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空想殺人  作者: 大窟凱人


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1/4

殺人者

 部長が階段から落ちて死んだ。前の晩、楢崎省吾は同じ階段で、部長の背中を突き飛ばしていた。


 もちろん、頭の中での話だ。


 嫌いな人間を空想の中で殺すのは、楢崎のささやかなストレス解消法だった。現実では言い返すことすらできない相手も、想像の中では好きなようにできる。殴りつけ、踏みつけ、時には殺してしまう。そうして目を開けると、不思議なほど気分が軽くなった。


 部長は特に気に入っている相手だった。人前で楢崎の失敗を指摘し、反論すれば、その反論の間違いまで丁寧に説明してくれる。怒鳴られた方が、まだ腹も立てやすかった。


 昨夜は、会社の非常階段を使った。先を歩く部長の背中に両手を当て、思い切り突き飛ばす。手すりをつかみ損ねた身体が踊り場に転がり、額を階段の角に打ちつける。しばらく痙攣していた足が動かなくなるまで、楢崎は上から眺めていた。


 翌朝、出社すると、部長が昨夜、社内の階段で転落死したと知らされた。


「はぁっ……はぁっ……」


 楢崎は真っ先に非常階段へ向かった。

 事故のあった場所には立入禁止のテープが張られ、踊り場の床には、拭き取られた血の跡らしい染みが残っていた。

 空想では、部長の頭はそこにぶつかった。

 だが、偶然に決まっている。楢崎は昨夜、家にいた。部長に触れてもいないし、そもそも空想だけで人が死ぬはずがない。

 それでも、仕事中に何度も自分の手を見てしまった。あの背中を押した感触が、まだ掌に残っているような気がした。


 その日の夕方、会社から事故について説明があった。

 防犯カメラには、部長が自分で足を滑らせる様子が映っていたらしい。第三者が関与した形跡はなく、警察も事件性はないと判断したという。

 楢崎は胸を撫で下ろした。

 やはり偶然だったのだ。部長は勝手に転んで死んだ。自分の空想とは何の関係もない。


 帰宅してから、楢崎は改めて事故について調べた。

 会社の通知には、部長が頭部を強打したと書かれていた。事故の発生時刻は午後九時過ぎ。空想をしていたのは、その一時間ほど前だった。

 時間も一致しない。何より、階段から転落して頭を打つなど、珍しい事故ではあっても、あり得ないことではない。

 これで疑う余地はなくなった。

 ところが、調べ終えたとき、楢崎はひどく落胆していた。

 自分でも意外だった。

 あれほど恐れていたはずなのに、胸の奥に重苦しい失望が残っている。

 もう一度、事故の情報を探した。防犯カメラの映像が公開されていないか調べ、現場の写真を探した。部長は本当に足を滑らせたのか。誰かに押されたような動きはなかったのか。

 気づけば、検索欄には「不可解な転落事故」「原因不明の死亡」といった言葉を打ち込んでいた。

 楢崎はパソコンから手を離した。

 自分は何を探しているのだろう。

 そこで、ある考えが浮かんだ。

 もう一度、試してみればいい。

 誰かを空想の中で殺す。その人間が実際に死ねば、偶然ではない可能性が高くなる。死ななければ、やはり自分には何の力もないということだ。

 だが、本当にそんな力があれば、実験のために人を殺すことになる。

 楢崎はパソコンを閉じた。

 そんな馬鹿げた真似ができるはずもない。第一、誰を選ぶというのか。部長ほど憎い人間は、今の楢崎にはいない。


     *


 翌日、会社では部長の代わりに吉岡が仕事を取りまとめていた。

 吉岡は楢崎より年下で、誰に対しても腰が低い。以前、楢崎が残業していたときには、自分の仕事を終えてから手伝いを申し出てくれたこともある。


「楢崎さん、今日はもう帰れそうですか」


「ああ。大丈夫だよ」


「よかった。昨日から顔色が悪かったんで」


 吉岡はそう言って笑った。

 彼を嫌う理由は、特になかった。

 それなのに、楢崎は吉岡の顔を見ながら、もし彼を空想の中で殺したらどうなるだろう、と考えていた。


 その日の昼休み、吉岡がいつものように弁当を買いに出かける姿を、楢崎は窓から眺めていた。

 会社の前にある交差点を渡り、向かいのコンビニに入っていく。吉岡はほとんど毎日、同じ道を通っていた。

 帰りも同じ横断歩道を渡る。

 楢崎は、青信号で歩き始めた吉岡に車が突っ込んでくるところを想像した。

 吉岡が路面に叩きつけられ、買い物袋から弁当が飛び出す。頭の下に血が広がり、駆け寄った通行人が救急車を呼ぶ。

 想像しかけたところで、楢崎は慌てて目を開けた。

 窓の外では、吉岡が無事に横断歩道を渡り終えたところだった。

 ひどいことを考えてしまった。


 その夜になっても、昼間に思い浮かべた光景が頭から離れなかった。

 吉岡が車にはねられ、道路に倒れる姿。

 楢崎は何度も頭を振って、その映像を追い払おうとした。

 だが、忘れようとするほど細部が鮮明になっていく。

 横断歩道の白線。車のフロントガラス。宙に浮く吉岡の身体。

 ついには、頭の中で事故の続きを作り始めていた。

 救急車が到着する。救急隊員が心臓マッサージを始める。やがて、その手が止まる。

 吉岡は死んだ。

 空想の中で、今度こそ完全に死んだ。

 楢崎は目を開け、深く息を吐いた。

 心臓が激しく打っていた。

 部長を空想で殺したときとは違う。あのときは、ただ相手が憎かった。だが、吉岡には何の恨みもない。

 それでも、事故の光景を思い浮かべている間、胸の奥には奇妙な興奮があった。

 もし、これも現実になったら。

 そう考えた瞬間、楢崎は自分の考えにぞっとした。

 吉岡が死ぬかもしれないのだ。

 明日の昼休み、あの交差点で。

 いいや。そんなことが起こるはずない。何万という人間が毎日、頭の中で誰かの死を想像している。それがいちいち現実になっていたら、世の中は死体だらけだ。

 部長の件だって、偶然だった。

 しかし、あの踊り場に残っていた血の跡を思い出すと、どうしても安心できなかった。

 楢崎はスマートフォンを手に取り、吉岡の連絡先を開いた。

 警告すべきだろうか。

 事故に遭う夢を見たから、明日はあの交差点を通らない方がいい。そう伝えるだけなら、難しいことではない。

 もし警告して、何も起こらなかったら?

 吉岡は助かるかもしれないが、何も起こらないことは、警告が効いた証拠にはならない。そもそも事故など起きるはずがなかったのかもしれない。

 一方、警告せずに事故が起きれば。

 楢崎は、そこまで考えて指を止めた。

 自分は吉岡の命より、能力の真偽を知ることを優先しようとしているのか。

 そのとき、吉岡からメッセージが届いた。


『明日、昼飯一緒にどうですか? 最近元気なさそうなんで、おごりますよ』


 楢崎はしばらく画面を見つめていた。

 いつもの交差点。いつもの昼休み。

 吉岡は明日も、あの横断歩道を渡るつもりなのだ。

 返信欄に指を置く。

 事故のことを教えればいい。

 いや、何もしなければいい。空想が現実になるはずなどないのだから。

 それとも、交差点まで行って確かめるか。

 楢崎は返事を書けないまま、スマートフォンを握りしめていた。


「どうしようか……」



選択1 特に何もしない。



選択2 吉岡に事故のことを警告する。



選択3 本当に事故が起きるのか、自分の目で確かめる。

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