死ぬところを考えてください。できるだけ詳しく。もし何か見えたら、教えてほしいんです」
吉岡は真顔だった。
楢崎は首を横に振った。
「嫌だよ。もう二度と、そんなことはしない」
吉岡はしばらく楢崎を見つめていた。
「……じゃあ、僕が死んでも、いいんですか?」
楢崎は答えられなかった。
「僕は、楢崎さんのおかげで助かったんですよ」
吉岡の声は穏やかだった。
「一度助けてくれたのに、次は助けてくれないんですか?」
*
その晩、楢崎は自宅の机に向かっていた。
吉岡からは、明日の予定がメッセージで届いていた。
通勤経路、外出する時間、立ち寄る予定の店。
最後に、こう書かれていた。
『何か分かったら、夜中でも連絡ください。命に関わることなので』
楢崎はスマートフォンを伏せた。
誰かを殺す空想をするのは、以前は仕事のストレスを解消するためだった。
今は違う。
空想するだけで人が死ぬかもしれない。だから、もう誰の死も考えたくなかった。
しかし、吉岡は自分を信じている。
あの日、警告したのが間違いだったのだろうか。
いや、警告しなければ吉岡は死んでいたかもしれない。
そう思うと、今さら見捨てることもできなかった。
楢崎は椅子に深く腰掛けた。
目を閉じる。
明日の朝、吉岡が家を出るところから想像した。駅へ向かう道、横断歩道、ホームの端。どこで、どんな事故が起こるだろう。
吉岡が電車に接触する姿を思い浮かべたところで、楢崎は目を開けた。
胸が苦しかった。
もし、この空想が本当に現実になったら。
だが、途中でやめてしまって、明日何かが起きたら。
楢崎は再び目を閉じた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
『楢崎さん、どうですか? 何か見えましたか?』
吉岡からだった。
楢崎は返信せず、もう一度、吉岡の死を思い浮かべようとした。
以前は嫌いな人間だけを殺していた。
今は、助けた人間を毎晩殺している。
そして明日の夜も、その次の夜も、吉岡は自分の死を見せてほしいと頼んでくるのだろう。
楢崎は目を閉じたまま、電車がホームへ入ってくるところからやり直した。




