殺人者
部長が階段から落ちて死んだ。前の晩、楢崎省吾は同じ階段で、部長の背中を突き飛ばしていた。
もちろん、頭の中での話だ。
嫌いな人間を空想の中で殺すのは、楢崎のささやかなストレス解消法だった。現実では言い返すことすらできない相手も、想像の中では好きなようにできる。殴りつけ、踏みつけ、時には殺してしまう。そうして目を開けると、不思議なほど気分が軽くなった。
部長は特に気に入っている相手だった。人前で楢崎の失敗を指摘し、反論すれば、その反論の間違いまで丁寧に説明してくれる。怒鳴られた方が、まだ腹も立てやすかった。
昨夜は、会社の非常階段を使った。先を歩く部長の背中に両手を当て、思い切り突き飛ばす。手すりをつかみ損ねた身体が踊り場に転がり、額を階段の角に打ちつける。しばらく痙攣していた足が動かなくなるまで、楢崎は上から眺めていた。
翌朝、出社すると、部長が昨夜、社内の階段で転落死したと知らされた。
「はぁっ……はぁっ……」
楢崎は真っ先に非常階段へ向かった。
事故のあった場所には立入禁止のテープが張られ、踊り場の床には、拭き取られた血の跡らしい染みが残っていた。
空想では、部長の頭はそこにぶつかった。
だが、偶然に決まっている。楢崎は昨夜、家にいた。部長に触れてもいないし、そもそも空想だけで人が死ぬはずがない。
それでも、仕事中に何度も自分の手を見てしまった。あの背中を押した感触が、まだ掌に残っているような気がした。
その日の夕方、会社から事故について説明があった。
防犯カメラには、部長が自分で足を滑らせる様子が映っていたらしい。第三者が関与した形跡はなく、警察も事件性はないと判断したという。
楢崎は胸を撫で下ろした。
やはり偶然だったのだ。部長は勝手に転んで死んだ。自分の空想とは何の関係もない。
帰宅してから、楢崎は改めて事故について調べた。
会社の通知には、部長が頭部を強打したと書かれていた。事故の発生時刻は午後九時過ぎ。空想をしていたのは、その一時間ほど前だった。
時間も一致しない。何より、階段から転落して頭を打つなど、珍しい事故ではあっても、あり得ないことではない。
これで疑う余地はなくなった。
ところが、調べ終えたとき、楢崎はひどく落胆していた。
自分でも意外だった。
あれほど恐れていたはずなのに、胸の奥に重苦しい失望が残っている。
もう一度、事故の情報を探した。防犯カメラの映像が公開されていないか調べ、現場の写真を探した。部長は本当に足を滑らせたのか。誰かに押されたような動きはなかったのか。
気づけば、検索欄には「不可解な転落事故」「原因不明の死亡」といった言葉を打ち込んでいた。
楢崎はパソコンから手を離した。
自分は何を探しているのだろう。
そこで、ある考えが浮かんだ。
もう一度、試してみればいい。
誰かを空想の中で殺す。その人間が実際に死ねば、偶然ではない可能性が高くなる。死ななければ、やはり自分には何の力もないということだ。
だが、本当にそんな力があれば、実験のために人を殺すことになる。
楢崎はパソコンを閉じた。
そんな馬鹿げた真似ができるはずもない。第一、誰を選ぶというのか。部長ほど憎い人間は、今の楢崎にはいない。
*
翌日、会社では部長の代わりに吉岡が仕事を取りまとめていた。
吉岡は楢崎より年下で、誰に対しても腰が低い。以前、楢崎が残業していたときには、自分の仕事を終えてから手伝いを申し出てくれたこともある。
「楢崎さん、今日はもう帰れそうですか」
「ああ。大丈夫だよ」
「よかった。昨日から顔色が悪かったんで」
吉岡はそう言って笑った。
彼を嫌う理由は、特になかった。
それなのに、楢崎は吉岡の顔を見ながら、もし彼を空想の中で殺したらどうなるだろう、と考えていた。
その日の昼休み、吉岡がいつものように弁当を買いに出かける姿を、楢崎は窓から眺めていた。
会社の前にある交差点を渡り、向かいのコンビニに入っていく。吉岡はほとんど毎日、同じ道を通っていた。
帰りも同じ横断歩道を渡る。
楢崎は、青信号で歩き始めた吉岡に車が突っ込んでくるところを想像した。
吉岡が路面に叩きつけられ、買い物袋から弁当が飛び出す。頭の下に血が広がり、駆け寄った通行人が救急車を呼ぶ。
想像しかけたところで、楢崎は慌てて目を開けた。
窓の外では、吉岡が無事に横断歩道を渡り終えたところだった。
ひどいことを考えてしまった。
その夜になっても、昼間に思い浮かべた光景が頭から離れなかった。
吉岡が車にはねられ、道路に倒れる姿。
楢崎は何度も頭を振って、その映像を追い払おうとした。
だが、忘れようとするほど細部が鮮明になっていく。
横断歩道の白線。車のフロントガラス。宙に浮く吉岡の身体。
ついには、頭の中で事故の続きを作り始めていた。
救急車が到着する。救急隊員が心臓マッサージを始める。やがて、その手が止まる。
吉岡は死んだ。
空想の中で、今度こそ完全に死んだ。
楢崎は目を開け、深く息を吐いた。
心臓が激しく打っていた。
部長を空想で殺したときとは違う。あのときは、ただ相手が憎かった。だが、吉岡には何の恨みもない。
それでも、事故の光景を思い浮かべている間、胸の奥には奇妙な興奮があった。
もし、これも現実になったら。
そう考えた瞬間、楢崎は自分の考えにぞっとした。
吉岡が死ぬかもしれないのだ。
明日の昼休み、あの交差点で。
いいや。そんなことが起こるはずない。何万という人間が毎日、頭の中で誰かの死を想像している。それがいちいち現実になっていたら、世の中は死体だらけだ。
部長の件だって、偶然だった。
しかし、あの踊り場に残っていた血の跡を思い出すと、どうしても安心できなかった。
楢崎はスマートフォンを手に取り、吉岡の連絡先を開いた。
警告すべきだろうか。
事故に遭う夢を見たから、明日はあの交差点を通らない方がいい。そう伝えるだけなら、難しいことではない。
もし警告して、何も起こらなかったら?
吉岡は助かるかもしれないが、何も起こらないことは、警告が効いた証拠にはならない。そもそも事故など起きるはずがなかったのかもしれない。
一方、警告せずに事故が起きれば。
楢崎は、そこまで考えて指を止めた。
自分は吉岡の命より、能力の真偽を知ることを優先しようとしているのか。
そのとき、吉岡からメッセージが届いた。
『明日、昼飯一緒にどうですか? 最近元気なさそうなんで、おごりますよ』
楢崎はしばらく画面を見つめていた。
いつもの交差点。いつもの昼休み。
吉岡は明日も、あの横断歩道を渡るつもりなのだ。
返信欄に指を置く。
事故のことを教えればいい。
いや、何もしなければいい。空想が現実になるはずなどないのだから。
それとも、交差点まで行って確かめるか。
楢崎は返事を書けないまま、スマートフォンを握りしめていた。
「どうしようか……」
選択1 特に何もしない。
選択2 吉岡に事故のことを警告する。
選択3 本当に事故が起きるのか、自分の目で確かめる。




