子供の気持ち 加筆
「翼君、お母さん遅いね…。どうしたのかな?」
「あ、あのね…僕のお母さん出て行っちゃったの…」
俯きながら告白してくる翼に椿は目を丸くした。
「翼君…寂しかったね」
「う…ん…」
「じゃあ、お父さんに連絡したほうが良いよね?ちょっと待ってね、今から電話かけるから「お父さんは来ないよ」
どうしてこの子は父親が迎えに来ないと言いだして来たのかわからなかった。
「お父さん、いつもお仕事で遅いんだ」
「え…、じゃあ…おじいちゃん…「じーじはびょういんなんだ」
「……」
肩を落とした翼にこれ以上辛い事を言わせるかけにも行かないから、園長に電話をかけた後、一応翼君の自宅と父親の携帯にも電話をかけた。
翼君が言っていたように仕事なのか、無機質な機械の留守電メッセージが流れた。
すぐに、翼君を七時半まで待ちますので幼稚園に迎えに来て欲しい事を告げると椿は電話を切った。
だが、七時半を過ぎても翼の父親は息子を迎えに来なかった。
園長からは自宅に保護者がいない場合は、幼稚園で子供を待たせることになるが、七時半過ぎた時点で、子供の自宅に子供を連れて行って欲しいと言われていた。
止むえず、椿が翼を連れて彼の家へと向かった。
翼の家は会社の社長さんとかが住むようなセキュリティーが高いマンションの最上階だ。
マンションのロビーには、管理人がいて、翼を連れた椿を見て不審者だと言う目をしていたが、椿が幼稚園教諭だと告げると翼を家に送りに来た事を告げると一応決まりですのでと言って一緒に最上階まで行ってくれた。
玄関のドアを開けてもらうとそこにはどこまでも真っ直ぐ続く廊下に「げっ」と思わず椿が声を漏らした。
チリ一つ落ちていない家と言うのは、確かに気持ち良いのだろうけど、この異常なまでのクレゾールの臭いは病的としか言えない。
「帰られる時は、フロントまで来て下さい」
そう言い残して、管理人は帰って行った。本当は翼を置いて帰りたかったけど、翼は椿のスカートの裾を掴んだまま離そうとしない。
「翼君、お腹すいた?」
コクンと頷く翼に、椿は家に上がるとすぐに冷蔵庫をあけた。中には見た事も聞いた事もない高そうな食材がぎっしりと詰まっている。それらを手早く調理すると翼と一緒に食卓を囲んだ。
「僕初めてだよ」
美味しそうにオムライスを頬張る翼に椿はほっとした。
「え?」
「あのね、お母さんは別の所に住んでるの。だから僕とお父さんは一緒に住んでいるんだ。でも、お父さんは帰ってくるのいつも遅いからね、僕はいつも一人でごご飯を食べてるの」
あんな何もかもの感情を心の中に閉じ込めたような子供ほど、どれだけ心の中で傷ついているのか…それを考えるだけで椿は翼が置かれた状況を担任として把握出来なかった自分を責めた。
「…翼くん? それっていつから?」
「うーんと五月からだよ」
五月って…今は七月の半ばだ。月一で行われるクラス役員の会議は普通だったら副役員は出る事はない。だから今まで誰も気がつかなかったのだ。
「じゃあ…いつも翼君を迎えに来ていた人って…」
「お父さんの会社の人。僕を家に連れて帰ったら、おやつとごはんをくれて、帰っちゃうんだ」
「……な、なんてこと……」
いくら巧妙に隠されていたとしても、翼君が発するSOSに自分も他の教師達も気がつかなかったことに、吐き気がして来た。なのに幼稚園教諭ですと言っていた自分が恥ずかしく思えてならなかった。嗚咽が出るのを堪えて口を塞ぐと涙が出て来て止まらない。
「先生…泣かないで……」
「ご、ごめんなさい……翼君が苦しい時に気付けなくてごめんなさい…」
目の前のこの子は椿が泣くとは思わなかったのだろう。きょとんとした顔でどうして泣くのと聞いて来る。そんな子供らしくない表情なんてしなくていいのに…。そう思った椿はいつものように翼を抱きしめた。
「せんせ……」
「もう、大丈夫だよ。翼君、泣いても大丈夫なの。だから…だから…我慢なんてしないで……」
椿の言葉を聞いた途端、関を切ったように翼の豆粒のような小さな目から大粒の涙が溢れ出た。肩を震わせ「先生…僕、僕、」と何度も何度も嗚咽を挙げながら泣き出す五歳児をただ椿は抱きしめた。
翼の部屋で翼を抱きしめていた椿は翼が寝たのを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。そろそろおいとましないと…。
ガチャリ。
誰かが家に入って来たのに気付いた椿はリビングの方へと向かった。
「誰だ?!」
「泥棒だな!! それとも俺の財産でも狙いに来た雌狐か!」
するどい声がするといきなり後ろから羽交い締めされた。




