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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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第8話 伝説を信じない十九歳

 八月一日、午前十一時二分。


 BAR SFの扉を開けた青年の胸には、大きな黒字でこう書かれていた。


 伝説取材中。


 白いTシャツの中央に、赤い時計と銀色の指輪まで印刷されている。


 恵梨花は扉を半分閉めた。


 「帰ってください」


 「まだ何も言ってません」


 「服が全部言ってる」


 青年は扉の隙間へ足を入れなかった。代わりに一歩下がった。


 人前では慎重らしい。


 「安西玲です。十九歳。大学一年です」


 「それで?」


 「夏休みの課題ではありません。自主制作です」


 「何の」


 玲は背負っていたリュックから、分厚い原稿用紙の束を出した。


 表紙には長い題名が書いてある。


 夏休みに出会った地元の「伝説の人」の話――二十三年間、赤い時計の下で正体を隠してきた銀色の指輪の男を探して。


 「長い」


 「仮題です」


 「仮でも長い」


 「必要な情報を削っていません」


 「題名は引っ越し荷物じゃないのよ」


 玲は少し考え、原稿の端へ何かを書き込んだ。


 「今の比喩、使ってもいいですか」


 「だめ」


 「では、発言者匿名で」


 「そういう問題じゃない」


 店の奥から大輔が出てきた。


 「玲、また長くなった?」


 「前より十二文字減らしました」


 「努力の方向が細いな」


 玲は大輔へ一礼した。


 「取材をさせてください」


 「恵梨花が決めることだ」


 玲は恵梨花へ向き直る。


 「伝説の人を探しています」


 「ここにはいません」


 「銀色の指輪が見つかったと聞きました」


 恵梨花は大輔を見た。


 大輔は両手を上げる。


 「俺は言ってない」


 「商店街の乾物屋さんから聞きました。航大さんが壁を開けたことも、弘樹さんが昨日来たことも知っています」


 「この町、秘密がザルに入った麦茶みたい」


 「その比喩は少しわかります」


 「珍しい」


 玲は原稿を胸へ抱えた。


 「町では、伝説の人を見たと言う人が増えています。銀色の指輪をしていた。大きな男だった。声が低かった。事故の翌日に駅で見た。三日後に河川敷で見た。中には去年見たという人もいます」


 「二十三年たっても同じ年齢だったの?」


 「そこが不自然です」


 「不自然どころか怪談よ」


 「だから、信じていません」


 玲は初めて、恵梨花の目をまっすぐ見た。


 「伝説の人が存在したことではなく、一人だったことを」


 昨日までの弘樹の言葉が蘇る。


 断定できる証言はない。


 男だったかどうかも。


 恵梨花は扉を開けた。


 「入るだけ。録音には触らない。見たことを外へ書かない。許可なく誰の名前も使わない」


 「守ります」


 「長い題名も店内では広げない」


 「それは再検討を」


 「帰ります?」


 「守ります」


 玲は店へ入り、咲輝から来客用の記録票を渡された。


 氏名、連絡先、入退室時刻、利用目的、守秘同意。


 玲は一文字ずつ丁寧に書いた。署名欄へ到達するまで五分かかった。


 「字はきれいね」


 「人に見せるものなので」


 「Tシャツも?」


 「自作です」


 「そこは聞いてない」


 弘樹は約束どおり、午後に古い取材ノートを持ってきた。


 玲を見るなり、眉を寄せた。


 「その服は記事の図版を無断使用していませんか」


 「時計は自分で描きました。指輪は母の指輪を参考にしています。人物は描いていません」


 「文字の配置が観光ポスターに似ています」


 「偶然です」


 「偶然という主張には、制作過程の記録が必要です」


 玲はリュックからスケッチ帳を出した。


 弘樹が黙った。


 大輔が恵梨花へ囁く。


 「相性いいかも」


 「批判と信念の正面衝突ね」


 咲輝が机へ資料を並べた。


 弘樹の取材ノート、当時の新聞、消防記録の写し、商店街の事故報告書。


 玲は記事の一文へ定規を当てた。


 「『銀色の指輪をした大柄な男が、崩れた看板の下から少女を救い出した』」


 「私が書きました」


 「男という証言はどこですか」


 弘樹はノートの頁を開いた。


 目撃者A。大きな上着。


 目撃者B。低い声。


 目撃者C。右手に銀色の輪。


 目撃者D。砂で顔は見えない。


 「男とは書いてない」


 玲の声が少し強くなった。


 「大きな上着は体格とは限らない。低い声は性別を決めない。指輪も同じです。四つの証言を並べても、男という一語は出てきません」


 「そのとおりです」


 弘樹は否定しなかった。


 「では、なぜ」


 「明日以降、順番に話します」


 「順番は、事実より大事ですか」


 「人の人生を扱うときは、大事です」


 玲は口を閉じた。


 納得したわけではない。信念を曲げず、しかし人前で感情をぶつけないよう、言葉を組み直している。


 「僕は、伝説を壊したいわけではありません」


 やがて玲は言った。


 「嘘なら直したい。事実なら残したい。誰かが隠したなら、理由を知りたい。それだけです」


 「その『だけ』で、人は傷つきます」


 弘樹が答えた。


 「傷つくから嘘を残すんですか」


 「嘘を残せとは言っていません。正しい刃物でも、人へ向ければ切れると言っています」


 「切らなければ開かないものもあります」


 二人のあいだに、静かな火花が散った。


 恵梨花は自分が割って入るべきか迷った。


 そのとき、大生が録音機の前から顔を上げた。


 「二番が再生できます」


 全員の視線が移った。


 二番のテープには黄札が付いている。録音者は篠原芙美。確認先は奈津子と記されていた。


 咲輝が札を読み上げる。


 「内容確認のため、相続人と保存担当者の試聴可。外部公開は奈津子さんへ再確認。玲さんは当事者でも保存担当でもありません」


 玲はすぐに立ち上がった。


 「外へ出ます」


 「聞きたいでしょう」


 恵梨花が尋ねる。


 「聞きたいです」


 「だったら」


 「聞きたいことと、聞いていいことは別です」


 玲は原稿を抱え、外階段へ出た。


 咲輝はその背中を見て、少しだけ表情を緩めた。


 大生が二番のテープをセットする。


 再生ボタンを押す前に、恵梨花は外の玲を見た。


 彼は階段の踊り場で、赤い時計へ背を向けて座っている。原稿を開かず、両手を膝へ置いて待っていた。


 録音が始まった。


 雨の音がした。


 事故から一年後の日付が、芙美の声で読み上げられる。


 声は、恵梨花の記憶より低かった。途中で何度も咳が入る。


 「あの日、私は英雄ではなかった」


 芙美は言った。


 「怖くて、一度逃げた」


 恵梨花の胸の奥で、何かが落ちた。


 伝説の男ではない。


 では、叔母なのか。


 しかし、録音は続いた。


 別の女性の声が、静かに答える。


 「それでも、あなたは戻ったでしょう」


 芙美は長く黙った。


 その無音の向こうで、雨だけが降っている。


 恵梨花は、続きを急かさなかった。


 店の外では玲が待っている。


 真実を知れば強い物語になると考える十九歳。


 けれど彼は、聞きたい声の前で、自分から扉を閉めた。


 録音が終わったあと、恵梨花は外へ出た。


 玲は立ち上がる。


 「終わりましたか」


 「ええ」


 「何が入っていました」


 「言えない」


 「そうですか」


 玲は一度だけ赤い時計を見上げた。


 「なら、書きません」


 少し間を置き、原稿の表紙を見た。


 「でも、伝説を壊す話のほうが、たぶん強いです」


 咲輝が店内から言った。


 「人の痛みを、強さだけで測らないでください」


 玲は振り返り、頭を下げた。


 「直します」


 原稿へ書き込んだ文字を、恵梨花は横から見た。


 伝説を壊す。


 その横に線を引き、玲は書き直した。


 伝説になる前の人生を聞く。


 題名はまだ長かった。


 けれど、昨日までとは違う方向へ伸び始めていた。



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