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白銀の果てに散った星  作者: じろう


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第8話 ハルと壁

硬い雪を削る風の音が、鼓膜をずっと叩き続けている。

街と街を繋ぐ、かつては街道と呼ばれていたはずの獣道。


「……かつて、せ、かい、には……」


分厚いミトンを外し、赤黒くひび割れた指先で、氷に覆われた古い石碑をなぞる。

指先に伝わる凹凸を、頭の中の真新しい文字の輪郭と結びつけていく。


「ハ、ル……?」


聞いたことのない音だった。


「ハル、があった。……なんだこれ。ジン先輩、ハルってなんですか? 食べ物?」


数歩先を歩いていた大きな背中が、ピタリと止まる。

振り返った隻眼が、石碑と僕の顔を交互に見た。


「……雪が溶けて、空から温かい水が降る季節のことだ」


低い、くぐもった声だった。


「温かい水? 温泉みたいな?」


「……知らねぇ。昔の文献にそう書いてあっただけだ。地面から緑の草が生えて、氷がどこにもなくなるらしい」


「氷がない? じゃあ、泥も凍らないんですか」


僕は想像してみた。

一面の泥が凍らずに、ずっとぐちゃぐちゃのまま広がっている世界。


「……最悪じゃないですか。足元ドロドロだし、ドブの匂いがずっと消えないってことですよね。昔の人はそんなのが好きだったんですか?」


「さあな」


ジン先輩は小さく息を吐き、再び歩き出した。

微かに、喉の奥で鳴るような短い咳が風に混じった。

石碑の続きには『次のハルを待っている』と刻まれていたけれど、そんなドブ臭い季節を待つ意味が分からなくて、僕は再びミトンをはめて先輩の背中を追った。


数日後。

僕たちは、切り出された黒い石の防壁に囲まれた、中規模の防壁都市にいた。


空は重い鉛色。街のあちこちで稼働する巨大な魔力炉から吐き出される煙が、雪の匂いを消し飛ばしている。

地下坑道での魔石運搬作業を終え、僕たちはギルドのカウンターにギシギシに凍ったブーツを引きずりながら立っていた。


「本日の報酬、銀貨一枚と銅貨二枚です」


分厚く曇った防護硝子ガラス越しに、受付の女性が事務的な手つきで硬貨を滑らせてくる。

僕は台紙を受け取り、硬貨に手を伸ばしかけて――止まった。


「……あの、足りません。約束は銀貨一枚と銅貨五枚です」


受付の女性は、感情のない目で手元の帳簿をトントンと揃えた。


「今朝から、本部より『特区防壁維持費』の特別徴収が始まりました。ギルド依頼の報酬から、一律で銅貨三枚が差し引かれます」


頭の中が真っ白になった。

銅貨三枚。それは、僕たちが一日分の黒パンと、底に少しだけ塩気の溜まった薄いスープにありつくための、命の対価だ。


「そんな! だって、僕たちこの仕事のために朝からずっと泥水の中で……!」


バンッ、と。

僕は無意識に、分厚い硝子を両手で叩いていた。

受付の女性はビクッとしたものの、すぐに冷ややかな視線を僕に向けた。彼女は悪くない。ただ、上の決定を伝えているだけだ。


「あのね、ボク。払えないなら、教会の『配給』に行きなさいな。勇者なら、魔力を少し提供すれば温かいスープがもらえるわよ」


「ちがっ、僕は、僕たちはちゃんと働いて――」


肩を、分厚い手でガシリと掴まれた。

分厚い革手袋の感触。ジン先輩だった。


「……行くぞ」


有無を言わさない、氷のような声。

先輩はカウンターの硬貨を無造作に掴み取り、踵を返した。

僕は唇を噛み切りそうなほど食い縛りながら、その背中を追ってギルドを飛び出した。


冷え切った路地裏を歩く。

胃袋が、空腹と怒りでギリギリと音を立てて収縮していた。


「なんで……なんで抗議しないんですか! 僕たちがどれだけ泥水飲んで……!」


前を歩く先輩は答えない。

ただ、左脇腹を庇うように外套の上から強く押さえているだけだ。


その時だった。

ふわりと、甘い匂いが鼻を掠めた。


「あの、すみません」


澄んだ、鈴を転がすような声。

路地の入り口に、一人の若い女性が立っていた。

上等な白いローブ。胸元に銀糸で刺繍された魔導学院の紋章を見て、僕は思わず背筋を伸ばした。

その胸元で揺れる蒼い結晶――高純度魔石からは、柔らかな熱と膨大な魔力の匂いがした。


「先ほど、ギルドでのやり取りが聞こえてしまって……」


女性は、困ったように眉を下げていた。

その目は、路地裏の汚水を見るような目ではない。純粋な、痛ましいものを見るような、揺るぎない善意の目だった。


「防壁の維持費は、本来、この壁の恩恵を受けている私たちが払うべき税です。あんな風に、泥だらけになって働いてくださる方々から搾取するなんて、間違っています」


彼女は一歩踏み出し、白い手袋に包まれた両手を差し出した。

その指先が、迷うように一度だけ微かに震える。

その手の中には、銀貨が三枚、乗っていた。


「私はハンナと申します。どうか、これを受け取ってください。せめて、温かい食事を」


そして、困ったような、ひどく可哀想なものを見る目で彼女は言った。


「防壁の外の生活なんて、私には想像もつきませんから……」


お腹が、キュルリと鳴った。

銀貨三枚。これがあれば、あの肉の脂が浮いた温かいシチューが腹いっぱい食べられる。ジン先輩にも、栄養のあるものを食べさせられる。

彼女は、悪意で僕たちを憐れんでいるわけじゃない。本当に、純粋に、僕たちを助けようとしてくれている。


「あ、ありがとうご――」


僕が霜焼けで赤黒く腫れた手を伸ばしかけた、その瞬間。

ドンッ、と。

ジン先輩の巨体が、僕と彼女の間に割り込んだ。


先輩の隻眼が、女性の胸元で揺れる蒼い石を見た。

隻眼の奥で、何かが凍りついたように見えた。

その一瞬だけ、左脇腹を押さえる分厚い革手袋の指先にギリッと力が入る。


「俺たちは、物乞いじゃねぇ」


地の底から響くような声だった。

その隻眼が、今度は女性の白い手袋を射抜く。


「……っ」


女性の顔から、さっと血の気が引いた。彼女は銀貨を持ったまま、後ずさる。

彼女の胸元の美しい魔石が放つ、甘くて温かい魔力の匂い。それは、教会で嗅ぐ匂いと全く同じだった。なぜだか、あの分厚い白布で覆われた『回収馬車』と、そこへ吸い込まれていく青い光の姿が頭に浮かんだ。

傷ついた小動物のような目。胸元の石がどこから来たのか、彼女は本当に何も知らないみたいだった。ただ純粋に、優しいだけの人なんだと思う。


ジン先輩はそれ以上何も言わず、僕の腕を乱暴に引っ張って歩き出した。


街の端にそびえる、巨大な魔導水路の橋脚下。

凍りついた石造りのアーチの間を、ヒューヒューと風が吹き抜ける。


手の中には、受付でもらった銅貨二枚。

腹の虫は、とうの昔に鳴くのをやめていた。


「……もらえば、よかったじゃないですか」


膝を抱えたまま、僕はボソリとこぼした。


「あの人、いい人でしたよ。先生みたいに、いい匂いがして」


「……」


「銀貨があれば、先輩にちゃんとした肉を……」


バキッ。

隣で、ジン先輩が拾ってきた廃材の木を、素手で真っ二つにへし折った。


「いい人だから、なんだ」


低く、ひび割れた声が降ってくる。


「……善意なら、搾取されてもいいのか。優しく撫でられながらなら、『抜き管』を刺されても笑って死ねるのか」


僕は、顔を上げられなかった。

あの元Aランク勇者の虚ろな目と、かすかに動いた唇がフラッシュバックする。

あの男も、昔は誰かの『善意』にすがり、誰かを守るために器を広げ続けたのかもしれない。


「いいか、ルカ」


先輩はそこで言葉を切り、へし折った木を乱暴に焚き火へ投げ込んだ。

炎がパチパチと爆ぜる。


それ以上、先輩は何も言わなかった。ただ、炎に照らされた横顔は岩のように硬かった。

左脇腹を庇うように押さえる分厚い革手袋。その下で、器に刻まれたヒビがピキリと音を立てるのを、僕は確かに聞いた気がした。


先輩の言っていることは、僕にはよく分からなかった。

あの白いローブのハンナという女性は、本当に僕たちを助けようとしてくれていたはずだ。

でも、銀貨を差し出した彼女の、泥を知らない真っ白な手袋――そして胸元で光っていた蒼い石の美しさだけが、なぜか頭から離れなかった。


――次のハルを待っている。


あの石碑の文字が頭をよぎる。

温かい風が吹き、氷が溶ける季節。

もし本当にそんな季節が来るなら。いつか、この冷え切った世界からドブの匂いが消えて、先輩がこんな風に怖い顔をしなくても済む日が来るのだろうか。


「……腹、減りましたね」


僕が震える声でそう言うと、ジン先輩は一つだけ残っていた干し肉の欠片を、無言で僕の膝の上に放り投げた。


硬くて、塩辛いだけの肉の欠片。

それを無理やり胃袋に流し込むと、疲労という名の鉛のような澱が、冷え切った体の底へと静かに沈んでいった。


――ただ塩辛いだけの肉なのに。

なぜか今日は、少しだけ苦かった。

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