選択肢1 傍観者
楢崎省吾は、吉岡から届いたメッセージを読み返していた。
『明日、昼飯一緒にどうですか? 最近元気なさそうなんで、おごりますよ』
空想の中で、吉岡は明日の昼休みに事故死する。
当然ながら何の根拠もない。部長が階段から落ちて死んだのは偶然だ。吉岡まで死ぬなど、あるはずがない。
楢崎は返信欄に「明日は予定があるから」と打ち込んだ。
本当は何の予定もなかった。
『また今度な』
送信すると、すぐに返事が来た。
『了解です! また誘いますね』
明日も吉岡はいつもの交差点を渡るだろう。昼休みにはコンビニへ行き、弁当を買って会社へ戻ってくる。
事故が起こるかどうか、何もしなければ分かる。
そう考えた途端、楢崎はスマートフォンを伏せた。
何もしないのではない。ただ、余計なことをしないだけだ。
*
翌朝、吉岡はいつもどおり出社してきた。
「楢崎さん、おはようございます。昨日は遅くまですみません」
「いや、気にしなくていいよ」
「今度、うまい店に連れていきますよ」
吉岡は笑って自分の席へ向かった。
楢崎はその背中を見送った。
空想の中では、あの身体が車にはねられ、横断歩道に投げ出される。昨日は何度もその光景を思い浮かべたせいで、吉岡が無事に歩いている姿の方に違和感を覚えた。
昼休みが近づくと、楢崎は仕事に集中できなくなった。
警告するなら、まだ間に合う。
吉岡は向かいの席で書類を整理している。声を掛ければいい。今日だけ別の道を通ってくれと頼めばいい。
しかし、そんなことをすれば、吉岡に不審がられるかもしれない。
何より、事故が起こらなければ、空想に何の力もないことを確かめられる。
十二時を少し過ぎた頃、吉岡が席を立った。
「じゃ、昼飯買ってきます」
楢崎は顔を上げなかった。
「いってらっしゃい」
吉岡の足音が遠ざかっていく。
楢崎はパソコンに向き直り、開きっぱなしだった表計算のファイルを閉じた。別のファイルを開いたが、何をするつもりだったのか思い出せなかった。
窓の向こうから車の走る音が聞こえる。
交差点はすぐそこだ。
吉岡が弁当を買って戻るまで、十分もかからないはずだった。
何度も時計を確かめているうちに、廊下を駆ける足音がした。
「誰か、救急車!」
楢崎は椅子から立ち上がった。
事務所の入口に立っていた女性社員が、息を切らしながら言った。
「吉岡さんが、車に……!」
楢崎は窓へ向かった。
交差点には人だかりができていた。停車した車の向こうに何かが横たわっているらしく、集まった人々がしきりに地面を覗き込んでいる。
人影の隙間から、白い買い物袋が見えた。
そのそばに、弁当の容器が転がっていた。
昨日、空想した光景だった。
楢崎は窓枠に手をついた。
頭の中で、救急車が到着するところまで想像していた。吉岡は心臓マッサージを受け、やがて救急隊員の手が止まる。
あの続きまで現実になるのだろうか。
吉岡は病院に運ばれた。
その日の夕方、死亡が確認された。
*
部長に続いて吉岡まで亡くなり、職場はしばらく混乱した。
楢崎は警察から事情を聞かれることもなく、会社から責任を問われることもなかった。
吉岡の事故は、交差点を走っていた車が歩行者をはねたものだった。運転手の不注意が原因とされていた。
空想と違って、吉岡は事故現場では死ななかった。
頭を強く打ったことは一致していたが、交通事故では珍しくない。
部長が死んだのも、吉岡が死んだのも、偶然だったのだろう。
ただ、その偶然が二度続いただけだ。
楢崎はそう考えることにした。
吉岡の葬儀には参列した。
遺族から、生前の吉岡について尋ねられた。楢崎は、仕事熱心で、誰に対しても親切だったと答えた。
実際、そのとおりだった。
事故の前夜に食事へ誘われたことも話した。
「最後まで人の心配をしていたんですね」
吉岡の母親は、目元を押さえながら言った。
楢崎は何も答えられなかった。
自分が何もしなかったことを、誰も知らない。
*
部長と吉岡を失った部署では、仕事の引き継ぎが追いついていなかった。
もともと勤続年数の長かった楢崎に、業務の確認が集中するようになった。
それまで部長の指示を待っていた仕事も、今は自分で判断しなければならない。
最初は戸惑った。
だが、一度決めてしまえば、意外と仕事は進んだ。部長が毎回要求していた細かな報告も、必要なものだけに絞ることができた。
部下たちも楢崎の指示に従った。
「楢崎さんになってから、仕事がやりやすくなりました」
そう言われたとき、楢崎は思わず笑ってしまった。
誰かに仕事を褒められたのは、ずいぶん久しぶりだった。
一か月後、楢崎は正式に部署の責任者へ昇格した。
役職手当がつき、給料も上がった。
以前から不満だった残業も、仕事の割り振りを自分で決められるようになり、かなり減った。
今までのように、朝から部長の顔色を窺う必要もない。
自分の意見が会議で採用され、部下が相談に来る。退勤時には、笑顔で挨拶を交わす相手も増えた。
楢崎は、仕事へ行くのが苦痛ではなくなっていた。
生活まで変わった。
増えた収入で欲しかった家具を買い、休日には外食する余裕もできた。以前は日曜日になると翌日の出勤が憂鬱だったが、今はそれほどでもない。
何年も望んでいた生活が、ようやく手に入ったのだ。
部長が死に、吉岡が死んだことで。
楢崎は、その事実についてあまり考えないようにしていた。
*
昇格して初めての給料日。
銀行のアプリを開くと、先月よりも多い金額が振り込まれていた。
楢崎は何度か画面を確かめた。
間違いではない。
自分が働いて得た金だ。誰かから奪ったわけではない。
そのとき、部下からメッセージが届いた。
『昇進おめでとうございます! 今度みんなでお祝いしましょう』
楢崎は礼を返した。
ついでに、古いメッセージを整理しようとして、吉岡とのやり取りを見つけた。
『明日、昼飯一緒にどうですか? 最近元気なさそうなんで、おごりますよ』
楢崎の返事は、たった一言だった。
『また今度な』
あのとき警告していれば、吉岡は死なずに済んだかもしれない。
だが、警告したところで事故を防げたとは限らない。
何もしなかったから死んだのか。
何をしても死んだのか。
それを確かめる方法は、もうなかった。
楢崎はスマートフォンを置き、新しく買った椅子に身を預けた。
部屋は以前より広く感じられた。残業が減ったおかげで、平日の夜にも自分の時間がある。
ふと、最近は誰も空想の中で殺していないことに気づいた。
必要がなかったのだ。
腹の立つことも、憎い相手も、今は特にいない。
楢崎は照明を消し、寝室へ向かった。
明日も仕事だ。
早く会社へ行きたいと思った。
こんな気持ちで眠りにつくのは、何年ぶりだろう。
布団に入って目を閉じると、部長が階段から落ちるところが浮かんだ。
続いて、吉岡が車にはねられる光景。
どちらも、今ではほとんど恐ろしくなかった。
楢崎は二人の顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
代わりに、明日の仕事のことを考えた。
来週の会議で提案したいことがある。部下たちも、きっと賛成してくれるだろう。
久しぶりに、いい夢が見られそうだった。
楢崎は満ち足りた気分で眠りについた。




