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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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9/9

第9話 一杯目、他人の靴

 八月二日の朝、恵梨花は勤務先へ電話をかけた。八日で片づけるはずだった店には、捨ててよい物より、まだ聞いていない声のほうが多く残っていた。


 上司との相談の結果、八月中は残っていた有給休暇と在宅勤務を組み合わせ、編集会議だけオンラインで参加することになった。九月一日の引き渡しを終えた翌日に東京へ戻る。予定表へ新しい日付を書き込むと、恵梨花は、自分が初めて「保留」を未来へ押しつけるのではなく、自分で引き受けた気がした。


 八月二日の午後六時、BAR SFの扉に咲輝が白い紙を貼った。


 本日貸切。

 入室者七名。

 録音禁止。

 内容の口外禁止。

 体調不良時は途中退室可。


 最後の一行だけ、赤いペンで二重に囲まれている。


 「店を出るのに許可はいらないでしょう」


 恵梨花が言うと、咲輝は紙の角を養生テープで留めながら答えた。


 「途中で出ると失礼だと思い、我慢する人がいます。録音された人への礼儀より、聞く人の体調が先です」


 「正論が避難口みたいに多いわね」


 「避難口は、多いほうが安全です」


 店内には、恵梨花、大輔、咲輝、航大、大生、弘樹、玲がそろっていた。


 玲は「伝説取材中」のシャツを着ていない。代わりに無地の紺色を選んだらしい。ただし胸ポケットから長い題名の原稿が少しだけのぞいている。


 大生は修理した録音機の前に座り、再生ヘッドを綿棒で拭いていた。航大は椅子を一脚ずつ揺らし、壊れていないか確かめる。弘樹はノートを閉じたまま、カウンターの端に置いた。


 大輔は階下から七つのクリームソーダを運んできた。


 「試聴会に飲食物を置くんですか」


 咲輝が眉を寄せる。


 「録音機から離して置く。喉が乾くと、人は必要以上に深刻な声を出すから」


 「根拠は」


 「ケーキ屋としての感覚」


 「根拠欄には書けません」


 「じゃあ、優しさ欄へ」


 「その欄はありません」


 七人分のグラスが、カウンターの奥へ整列した。緑色のソーダ水に、丸いアイスクリームが浮いている。恵梨花のグラスだけ、赤いさくらんぼが二つだった。


 「一つ多い」


 「二十三年前の約束の利息」


 「航大さんに聞かれたら帳面へ書かれるわよ」


 「もう書いた」


 航大が胸ポケットの帳面を見せた。


 大輔から、さくらんぼ一個分の笑い。


 「勝手に借りないでくれる?」


 「笑ってないから未成立だな」


 恵梨花は口元を引き締めた。笑えば帳面に残される気がした。


 咲輝が三色の札を机へ並べた。


 「もう一度確認します。白札は公開可。ただし、公開可でも、切り取って別の意味へ変えてよいわけではありません。黄札は本人か遺族への確認が必要。赤札は保存のみです」


 「今夜、聞くのは白札だけ?」


 玲が尋ねた。


 「最初はそうします。聞ける立場と、公表できる立場を混ぜないためです」


 弘樹が低く言った。


 「記者が一番、混ぜやすい」


 玲は反論せず、原稿を鞄へしまった。


 大生が一本目の白札テープを持ち上げた。ケースには、番号と日付だけが書かれている。名前はない。


 「再生します」


 小さな回転音のあと、年配の女性の声が流れた。


 『私は、レジの金を守ろうとして逃げ遅れました』


 声は落ち着いていた。落ち着きすぎて、何度も練習した告白のように聞こえた。


 『砂が入ってきたとき、最初に考えたのは、引き出しの中の売上でした。子どもの泣き声も聞こえていたのに、私は金庫の鍵を探しました』


 商店街の乾物屋で働いていたという。


 夏祭りの日の売上は、普段の三倍。店主から預かった金をなくせば、弁償できない。仕事を失う。家賃が払えない。離婚したばかりで、娘を一人で育てていた。


 『人の命より金を選んだ。私は、そういう人間です』


 録音の中で、女性が笑った。


 笑い声は乾いていた。


 『あとになって、みんなは仕方なかったと言いました。生活がかかっていたんだから、と。でも、仕方なかったと言われるたび、私は自分の卑しさを見逃してもらった気がしました』


 恵梨花は、頭の中で文章を作り始めていた。


 生活に追われた女性が、危機の中で金を選び、長く罪悪感を抱える――。


 映像なら、暗い店内。開かない引き出し。震える手。最後に空のレジを映す。


 わかりやすい。


 伝わりやすい。


 そして、その人の二十三年を三十秒にできる。


 『私は臆病者でした』


 女性は最後に言った。


 『いまも、そう思っています』


 テープが止まった。


 誰もすぐには話さなかった。


 玲の指が膝の上で動いている。見えない原稿へ文字を書いているようだった。


 「もう一本、関連する白札があります」


 大生が言った。


 咲輝が記録表を確認する。


 「録音者は別人です。同じ女性の行動について話しています。続けても大丈夫ですか」


 全員がうなずいた。


 二本目の声は、事故当時十四歳だった男性だった。


 『乾物屋のおばさんが、店の奥から濡れたタオルを持ってきてくれました』


 恵梨花は顔を上げた。


 『砂で目が開けられない子に、顔へ当てろと言って配りました。泣いていた子を三人、カウンターの下へ入れました。俺は何をすればいいかわからなかったから、おばさんの真似をしました』


 同じ女性だった。


 金庫の鍵を探し、逃げ遅れた女性。


 そのあと、濡れたタオルを配った女性。


 『おばさんがいなかったら、俺は自分だけ逃げたと思います』


 男性の声は、感謝だけを残して終わった。


 恵梨花の頭の中で完成しかけていた構成が、音を立てずに崩れた。


 「要するに、その人は――」


 言いかけた。


 臆病だったけれど、最後には人を助けた。


 そんな言葉が喉まで来た。


 それでは、前半を後半のための谷にしてしまう。金を守ろうとした恐怖も、濡れタオルを配った行動も、きれいな成長物語へ並べ替えてしまう。


 女性は録音の最後まで、自分を臆病者だと言った。


 別の人は、彼女に助けられたと言った。


 どちらかへ決める必要はない。


 恵梨花は口を閉じた。


 「何ですか」


 玲が尋ねる。


 「いま、まとめそうになった」


 「まとめてはいけないんですか」


 「まとめると、持ちやすくなるのよ。段ボールみたいに。でも、持ちやすくした瞬間、中に入らない部分を捨てることがある」


 玲は考え込み、原稿を出しかけた手を止めた。


 「今の比喩は使っても」


 「だめ」


 「聞くだけにします」


 大輔が、少し溶けたクリームソーダを恵梨花の前へ置いた。


 「他人の靴は、サイズが合わなくても、一度履いてみるしかない」


 「靴ずれしたら?」


 「脱いでいい。でも、履く前から歩き方を決めない」


 弘樹が珍しくうなずいた。


 「記事にも必要な考え方です。ただし、靴の比喩はありふれています」


 「褒める前に欠点を置かないと息ができないの?」


 「正確さを保つためです」


 航大が帳面を開いた。


 「弘樹から、大輔へ、褒め言葉八割」


 「貸し借りではない」


 「残り二割は返さなくていいのか」


 大輔が笑い、玲も小さく吹き出した。


 恵梨花はとうとう笑ってしまった。


 航大がすぐ帳面へ書く。


 さくらんぼ一個分の笑い。受領。


 「本当に書いたの?」


 「貸し借りは忘れない」


 クリームソーダの泡が、グラスの内側をゆっくり上っていく。


 恵梨花は、名前を知らない女性の二つの声を思った。


 臆病者。


 人を助けた人。


 どちらも同じ靴の中にある。


 自分の足には合わない。痛みも重さも、完全にはわからない。


 それでも今夜、数分だけ、その靴で歩いた。



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