雪華
雪が舞い散る頃、椿と霧島は婚約をした。
料亭の座敷でお互いの両親と椿、そして霧島で婚約の口上を交わすと自分の指に光る婚約指輪に、椿は戸惑いを感じながらもこの人とならば私は安定した生涯を送れるだろうと心の中に燻る佐々木父への想いに蓋をした。
「椿さん、どうしましたか?」
「え?」
「ここのところ、心ここにあらずですね。何か悩みでもあるんですか?例えば…僕との結婚とか」
いきなり確信を付いて来た霧島に、椿は目を見開くと大げさに顔の前で手を振って見せた。
「じゃあ…どうしたんですか?」
「実は…以前私が勤めている幼稚園に通っていたお子さんが転園されたんです。今頃、その子はどうしているだろうかと心配で…。とても活発で他の子達のリーダー的な存在だったんですが、その反面人一倍繊細な子で…。転園先でも元気にやっているのんだろうかと気にかけていたんです」
「つば…きさんは優しい人だ。そんなあなたが思うその子ならきっと大丈夫ですよ。椿さんがそこまで心配されていることを知ればもっと嬉しがると思います。それに子供は順応性が高いと言いますからね」
「…だと良いんですけど。私自身彼を傷つけてしまったことがあって…」
椿は霧島に子供から自分の父親のお嫁さんになってほしいと言われた事を打ち明けると、子供の戯れ言と済まされる大人も多いでしょうけど私は彼があの言葉を私に聞くまできっと何度もその小さな胸の中で葛藤をしていたのに、私は真剣に聞いて来た彼に対して誤摩化してしまったんですと告げた。
「…霧島さん…私は…私は…」
ぽろぽろと涙を流す椿を抱きしめた霧島はあなたが誰を思っていても良いんです。それでもきっと僕の事を愛してくれるまで待ちますから。
霧島の胸のポケットが小刻みに揺れ出した。
「はい霧島です…え? そうか…わかった。見つかり次第連絡をくれ。私も心当たりを探してみるから」
「どうされたんですか?」
「つば…、いや…ちょっとしたトラブルがあって、椿さん本当に申し訳ないが今日はここで良いかい?」
「ええ」
「じゃあ…また。今度は式場の打ち合わせで」
「はい」
霧島と別れ、家路へと向かっていた椿は自分の気持ちに嘘はつく事などできないと気付き、霧島との婚約破棄を考えていた。
家に入る手前にあるの生け垣からガサリと音がした。
猫みたいに軽い音ではなかった。もっと、そうもっと大きな体をした動物か何かが生け垣の中で蠢いている感じだ。
まさか…。
「そこにいるのは誰なの?出て来て」 引き攣りながらも椿は震える声で 優しく声をかけた。
経験上、ここで厳しく命令長にすれば相手がもし、いつもの春先に出没するストーカーならば、逆上して襲って来る可能性がある。
対処法として優しく声をかけて相手を見極めてから警察に電話するなり、道場にいるはずの蘭姉に連絡すればいい。左手はそっと上着のポケットにある携帯を握りしめ、いつでも準備OKにしている。
トクントクントクントクントクン。
緊張感からか、椿の鼓動が痛いほど胸を締め付ける。
指に感覚がなくなるほどに拳を握りしめて、まだ生け垣から出て来ない相手を辛抱強く待っていた。
ガサリ…ガサガサと大きく生け垣が揺れるとそこから出て来たのは子供。
「つ、翼くん?」
「うん。そうだよ。」
屈託のない笑顔で椿を見つめるその瞳には、一点の曇りもない。
「翼くん…どうしてここに?」
そうだ、どうやってここに来たんだろう。翼が引っ越した所は県外だったと聞いていたから、まだ小学校にも上がっていない子供が一人でここに来れるとは到底思えない。
「もちろん、先生に会いに来たんだ」
先生嬉しい?と聞かれ、確かに嬉しかったけど、ここで素直に嬉しいとは言えない事情が椿にはある。
「翼くん。ここに来ている事はおうちの人に伝えているの?」
真剣な椿の眼差しに翼自身後ろめたさがあるのか、目を右往左往に泳がせている。
「おうちの人に伝えてないのね…。とても心配されているわよ」
「してないよ!みんな、僕じゃなくってパパの事ばかり見てるんだもん!」
いつもは年齢よりも上に見られる翼は滅多に我が儘も言わない。そんな子がここまで自分の感情を爆発させるなんて、胸が苦しくなるほど翼を抱きしめたくなった椿は敢えてここで翼を突き放す事にした。
椿は翼の保護者でもないから、必要以上に翼に愛情を与える事などできず只、幼稚園教諭として翼に接する事に決めると鞄の中から携帯を取り出し始めた。
「翼くん。それでも先生はおうちの人にきちんと言って来て欲しかったわ。翼くんのお父様だってきっと心配しているはずよ」
携帯の着歴に残っている佐々木の番号に電話を入れ始めた。
だが、佐々木の番号自体が変わっているのか、携帯電話から流れてくるのは『おかけになった番号は現在使われておりません。番号をお確かめになって…』機械の無機質な声だけ。
心の中で小さく溜め息を吐くと椿は翼に向き直ると手を差し出す。
差し出された手を見てそれまで不安に押し潰された捨て猫のような表情をしていた翼の顔が明るく輝く。
「おかえり翼くん」
「ただいま。椿先生」
翼の手を引いて仲良く早乙女家の門をくぐった二人は互いの顔を見合わせるとどちらからともなく吹き出す。
椿の姿が見えないと途端に泣き出してしまう翼に、椿も動揺したがこれも新しい環境になれるために、翼なりに自分の心を殺して来たのだろう。
そう思えば椿も始終笑みを浮かべて翼が飽きるまで、読んでとせがむ絵本を読み続ける。
「椿ちゃん、翼くんもう寝た?」
「あ、はい…でも…」
翼の小さな手は椿の銀色の髪を一房キツく握りしめていて、放さない。
臣にそれを見せるとそうか…眉をハの字にさせる。
翼くんのお父さんの会社には今夜はここに泊まる事と明日の朝に佐々木が翼を迎えにくる事を告げた。
その言葉に安心したのか椿も倒れるように翼の隣で横になると瞼を閉じた。
「僕、帰らないよ!あんな人達がいる家なんて、嫌だ!!」
朝から翼のキンキン声が早乙女家のリビングに響く。
「ぼ、僕は佐々木翼なんだよ。何で…何で他の人の名前で呼ばれなきゃならないんだよ」
そんなに僕に帰って来て欲しいんなら、お父さんが迎えにくれば良いんだ!お前なんか帰れ!!うわーんと鼓膜を震わせるほどの大音量で泣き出した翼は、椿の部屋へと駆け上がって行った。
「ん?」
寝ぼけ眼ではっきりしない頭をもたげるように起き上がった椿は、いきなり自分に向かってジャンピングハグをしてくる翼からの鳩尾へのヘディングをまともに受けて目を白黒させている。
痛む鳩尾を押さえながらも、しゃっくりをあげて泣きじゃくる翼を連れて階下のリビングへと降りてく。
そこには迎えに来ると臣に伝言を残していた父親の佐々木の姿はどこにもなく、そのかわりと言っては何だが、切れ長の目をした銀縁眼鏡の男が座していた。
「翼坊ちゃま、そのように我が儘を言う物ではありません。あなたのお父様は今も寝る間もなく仕事をされているんですよ」
翼坊ちゃま?
確かに翼は佐々木が取り締り役を勤める会社の御曹司ではあるが、かつてここまでの仰々しいお迎えなど佐々木はして来なかった。
「お前なんか嫌いだ!お父さんは僕と動物園にカバを見に行くって約束したのに、何度も破った!」
翼は手当り次第に物を男へと投げつけてく。
これには椿も驚いて翼を抱きしめると優しく背中をなで興奮している翼を落ち着かせている。
浅田と申しますと言うと浅田は居住まいを正すと、お見苦しい所をお見せしましたと頭を下げると、定規で測ったような礼をしてきた。
まるで秘書か執事のような立ち振る舞いだと感心しながらも、椿は差し出された物に眉を顰めた。
名刺は分かる。だけど何で茶封筒も出してくるわけ?
浅田が茶封筒を取り出したのが胸元のポケットとくれば、鈍い椿にもこの中身が何なのかは一発で分かる。
「こちらはお心ばかりの物ですが、感謝の品です。どうかお納めください」
明らかに迷惑だと言わんばかりの態度とそれにとってつけたような言葉を吐いた浅田に、一同は顔を強張らせながらも翼を見つめる。
椿からはぎ取るように翼の手を掴むと、浅田はまだ泣き叫ぶ翼を肩に担いで早乙女家を後にした。
嵐が去った後のようにみんなしてテーブルの上に置かれた茶封筒と名刺に注目した。
これは児童相談所に通報した方が良いんじゃないのかと言う蘭の言葉に臣は頭を振った。浅田が置いて行った名刺には正義の天秤の柄が光っている。
「…ないわよ…!!」
ぶざけんじゃないわよ!!子供をなんだと思っているのよ!
「「「「え?」」」」
スカートの裾を握りしめていた椿は立ち上がると二人の後を追った。
その手には茶封筒が握りしめられている。
外に出ると丁度、翼が車に乗せられる所だった。
「椿先生!助けて!」
「翼くん!」
伸ばした手は空を舞う。
「浅田さん、あなたがやっていることは翼くんを傷つけているだけだわ」
きらりと光った銀縁眼鏡の蔓を指の腹でくぃっと押し上げると浅田は椿と対峙した。
早乙女さんあなたは何も分かっていないと言うと颯爽と車に乗ると泣きじゃくる翼を乗せて行ってしまった。
その後、何度か翼が自分の家や護衛をまいて早乙女家に来ていたが、その時には翼の顔には子供らしい表情などない。
操り人形のようになっていた。
浅田が迎えに来る度に、翼は一瞬縋るような目で椿を見上げるも、すぐに元の無表情へと戻ってく。
椿は翼の心が心配になったが、臣にも言われていたため何も口出しする事は出来ない。




