選択肢3 目撃者
楢崎省吾は、吉岡から届いたメッセージに返信した。
『明日はちょっと用事がある。また今度にしてくれ』
すぐに返事が来た。
『了解です! また誘いますね』
吉岡は明日の昼休み、いつもの交差点を渡るだろう。
そこで車にはねられて死ぬ。
無論、楢崎が勝手に想像したことだ。部長が空想どおりに階段から転落死したのも、偶然に決まっている。
だが、もし吉岡まで空想どおりに死んだら。
楢崎はしばらく考えた末、明日の昼休みに交差点へ行くことにした。
自分の目で確かめればいい。
何も起きなければ、それで終わりだ。もう二度と、馬鹿げた空想などしなければいい。
ただ、一つだけ気になることがあった。
本当に事故が起きた場合、自分はどうするのだろう。
*
翌朝、吉岡はいつもどおり出社してきた。
「楢崎さん、おはようございます。昨日は遅くまですみません」
「ああ、おはよう」
「今度こそ飯、おごらせてくださいね」
吉岡は笑って自分の席へ向かった。
楢崎はその背中を見送った。
空想の中では、あの身体が車にはねられ、路面に叩きつけられる。頭の下に血が広がり、救急隊員が心臓マッサージを始める。
吉岡は何も知らない。
知らないまま、今日もいつものように仕事をしている。
昼休みが近づくと、楢崎は落ち着かなくなった。
十一時五十分。
吉岡は机に向かって書類を整理していた。
今ならまだ警告できる。
今日はあの交差点を通らない方がいい。そう一言伝えるだけで済む。
しかし、それでは何も確かめられない。
楢崎は立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
「昼飯ですか?」
「ああ」
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
「いや、先に済ませたい用事があるんだ」
吉岡は頷き、再び書類に目を落とした。
楢崎は会社を出た。
*
交差点は、会社から歩いて二分ほどの場所にあった。
片側二車線の道路に横断歩道が設けられ、向かいには吉岡がいつも利用しているコンビニがある。
楢崎は道路を渡り、コンビニの前に立った。
ここなら会社の出入口も、横断歩道もよく見える。
腕時計は十二時を少し過ぎていた。
車は絶え間なく行き交っている。
信号が青になるたび、会社員や学生が横断歩道を渡っていく。誰もが自分の用事に気を取られ、車にはねられるかもしれないなどとは考えていない。
楢崎は吉岡の姿を探した。
もし本当に事故が起きたら、助けなければならない。
だが、空想が現実になる瞬間を見届けたい気持ちもあった。
自分には人を殺せる力があるのか。
あの部長は、偶然死んだだけなのか。
それを確かめるために、わざわざここまで来たのだ。
十二時十分。
会社の出入口から吉岡が現れた。
信号が変わるのを待ち、横断歩道を渡ってコンビニに入っていく。
楢崎は少し離れた歩道で待った。
数分後、白い買い物袋を提げた吉岡が店から出てきた。会社へ戻る横断歩道の前で立ち止まる。
まだ、楢崎には気づいていない。
楢崎は道路を見た。
車はいつもどおり走っている。速度を落として交差点を曲がる車もあれば、直進していく車もある。
どこにも異常はなかった。
やはり、何も起こらないのだ。
楢崎は安心した。
そのとき、歩行者用信号が青に変わった。
吉岡が歩き始める。
楢崎は、なぜか足を動かせなかった。
空想の中では、このあと車が突っ込んでくる。
そして吉岡が死ぬ。
あと数秒。
それさえ過ぎれば、すべてが偶然だったと証明できる。
吉岡が横断歩道の中央に差しかかった。
そのとき、吉岡がこちらに気づいた。
「あれ、楢崎さん!」
笑顔で手を上げる。
楢崎も反射的に手を上げかけた。
直後、交差点へ進入してくる車が目に入った。
速度を落とす気配がない。
曲がろうとしているのか、直進するつもりなのか、一瞬判断できなかった。
吉岡はまだ楢崎を見ていた。
危ない。
そう思った。
しかし、楢崎は声を出さなかった。
車が近づいてくる。
吉岡が振り向く。
空想した光景と同じだった。
その一致に、楢崎は息を呑んだ。
次の瞬間、タイヤの擦れる甲高い音が響いた。
楢崎は走り出していた。
「吉岡!」
横断歩道へ飛び込み、吉岡の身体を突き飛ばした。
手のひらに背中の感触が残った。
部長を階段から突き落とした空想のときと、よく似ていた。
吉岡の身体が前方へ倒れる。
楢崎はその行方を確かめる間もなく、横から突き上げられるような衝撃を受けた。
地面が消えた。
視界の端で、信号機がひっくり返った。
何かが砕ける音がした。
それが車の音なのか、自分の身体の音なのかは分からなかった。
*
楢崎が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。
最初に見えたのは白い天井だった。
次に、右手に巻かれた包帯。
身体を動かそうとすると、腰の奥に鈍い痛みが走った。
右脚には何の感覚もなかった。
医師から、事故で脊椎と骨盤に重い損傷を負ったと説明された。
手術は終わっていたが、脚の麻痺がどこまで回復するかは分からないという。
吉岡は無事だった。
転倒した際に肘と膝を擦りむいただけで、大きな怪我はなかったらしい。
「楢崎さん!」
数日後、吉岡が見舞いに来た。
顔を見るなり、涙を流した。
「本当に、ありがとうございました」
楢崎は首を横に振った。
「無事でよかったよ」
「楢崎さんがいなかったら、僕、死んでました」
「そんなことは分からないよ」
「でも、車が来てたのに、全然気づかなくて」
吉岡は何度も頭を下げた。
「どうして、あそこにいたんですか?」
楢崎は一瞬、言葉に詰まった。
「たまたまだよ。昼飯を買おうと思って」
「そうだったんですか。本当に運がよかった……」
吉岡は、楢崎の包帯だらけの身体を見て口をつぐんだ。
しばらくして、もう一度頭を下げた。
「一生忘れません。楢崎さんは命の恩人です」
楢崎は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
吉岡は知らない。
自分が事故を予想していたことも、それを確かめるために交差点へ行ったことも。
車が近づいてきたとき、すぐには声を出さなかったことも。
あと数秒、見届けたいと思ってしまったことも。
楢崎は布団の下の右脚を見た。
動かそうとしても、足先は少しも動かなかった。
*
事故から半年が過ぎた。
楢崎はまだ車椅子で生活していた。
リハビリを続けていたが、右脚には十分な力が戻らず、以前のように歩ける見込みは立っていなかった。
会社にも復帰できなかった。
吉岡は何度も見舞いに来た。
仕事の話をしたり、差し入れを持ってきたり、ときには車椅子を押して病院の中庭を散歩したりした。
「楢崎さん、焦らなくていいですよ」
吉岡はいつもそう言った。
「今度は僕が助ける番ですから」
楢崎は、そのたびに申し訳なくなった。
あの日、自分が交差点に行かなければ、吉岡はどうなっていただろう。
本当に車にはねられ、死んでいたのだろうか。
それとも、横断歩道の向こうに自分がいなければ、吉岡は立ち止まらず、何事もなく渡り終えていたのだろうか。
吉岡が自分に気づいて手を上げたことも、あの事故に関係していたのかもしれない。
空想が事故を引き寄せたのか。
自分が事故を引き起こしたのか。
どちらとも判断できなかった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
楢崎はもう、事故以前の身体には戻れなかった。
*
退院した日の夜、楢崎は自宅の窓から外を眺めていた。
久しぶりの自室だった。
以前は何の苦労もなく出入りしていた部屋なのに、今は車椅子を動かすたび、家具の角に気をつけなければならない。
机も、ベッドも、扉も、すべて以前と同じ場所にある。
変わったのは自分だけだった。
楢崎は目を閉じた。
あの交差点を思い浮かべる。
青信号で歩き始める吉岡。
近づいてくる車。
自分が道路へ飛び出すところは想像しなかった。
吉岡が車にはねられ、路面に倒れる。救急車が到着し、病院へ運ばれる。
やがて死亡が確認される。
空想の中では、すべて最初に思い描いたとおりになった。
楢崎は目を開けた。
車椅子の足置きに、動かない右脚が載っていた。
しばらく見つめてから、もう一度目を閉じた。
今度は、あの日の自分を思い浮かべる。
車が近づいてきても、道路へ飛び出さず、その場に立っている。
吉岡が倒れても、ただ見ている。
すると不思議なことに、頭の中の自分は事故が終わると何事もなかったように歩き出した。
楢崎は、その姿が羨ましかった。
何度も同じ場面を想像した。
吉岡が死ぬたびに、楢崎は自分の足で歩いて帰った。
夜が更けても、空想をやめることができなかった。




