第7話 批判記事の男
七月三十一日の午前十時、BAR SFの扉を開けた男は、挨拶より先に言った。
「録音の再生は中止してください」
白い半袖シャツ。濃紺のネクタイ。銀縁眼鏡。額には汗をかいているのに、手には革の書類鞄を持っている。
夏に負けまいとして、服装だけで戦っているような人だった。
恵梨花はカウンターに肘をついた。
「お名前から伺っても?」
「砂鐘日報編集長、宮坂弘樹です」
「新聞の人」
「記事を書く人です。新聞そのものではありません」
「細かい」
「言葉を扱う仕事なので」
弘樹は鞄から書類を三枚取り出した。
「第一に、この建物は安全確認の途中です。第二に、録音物の所有権と著作権の確認が終わっていません。第三に、録音者本人または遺族の公開同意が必要です。第四に――」
「批判が三段重ねを越えました」
「まだ注意事項です。批判はこれからです」
大輔がコーヒーを運んできた。
「弘樹さん、昔から褒める前に欠点を言うんだ」
「根拠のない称賛は、根拠のない批判より質が悪い」
「でも、ケーキを食べる前に見た目を三つ直されると売る気がなくなる」
「味は悪くない」
「今の、褒めた?」
「砂糖が多い」
「取り消された」
弘樹はコーヒーへ口をつけた。苦い顔をしたが、砂糖は入れなかった。
咲輝が録音一覧を持ってきた。
「札の色による利用区分を確認しています。昨日聞いたのは事故当日の偶然記録だけです。外部公開はしていません」
「再生した時点で、関係者の記憶を刺激しています」
「それは承知しています」
「承知している人ほど、事故を起こしたとき厄介です」
咲輝の眉がわずかに動いた。
恵梨花は間へ入った。
「何を止めたいんですか。録音? それとも、録音から出てくる話?」
弘樹は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
「両方です」
「理由は」
「話には、話されたあとの人生があります。録音者が忘れたくても、聞いた側が覚えている。切り取られ、名前を付けられ、本人の手を離れる」
「新聞記者が言うんですね」
「新聞記者だから言います」
弘樹は眼鏡を戻した。
「二十三年前の記事を書いたのは、私です」
店の空気が止まった。
窓の外では蝉が鳴いている。下の菓子店で天板を置く音がした。
「銀色の指輪をした謎の男」
恵梨花は、駅に貼られたポスターを思い出した。
「あなたが書いたの」
「はい」
「私を助けた人の記事を」
「当時、私は二十三歳でした。砂鐘日報へ入って一年目だった」
「正しかったんですか」
弘樹はすぐに答えなかった。
批判するときには迷いがない人が、たった一言の前で長く黙る。
「正しかったのではありません」
「では、嘘?」
「正しかったことにしてきました」
恵梨花の指先が冷えた。
自分の記憶には顔がない。だから新聞記事の男を、ずっと記憶の代わりにしてきた。銀色の指輪。名乗らず消えた人物。勇敢で、孤独で、礼を求めなかった英雄。
その輪郭が、目の前の男の一文から生まれたものだった。
「どういう意味ですか」
「記事を書いた当時、断定できる証言はありませんでした」
「男だったかどうかも?」
「複数の目撃者が、大きな作業着、低い声、銀色の輪を証言しました。しかし顔を見た人はいなかった」
「それで男にした?」
「当時の状況は、後日説明します。今日は再生を止めに来ました」
「説明から逃げないで」
「逃げていません。順番の問題です」
「二十三年も順番を待ったんですか」
弘樹の口が閉じた。
大輔が静かにコーヒーカップを置いた。
「弘樹さん。恵梨花には知る権利がある」
「知る権利は、他人の秘密をすべて開ける万能鍵ではない」
「録音を全部公開するとは言っていない」
「一つ聞けば、次を聞きたくなる。人は空白を嫌う」
恵梨花は赤い鍵を握った。
「空白を誰かの都合のいい男で埋めた人が言うこと?」
弘樹は視線を落とした。
反論しなかったことが、恵梨花にはいっそう腹立たしかった。
咲輝が一覧表を差し出す。
「録音はすでに色札で分けられています。赤札は聞きません。黄札は本人か遺族へ確認します。白札も、使用範囲は改めて検討します」
弘樹は表を確認した。
「最低限です」
「最低限を積み重ねています」
「建物の安全は」
「航大さんと確認中です」
「保守通路が見つかったそうですね」
全員が弘樹を見た。
「なぜ知ってるの」
「この建物について、二十三年前に調べました」
「記事のため?」
「事故の現場だったからです」
弘樹は書類鞄から古い新聞の切り抜きを出した。
紙は黄ばみ、折り目が白くなっている。
見出しは大きかった。
銀色の指輪の男、砂じん旋風から少女救う。
写真には、傾いた赤い時計と、救急車へ運ばれる小さな人影が写っている。
その人影が自分だとわかるまで、恵梨花には少し時間がかかった。
「事故の日、あなたは現場にいたんですか」
「いました」
「何をしてたの」
「新聞社の携帯無線で消防へ位置を伝えました。電話が混線していた」
「助けた側じゃない」
「連絡しただけです」
航大と同じ言い方だった。
俺は工具を使っただけ。
私は連絡しただけ。
人は、自分がしたことを小さくする癖があるらしい。ただし弘樹の場合、そのあとにしたことだけは、町全体より大きく残っている。
「八月三十一日、商店街で赤時計サマーフェアが開かれます」
弘樹は別の紙を広げた。
銀色の指輪の男を描いた新しい案内板。英雄を模した等身大の人形。銀色の輪を飾った菓子。二十三周年の記念冊子。
「これ、あなたの記事を使ってる」
「許可は出していません。記事の事実部分を引用するのに、新聞社の許可は必須ではない」
「事実部分?」
「だから止めたいんです」
弘樹は初めて、声を少し荒くした。
「録音が記事と違えば、町は説明を変えなければならない。予約客、寄付者、協賛企業、事故関係者。誰かが得をし、誰かが傷つく。真実を出せば解決するほど、人生は単純ではありません」
「事実は人を救うとは限らない、ですか」
「そうです」
「嘘が救うとも限らない」
恵梨花は切り抜きを弘樹へ返した。
「再生は止めません。ただし、公開は勝手にしない。札の条件も守る。関係者へ確認する。それで足りないなら、足りないところを具体的に言ってください」
弘樹は受け取った紙を鞄へ戻した。
「録音者一覧を確認させてください」
「赤札の名前も?」
「公開しないために、管理者だけが確認する必要があります」
「あなたを管理者にはしません」
「当然です」
弘樹は立ち上がった。
「では、明日、二十三年前の取材ノートを持ってきます」
「協力するんですか」
「監視です」
「面倒な言い換え」
「正確な表現です」
扉へ向かいかけ、弘樹はカウンターのコーヒーを振り返った。
「味は悪くありませんでした」
大輔が笑う。
「冷めてたけど?」
「静かな場所で飲むには適温です」
「それ、褒めてる?」
「砂糖がなくてよかった」
最後まで一つ余計だった。
弘樹が帰ったあと、恵梨花は赤い時計を見た。
自分の人生の一部は、二十三歳の新人記者が選んだ見出しに守られ、同時に閉じ込められていた。
事実を知ることは、檻を開けることなのか。
それとも、別の檻へ移るだけなのか。
答えはまだ、三十一本の声の中に眠っていた。




