第6話 指示がないと、黙る人
七月三十日、大生は午前九時ちょうどにBAR SFへ来た。
呼び鈴を鳴らした時刻も、靴を脱いだ時刻も、録音機の前へ座った時刻も、ほとんど秒針に合わせたようだった。
「高槻大生です」
名乗ったあと、何も言わない。
恵梨花は返事の続きを待った。
大生も待っていた。
しばらくして、大輔が間へ入った。
「録音機を直してくれる人」
「それは見ればわかるわ」
大生の両手には、銀色の工具箱と、衝撃吸収材で包まれた測定器がある。
「大生、こっちは恵梨花。芙美さんの姪」
「知っています」
「会ったことある?」
「あります」
それで会話は終わった。
大生はカウンター中央へ白い布を広げ、録音機を置く場所を指で示した。
「ここへ」
恵梨花が古い録音機を持ってくると、大生は一礼し、裏蓋を外した。
ネジは外した順番に並べられ、コードは一度も絡まなかった。作業音は小さい。金属が触れる音さえ、店の静けさを壊さないよう遠慮している。
恵梨花は三十一本のテープを机へ運んだ。
「自由に直してください。必要な物があれば言って」
「自由に」
大生の手が止まった。
「ええ。専門家に任せるから」
「優先順位は」
「動くようにする」
「清掃、電源部、走行部、磁気ヘッド、音量回路、外装があります」
「壊れているところからでいいわ」
「どこが壊れているかを確認するには、確認の順番が必要です」
「その順番も任せる」
大生は黙った。
十分後、恵梨花が様子を見に戻ると、外したコードが長さ順に並んでいた。
「これは修理?」
「自由に整理しました」
「なるほど。自由は広すぎたのね」
咲輝が図書館から持ってきた記録票を机へ置いた。
「まず電源部の安全確認。次に走行部。最後に音声確認。外装は再生できてからです」
「了解しました」
大生はすぐに動き始めた。
恵梨花は咲輝へ小声で言った。
「取扱説明書みたい」
「説明があれば、正確です」
「人にも説明書が必要なのね」
「勝手に書くと危険です」
昨日見つかった保守通路は、航大と咲輝が点検している。扉の先は狭い機械室へ続き、赤い時計の裏側へ通じているらしい。今日は床の強度確認だけで、内部の調査は後日になった。
大生は昼まで休憩を取らなかった。
大輔がサンドイッチを持ってきても、咲輝が「十二時から二十分休憩」と指示するまで手を止めない。
食べるのも静かだった。
「昔からこんな感じ?」
恵梨花が大輔へ尋ねる。
「昔はもう少し喋った。虫の名前とか、機械の音とか」
「人の話は?」
「聞いてた」
「返事は?」
「必要なときだけ」
大生はサンドイッチを持ったまま言った。
「聞こえています」
「ごめんなさい」
「謝罪は不要です」
「怒ってる?」
「怒っていません」
「じゃあ、どういう気持ち?」
大生は少し考えた。
「作業中です」
大輔が咳払いで笑いを隠した。
午後二時四十六分、大生は録音機の電源を入れた。
小さな赤いランプが点いた。
店内の全員が息を止める。
モーターが低く唸り、空のリールがゆっくり回った。
「動いた」
恵梨花が声を上げる。
大生は喜ばなかった。
「走行はします。音声が出るとは限りません」
「慎重な人が増えた」
「私は安全担当です」
咲輝が訂正した。
最初に試すのは、番号一のテープだった。
白でも黄でも赤でもない。札には、芙美の字で「事故当日・偶然記録」と書かれている。
咲輝が手袋をつけ、ケースからテープを出した。
「これは公開許可の対象以前に、現場で偶然録られたものです。ここで内容を確認しても、外部へ出すかは別に決めます」
恵梨花はうなずいた。
大生がテープをセットする。
再生ボタンが押された。
最初に流れたのは、陽気な音楽だった。
遠くで太鼓が鳴り、子どもが笑っている。氷を砕く音。誰かが「焼きそば二つ」と叫ぶ。
夏祭りの日常が、二十三年の暗闇からそのまま出てきた。
恵梨花の肩から力が抜けた。
次の瞬間、風が鳴った。
マイクへ息を吹きかけたような音が急に大きくなる。
紙がばたばたと打ちつける。
グラスが割れた。
太鼓の音が止まり、複数の叫び声が重なった。
恵梨花の舌に、また砂の味が戻った。
録音の中で、金属が軋んだ。
長く、耳を塞ぎたくなる音だった。
そして、子どもの声が叫んだ。
「時計が落ちる!」
恵梨花は椅子の背へ手を置いた。
自分の声だと、説明される前にわかった。
声は高く、今よりずっと素直に恐怖を表している。
何かが倒れた。
録音機そのものが揺れたらしく、音が一度途切れる。
泣き声。
走る足音。
低く咳き込む女性の声がした。
「西口を開けて」
咳のあと、もう一度。
「大生、走れる?」
店内の大生が、わずかに顔を上げた。
録音の中では、少年が答える。
「はい」
次に大きな雑音が入り、音声が歪んだ。
大生はすぐ停止ボタンを押した。
「なぜ止めたの」
恵梨花は、自分でも責めるような声になったと気づいた。
「磁性体が剥がれています。このまま通すと失われます」
「続きは」
「補修してからです」
大生の手は震えていた。
ほんの少しだった。ネジを扱うときには一度も揺れなかった指先が、停止ボタンの上で震えている。
「録音の声、あなたよね」
「はい」
「西口へ行ったの」
「行きました」
「何があった?」
大生はテープを取り出し、保護ケースへ戻した。
「途中で止まりました」
「どれくらい」
「三秒です」
「三秒」
「走れと言われたのに、三秒、止まりました」
彼は時間を誤差なく言った。
「その三秒で、何か起きたの?」
「わかりません」
「だったら」
「わからないから、二十三年間、残っています」
大生は工具を一つずつ箱へ戻した。
「続きの修復には、別の接着剤と乾燥時間が必要です」
恵梨花は質問を続けようとした。
けれど、大生は顔を上げずに言った。
「次の指示をください」
その言葉は、今日の作業についてだけではないように聞こえた。
十二歳の少年が西口へ向かう途中で三秒止まり、二十三年たった今も、誰かが次を命じるのを待っている。
恵梨花は、簡単な慰めを飲み込んだ。
「今日は、テープを安全に保管してください」
「了解しました」
「明日以降、直せるところから直して。順番は咲輝さんと相談して決めて」
「了解しました」
大生はいつもの正確な声へ戻った。
帰り際、赤い時計の下で足を止めた。
見上げはしなかった。
ただ、胸の内で三つ数えるように、三秒間だけ立ってから歩き出した。




