第4話 手紙の清算と、空っぽの温室
猛吹雪の夜からずっと懐に抱えていた手紙。
宛先の街へ向かう最後の野営の夜。僕は焚き火の前で、そのしわくちゃの紙切れを見つめていた。
雪と体温でインクは滲み、宛名もかろうじて読める程度だ。
「もう、届けなくてもいいかな……」
ふと、そんな呟きが口をついて出た。
何年も持ち歩いた。もう十分にやったんじゃないか。凍えそうになりながら、ふとそんな疲れが頭をよぎった。けれど、数秒の静寂の後、僕はまたその手紙を大切に懐の奥深くへとしまい込んだ。
向かいに座るジンは、薪をくべながら何も言わなかった。
翌日。街に着いてすぐ、ギルドの掲示板で一つだけ仕事を取った。
宿の裏口から倉庫へ、重い木箱を何往復か運ぶだけの仕事だ。
終わると、宿の主人は振り向きもせず、カウンターの上に銅貨とスタンプをコトンと置いた。
台紙の最後の空白に、そっと押しつける。
赤黒いインクが、じわりと紙に滲んだ。
それから僕たちは、手紙の宛先を探した。
辿り着いた先は——雪の重みで半ば崩れ落ちた、カビ臭い空き家だった。
「昨冬、夜逃げしたよ。借金まみれでな」
通りすがりの男が、鼻で笑って吐き捨てた。
手の中の紙切れが、やけに軽く感じる。
吹雪を越え、氷を砕き、何年も懐で温め続けてきたこの手紙を待っている人間は、この世界のどこにもいなかった。
「捨てるか?」
ジンの静かな声。
僕は手紙の端をぎゅっと握りしめ、首を横に振った。
「……届けられなかったけど、ちゃんと運んだ」
街の広場にある教会の古びたポストに、僕はその手紙を滑り込ませた。コトン、と底に落ちる乾いた音が響く。
報われなくても、やったことは本当だ。
そのまま、冷え切った教会の奥へ進む。
カビと古紙の澱んだ匂いが鼻を突く。
神官に真っ赤なDランクの台紙を渡すと、薄っぺらい『C』の印が押された新しい台紙が事務的に置かれた。神官の目は、僕たちを人間ではなく、ただの備品か家畜を値踏みするような冷たさを帯びていた。
「では、加護の更新を」
促され、祭壇の『神授の魔導書(写本)』の前に立つ。
5歳のあの日以来だ。
深く息を吸い込み、分厚い羊皮紙に、泥と霜焼けで硬くなった両手をついた。
その瞬間だった。
左脇腹の奥に、じわりと温かいものが広がった。
今までたまに感じていた『ざわざわとした熱』とは違う。冷え切った衣服の下に、小さな湯たんぽを滑り込ませたような……心地よい温かさ。
「あ」
思わず声が出た。
「これ、ジンが言ってたやつだ。なんか、脇腹が温かくて――ちょっとくすぐったい」
へらっと笑って振り返る。
けれど、教会の太い柱に寄りかかっていたジンは笑っていなかった。ただ、隻眼の奥でひっそりと揺れる炎のようなものが、僕の左脇腹をじっと見据えていた。
「行くぞ」
短い一言だけを残し、ジンが背を向けて歩き出す。
その沈黙の意味を、僕はこの時、全く理解していなかった。
ギルドで受け取ったわずかな銀貨でスープをすすり、僕たちはすぐに街を出た。
城壁を抜けると、猛吹雪が視界を純白に塗り潰していく。
風は痛いほど冷たいのに、左脇腹の奥だけが小さな熱を放って僕を内側から温め続けていた。
ストーブがわりにしては、悪くない。
「なんか、前より遠くのやつが分かる気がする」
吹雪の中で、不意に遠くの脈動を感じ取った僕が呟く。Cランクになって、共鳴の感度が広がっていた。
ジンは足を止めず、前を向いたまま答えた。
「……そうか」
前を歩くジンの背中が、いつもより少しだけ強張っているように見えたのは、きっと寒さのせいだ。僕たちはただ黙って、どこまでも続く真っ白な雪原を歩き続けた。
さらにいくつもの凍りついた山と集落を越えた頃。
流浪の底辺稼業の果てに、僕たちは偶然、出発地点であるあの辺境の街へと戻ってきていた。
僕が育った孤児院。あの石鹸の匂いがする、冷え切った石造りの部屋。
少しだけ大きくなった背丈で、建物の重い木の扉を押し開ける。
ストーブのない食堂で、ガタガタと震えている子供たちの姿は昔のままだった。
ただ一つだけ、違う。
何度深呼吸をしても、あの陽だまりのような匂いが届かない。
「あ、ドブ屋さんだ」
毛布にくるまった小さな女の子が、僕の顔を見て言った。
名前ではなく、その呼び名。
「なんで、知ってるの……?」
「先生が、いっつも話してたから。泥だらけですごい勇者がいるって」
ドクン、と胸の奥が跳ねた。
先生は、僕のことを忘れていなかった。僕がいない間も、ずっと。
「……先生は?」
震える声で尋ねた僕に、女の子は感情のない声で答えた。
「先生、去年いなくなったよ。別の街の教会に呼ばれたって」
肺の中の空気が、一瞬で凍りついた気がした。
こんな夜でも必ず起きて、僕らの帰りを待っていてくれた人。泥だらけの体を力いっぱい抱きしめてくれた、あの腕。
僕がここまで歩いてこられた理由の半分が、突然、音もなく削り取られていた。
呆然と立ち尽くす僕の背後で、雪を踏む重い足音が止まった。ジンだ。
僕は無言のまま、稼いだ銀貨の半分と、道中で集めた薪を部屋の隅に積み上げた。
ふと振り返ると、いつの間にかジンが食堂の古いテーブルの上に、布で包まれた小さな何かをそっと置いていた。それが何なのか、僕には見えなかった。ジンは僕と目が合う前に、無言で踵を返した。
扉を閉める。
最後に記憶の中の石鹸の匂いを深く吸い込み、吐き出した。
街の門を抜ける。
一面に広がる、狂ったような純白の世界。
隣を歩く大柄な男の横顔を見上げる。
いつか、この人もいなくなるのだろうか。先生のように、前触れもなく。僕の知らないところで。
風が強くなってきた。
僕は、少しだけ前に出て、雪を蹴り飛ばした。
息を吸い込む。喉の奥で、言葉が一瞬だけ躊躇いとなってつっかえた。けれど、僕はそれをはっきりと雪原へ吐き出した。
「行こう、……ジン先輩」
初めて口にしたその呼び名に、後ろで足音がぴたりと止まった。
数秒の静寂。
「……チッ、生意気な」
呆れたような舌打ちと一緒に、重い足音が再び雪を踏み鳴らす。
左脇腹の奥にある小さな湯たんぽの熱と、先輩の足音だけを頼りに。
大きさの近づいてきた二つの足跡が、終わらない氷河期の中へ並んで続いていった。




