第5話 貸し一つ、借り一つ
七月二十九日の朝、航大は店へ入るなり、床へ片耳をつけた。
恵梨花は、脚立の上で固まった。
「何をしてるの」
「聞いてる」
「何を」
「床」
航大はそれ以上説明せず、拳の関節で板を順番に叩いた。こつ、こつ、こん、と音が変わる。大柄な体に似合わず、指先の動きは繊細だった。
昨日、咲輝が赤い使用禁止札を付けた外階段の三段目は、朝一番で交換された。いま航大は、店内の腐食箇所を確かめている。
恵梨花は脚立から降りた。
「目で見たほうが早くない?」
「人も建物も、見える場所だけ傷むわけじゃない」
言い方は格好よかったが、次の瞬間、航大は床へ頬をつけたまま、くしゃみをした。
積もっていた埃が丸く逃げた。
「今の言葉、返してもいい?」
「貸してない」
「貸し借りに細かいのね」
「細かくないと忘れる」
航大は立ち上がり、作業着の胸ポケットから小さな帳面を取り出した。角が丸まり、紺色だった表紙は灰色に近くなっている。
開いた頁には、日付と名前と品名が細かな字で並んでいた。
大輔から絆創膏一枚。
咲輝から防塵マスク二枚。
乾物屋から麦茶一杯。
恵梨花が頁をめくると、もっと古い字が現れた。
二〇〇三年八月十七日。
芙美さんからボルトカッター一丁。
返却欄は空白だった。
「二十三年前の借りまで残してるの」
「返してないからな」
「工具一本でしょう」
「一本でも借りは借りだ」
航大は帳面を閉じた。
その表情は穏やかだったが、穏やかさの底に、固く沈んだものがあるように見えた。
恵梨花はそれ以上聞かず、物置から段ボールを運び出した。
航大は床板を二枚外し、腐った根太を交換した。釘を抜くたび、木が長く息を吐くような音を立てる。
大輔が下の店からアイスコーヒーを三つ持ってきた。
「俺の分もあるのか」
「昨日、脚立を貸してもらったから」
航大はすぐ帳面を開いた。
「アイスコーヒー一杯」
「書かなくていい」
「忘れたら返せない」
「返さなくていい」
「それを決めるのは借りた側じゃない」
「貸した側だと思うけど」
二人の会話は、昔から何度も繰り返されてきたらしい。恵梨花はストローの袋を破りながら眺めた。
「航大さんって、恩を利息付きで返す人?」
「利息はつけない。帳尻が合わなくなる」
「そこは真面目なんだ」
「そこ以外も真面目だ」
昼を過ぎ、床の修理が終わると、航大は物置の壁を見つめた。
ただの板壁だった。塗装は黒く、棚の跡が四角く残っている。
航大は壁へ近づき、掌を当てた。
「こっち、空洞がある」
「図面にはないわよ」
恵梨花は相続時にもらった簡略図を広げた。
「図面が建物より正しいとは限らない」
「建築の人が言うと、怖いわね」
航大は壁を数か所叩いた。中央だけ音が軽い。
大輔が腕を組んだ。
「時計の裏じゃないか」
「赤い時計?」
「この建物の外壁についてる。昔、点検する人が店の奥へ入っていくのを見たことがある」
恵梨花は図面を回転させた。
BAR SFは、商店街の入口をまたぐ門型建物の二階にある。赤い時計は同じ建物の駅側外壁に掛かっている。位置だけ考えれば、物置の向こうは時計の裏側だった。
「隠し部屋?」
「保守通路だろうな」
航大は、棚を固定していた古い金具を外した。壁板の縁へ細いへらを差し込む。
「壊さないでよ」
「壊すんじゃない。外す」
「結果が同じになる人もいるでしょう」
「俺を信じろ」
「知り合って五分で他人を信じる人の台詞ね」
「知り合って二十三年だ」
航大は当然のように言った。
恵梨花は返事を失った。
自分にはこの町で暮らした十年しかない。それも、事故より前の時間は薄い霧の向こうだ。けれど、町に残った人たちにとって、恵梨花がいなかった二十三年間も、知り合いであった時間に含まれているらしい。
釘が一本、乾いた音を立てて抜けた。
壁板が、わずかに手前へ動いた。
航大は力任せに引かず、上下へ揺らしながら外した。
奥から、冷えた空気が流れてきた。
人一人が横向きで通れるほどの細い通路があった。埃と油の匂いがする。三歩ほど先に、金属の扉が見えた。
扉の表面へ指でなぞったような文字が刻まれている。
SF 足跡を消すな。
「叔母さんの字だ」
恵梨花は、赤い鍵と一緒に入っていたメモを思い出した。
一人で捨てないで。
誰の足跡を消すなというのだろう。
航大は懐中電灯を照らし、通路へ片足を入れた。
「今日はここまで」
背後から咲輝の声が飛んだ。
いつ来たのか、入口に立ち、ヘルメットを三つ抱えている。
「空気の状態、床の強度、出口の有無を確認していません」
航大は素直に足を戻した。
「了解」
「ずいぶん聞き分けがいいのね」
「安全に関しては咲輝へ借りがある」
航大は帳面を開いた。
咲輝がすぐに言う。
「それは貸していません」
「助かったら借りだ」
「では、返済方法は安全規則を守ることです」
航大は少し考え、帳面へ書いた。
咲輝から安全確認一式。
返済――勝手に入らない。
翌日、通路を調べることに決まった。
航大は道具を片づけながら、恵梨花へ尋ねた。
「事故の日のこと、どれくらい覚えてる」
「砂と、音と、手。あとはほとんど」
「そうか」
航大は短く答えた。
「あなたは?」
「金属枠を切った」
初めて聞く具体的な言葉だった。
恵梨花の脚を挟んだ看板。その周りの枠。航大は十七歳で、それを切った。
「それって、私を助けたってことじゃないの」
航大は工具箱の蓋を閉めた。
「助けたのは、銀色の指輪の男だろ」
「でも、枠を切らなかったら」
「俺は工具を使っただけだ」
それは謙遜というより、二十三年間、自分へ言い聞かせてきた決まり文句に聞こえた。
航大が帰ったあと、恵梨花は保守通路の入口に立った。
暗闇の奥から、時計の内部で何かが軋む音がした。
午後四時十七分で止まったはずの時計が、見えない場所でまだ動こうとしているようだった。




