第3話 名もなき泥と、不完全な継承
凍りついた水路に、腰まで浸かっている。
振り下ろしたツルハシが分厚い氷を砕き、泥混じりの飛沫が頬に張り付いて一瞬で凍った。
ガチガチと鳴る歯の根を噛み割りそうなほど食いしばり、両手で巨大な氷の塊を岸へ放り投げる。すぐ横で、水音と同時に重い氷が引き上げられた。ジンだ。
互いに視線を交わすことも、合図を送ることもない。ただ呼吸の隙間を縫うように、一定のリズムで泥と氷を掻き出していく。
一年中が極寒に閉ざされたこの世界で、年月の境目などとうに失われている。
ただ、ぶかぶかだったお下がりのブーツのつま先が三度痛くなり、そのたびに日銭をはたいて硬い革靴を買い直した。声のトーンは二つほど下がり、見上げるだけだったジンの分厚い肩のラインが、今は視界の端に入るようになっている。
「――終わりだ」
ジンの低い声に、僕はツルハシを雪に突き立てた。
泥水から這い上がると、濡れたズボンが瞬時にバキバキと凍り始める。
水路の上の古びた民家から、木製の鉢がロープで下ろされてきた。くすんだ銅貨数枚と、Dランクのスタンプ。ギルドが依頼主に配る、労働の証だ。僕は震える手でスタンプを台紙に押し、銅貨をポケットに滑り込ませた。
バタン。「ありがとう」の一言もなく、分厚い木の窓がぴしゃりと閉ざされた。
「……俺も昔、同じことをしてた」
背を向けたジンが、ボソリとこぼした。
それ以上の言葉はない。雪を踏みしめる重い足音が、ただ次の仕事へと向かって歩き出す。僕も何も言わず、凍りついたズボンを引きずりながらその背中を追った。
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ギルドの薄暗い掲示板の前。
(読めない文字の代わりに、いつも先輩が確認してくれていた通りにスタンプの数だけを見て)
僕は一枚の依頼書を手に取り、少しだけ迷ってから、ピンの刺さっていた元の場所へ戻した。
「なんで断った」
「わかんないけど……なんか、嫌な匂いがしたから」
見下ろしてくる隻眼にそう答えると、ジンは短く鼻を鳴らした。
「……そういう勘は大事にしろ」
代わりに受けたのは、凍結した地下室からの石炭運びだった。
半日かけて泥まみれになりながら運び終えた後、恰幅の良い商人は、約束の半分の銅貨だけを雪の上に無造作に放り投げた。
「ノロマなガキを手伝わせたんだ。これで十分だろ」
雪に沈む銅貨。
僕は反射的に一歩前に出た。ジンがいつもするように、鋭い眼光で相手を射抜こうとした。けれど、凍りついた喉からはヒュッと情けない息が漏れただけで、声にならなかった。怒りよりも先に、惨めさが冷えた足先から這い上がってくる。
結局、僕は雪に手をつき、冷たい銅貨をかき集めて立ち上がるしかなかった。ジンは何も言わず、ただその様子を静かに見ていた。
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数日後。
僕たちは森の入り口で、雪崩で倒れた巨大な倒木をどかす依頼を受けていた。
太い麻縄を肩に食い込ませ、息を合わせる。
「引くぞ」
ジンの声に合わせて前傾姿勢になった、その瞬間。
隣で、大きな体がビクリと硬直した。
「ジン……?」
振り返ると、ジンは雪に膝をつき、厚い外套の上から左脇腹を鷲掴みにしていた。額から脂汗が滲み、荒い呼吸が白く乱れている。
「……今日は、俺には無理だ」
絞り出すような声。いつもの底なしの体力が、完全に機能を手放していた。
僕は何も聞かず、ジンの分の麻縄も自分の肩に巻き付けた。歯の根から血が滲むほど噛み締め、雪にブーツをめり込ませて、一人で倒木を引き摺り動かす。ジンは遠くの雪に座り込んだまま、その隻眼で僕の背中をじっと見つめていた。
その日の依頼主である老夫婦は、泥だらけの僕たちを小屋に招き入れ、木皿を出してくれた。
湯気を立てる、獣肉と根菜の煮込み。
塩気だけの薄いスープじゃない。肉の脂と、野菜の甘い匂い。
木のスプーンを口に運ぶ。凍りついていた胃袋が、内側からじんわりと解けていく。
「……おいしい」
ジンは何も言わなかった。ただ、いつものように数秒で流し込むのではなく、僕と同じように少しだけゆっくりと、その温かいシチューを口に運んでいた。
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路地裏を歩いていた時だ。
左脇腹の奥が、突然ドクン、と波打った。共鳴。僕とジン以外の、もう一つの脈動。
雪にまみれた木箱の横で、小さな子供が膝を抱えていた。手にはギルドで渡されたばかりの、真新しいDランクの台紙。
「なんで……僕、火を出せる魔法使いになりたかったのに……」
ボロボロとこぼれる涙が、凍っていく。
いつかの僕だ。
僕は立ち止まった。昔、先生がしてくれたように抱きしめてやるべきなのかもしれない。けれど、僕のブーツはドブの臭いがし、指先は氷のように冷たかった。誰かを抱きしめて温めるには、僕の体は汚れすぎていた。
だから、僕はしゃがみ込んだ。
「これ、使うか?」
氷割りで刃こぼれした、小さな鉄のスコップを差し出す。
「ドブさらい、一人じゃきついだろ。一緒に仕事しようぜ」
優しい嘘で慰めることはできない。でも、一緒に泥を掻き出すことならできる。
子供が震える手でスコップを受け取るのを見て、背後のジンが短く鼻を鳴らした。
「……これが何なのか、いつかわかるといいな」
誰に向けたのかわからないジンの呟きが、風にさらわれていった。
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その夜。
安宿のベッドの上で、僕はランプの微かな明かりを頼りに口を開いた。
「この間……ジンみたいに、うまく睨めなかった」
雪に放り投げられた銅貨。声が出なかった自分の情けなさ。
隣のベッドから、衣擦れの音がした。
「お前はまだ、それでいい」
それだけだった。
僕は息を吐き、懐から二つのものを取り出した。
何年も前からずっと抱えている手紙と、ボロボロのDランク台紙。
「あと一つ……」
最後の空白のマスを指でなぞる。
あと一つで台紙がいっぱいになる。そうすれば『Cランク』になれる。もっと役に立てる。手紙の宛先の街までは、あと数日の距離だ。
ランプの火を吹き消し、僕は少しだけ誇らしい気持ちで目を閉じた。
暗闇の中、隣のベッドで、外套を着込んだままのジンが左脇腹をかばうように丸まっていることなど、暗くて見えなかった。




