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白銀の果てに散った星  作者: じろう


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第7話 上がった口角

家畜の糞尿と、古びた油の匂いが鼻を突く。

辺境の村。僕たちは領主の館の裏手で、石のように硬く凍りついた薪を割り続けていた。


カーン、カーンと乾いた音が、薄暗い曇天に吸い込まれていく。

振り下ろす斧の柄から伝わる痺れが、感覚のない手のひらを通り越して肘まで響く。


「――来たぞ! 教会の『回収馬車』だ!」


遠くで村人の声が弾けた。

僕の持つ斧が、空を切って雪に突き刺さる。ジン先輩の丸太を割る手も、ピタリと止まっていた。

村の広場へ続く細い道を、分厚い純白の布で覆われた馬車が進んでくる。吹雪にも泥にも汚れていない、この世界で最も不自然な白。

風に乗って、あの甘ったるい香の匂いが微かに流れてきた。路地裏で嗅いだ、猟犬たちの匂い。


「見ろよ、またあいつだぜ」


「へへっ、昔は泣く子も黙るAランク勇者様だったのによぉ」


薪割りを放り出し、僕たちは広場の隅の建物の陰に立っていた。

馬車の後ろから、二人の神官に両脇を抱えられるようにして一人の男が引きずり出されてくる。


泥だらけのボロ布を纏い、足元はおぼつかない。かつては腕に刻んだ傷跡が勲章だったろう、その太い腕が、今は力なく揺れている。もし無精髭を剃って真っ直ぐに立たせたら、ジン先輩に似ている気がした。

焦点の合わない虚ろな目が、ふらふらと宙を泳いでいる。


「……」


虚ろな目が空を見て、ただ微かにひび割れた唇だけが動いていた。

だが、神官たちはまるでただの備品を扱うように、その男を乱暴に雪の上に引き倒した。


「さあ、神の恩寵に感謝を」


神官の一人が、男の破れた服を左脇腹のあたりまで乱暴に引き裂いた。

息を呑んだ。

男の左脇腹の皮膚が、赤黒くケロイド状に爛れている。その中心には、不自然に丸く抉れた、黒い穴。


「……あれが、『抜き管』の痕……」


震える声が漏れた。

教会が、勇者の体から直接魔力を吸い上げるための『聖痕』。


神官が銀色の奇妙な器具をその黒い穴に突き立てた瞬間、男の体がビクンと大きく跳ねた。

声にならない、ヒューッという空気が漏れるような絶叫。男の体から、淡い青色の光が器具を通って馬車のタンクへと吸い込まれていく。


左脇腹の奥にある小さな熱が、怯えたようにギュッと縮こまった。

たまらなくなって隣を見上げる。


ジン先輩は、微動だにしなかった。

だが、分厚い外套の陰で、丸太のような腕が限界まで握り込まれている。革手袋がギリギリと軋む音だけが、彼の無言の咆哮を代弁していた。


搾りカスのような魔力を抜き取られ、男は雪の上にゴミのように放り出された。


「本日の回収は以上です。神の恵みがあらんことを」


馬車が去っていく。

雪の上に転がされた男に、誰も見向きもしない。

村人たちは完全に無関心だ。無邪気に走り回る子供たちがその横を通り過ぎていくが、一瞥もくれない。まるで、最初からそこに転がっている道端の石ころのように。男は動かなかった。生きているのか死んでいるのか、それすら誰も確かめようとはしなかった。


胃の奥から、強烈な酸の匂いが込み上げてきた。

僕は膝から崩れ落ち、雪に手をついた。何度も何度も、出ない胃液を吐き出そうと咽せる。

背中を叩く手はない。ジン先輩はただ、その隻眼で男の姿を氷のように冷たく見据えていた。


その夜。

村を離れた雪原の岩陰で、僕たちは焚き火を囲んでいた。

炎の爆ぜる音と、時折吹き付ける風の唸りだけが、重い沈黙を埋めている。


左脇腹の熱は、まだ鈍く縮こまったままだ。昼間の光景が目に焼き付いて、目を閉じてもあの虚ろな顔が浮かんでくる。

膝を抱え、ひたすらに炎の揺らぎを見つめていた、その時。


キュッ、キュッ。


硬い雪を削る音がした。

顔を上げると、ジン先輩が焚き火のそばの平らな雪面に、木の枝を押し当てて何かを引っ掻いていた。


「……先輩?」


無言のまま、ジン先輩が枝を雪に突き刺して退いた。

火明かりに照らされた雪の表面に、不格好で角張った、四つの文字が並んでいる。


「ル、カ……?」


僕がぽつりと呟くと、ジン先輩は短く鼻を鳴らした。


「お前の名前だ」


「え……?」


「こっちが、俺の名前だ」


ジン先輩がもう一度枝を手に取り、今度は二つの文字を刻む。


「……ジン」


声に出して読むと、彼は枝を僕の足元に放り投げた。


「書け」


「えっ、でも、僕、文字なんて……」


「読めない、書けない。そんな奴はギルドの依頼書で騙される。……お前が一人になった時、すぐに死ぬ」


焚き火の熱が、一瞬だけ遠のいた気がした。

一人になった時。

あの夜、先輩の左脇腹から聞こえた、あのガラスが割れるようなピキッという音を思い出す。


僕は慌てて凍える指から手袋を引き剥がし、素手で枝を握りしめた。


「一、一人になんて、なりませんよ! ずっと一緒に泥掻き出すんですから!」


わざと大きな声を出して、雪の上に力任せに線を引く。

ルカ。ジン。

歪で、線が震えている。何度も何度も、隣の文字を真似て雪を削った。

あの男の顔を思い出すたび、左脇腹の熱がまた縮こまった。だから僕は、雪の上の文字だけを必死に見つめた。

指先がちぎれそうなほど冷たいのに、なぜか目の奥が熱くて、炎の光が滲んでうまく書けない。


「……線が一本足りねぇぞ」


「うるさいな! 今から書くところです!」


鼻をすすりながら、僕はまた雪を引っ掻いた。


「……三日で覚えろ。覚えられねぇなら殴るぞ」


言い終わったあと、先輩は一度だけ拳を口元に当てた。

そのまま外套に深く身を沈め、口を閉ざした。

縮こまっていた左脇腹の熱が、焚き火の温かさに溶けるように、少しだけ穏やかな脈動を取り戻し始めていた。


翌朝。

抜けるような青空と、目を刺すような純白の雪原。

相変わらず気温は狂ったように低いが、風がない分だけ歩きやすい。


「ル……カ……ジン……あとは難しいな……」


僕は歩きながら、昨夜覚えたばかりの文字を指先で空中に書いていた。

自分の名前と、先輩の名前。たったそれだけのことなのに、頭の中に新しい道具を手に入れたような、妙な万能感があった。

なんだ、文字って案外簡単じゃないか。これなら、いつかギルドの依頼書の文字だって全部読めるようになるかもしれない。


「先輩! 僕、次の街に着いたら、自分で依頼書を選んでみま――」


意気揚々と振り返り、勢いよく足を前に踏み出した。


――ズボッ。


「あっ」


雪の下に隠れていた太い木の根に、ブーツのつま先が完璧に引っかかった。

体が宙に浮く。

両手でバランスを取る間もなく、視界が真っ白に染まった。


ドスッ!

「んがッ!?」


顔面から、見事なまでに雪原へダイブした。

鼻の奥に氷の粒が弾け、冷たさを通り越した痛みが脳髄を突き抜ける。


「いっっっったぁ……!!」


手足をバタつかせながら、雪から顔を引き抜く。

鼻血は出ていないが、鼻の頭が真っ赤に腫れ上がり、じんじんと熱を持っていた。涙目で鼻を押さえながら、雪の上に座り込む。


痛い。冷たい。恥ずかしい。

抗議するように顔を上げると――僕を見下ろすジン先輩の顔が、いつもと違った。


分厚い外套のフードの奥。

その隻眼が、一度だけ細められた。

無骨な顔の、口の端が。

ほんの、数ミリだけ。


確かに、上に持ち上がっていたのだ。


「……フッ」


微かな、本当に微かな、息が漏れる音。


「――っ! 今、笑いましたよね!?」


僕は雪を握りしめて立ち上がり、先輩の顔を指差した。


「笑ってねぇ」


「絶対笑った! 完全に鼻で笑いましたよ今!」


「気のせいだ」


表情を元の険しいものに戻し、ジン先輩はさっさと背を向けて歩き出した。


「ちょっ、待ってくださいよ! 今のは僕が油断しただけで――」


慌てて雪を払いながら、その大きな背中を追いかける。


ザク、ザク。

二つの足音が、真っ白な世界に響く。


昨日の、絶望のどん底のような村の光景は消えていない。

猟犬たちは今も僕たちを探し、先輩の器には確実にヒビが入っている。

世界は残酷で、底冷えして、救いなんてどこにもない。


でも。


「先輩、もう一回笑ってみてくださいよ!」


「うるせぇ」


「減るもんじゃないし!」


「……置いてくぞ」


前を歩く大きな背中と、左脇腹の奥で脈打つ確かな熱。

僕は腫れた鼻をさすりながら、少しだけ足早に、その足跡をなぞるように歩いた。

凍りついた真っ白な世界で、ここだけが、ほんの少しだけ温かかった。

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