第4話 静かな人の避難経路
町立図書館で最も音を立てるのは、本ではなく人だと咲輝は思っている。
ページをめくる音は小さい。
椅子を引く音、鞄を置く音、くしゃみを我慢して失敗する音、返却期限を過ぎた人がカウンターへ近づく足音のほうが、ずっと大きい。
咲輝は足音で、利用者の用件をある程度当てられる。
まっすぐ速い足音は、探している本が決まっている。
途中で棚へ吸い寄せられる足音は、借りる予定のなかった本を増やす。
返却期限を過ぎた人は、なぜか最後の五歩だけ静かになる。
「咲輝さん」
同僚が小声で呼んだ。
「館長が、今日は四時で上がっていいって。BAR SFの確認でしょう」
「はい。先に児童室の棚を戻します」
「昨日の地震対策、もう充分じゃない?」
「上段の図鑑が一冊、二ミリ出ています」
「二ミリ」
「落ちると痛いです」
同僚は諦めた顔でうなずいた。
咲輝は図鑑を押し込み、棚の固定金具を指で確かめた。安全とは、事故が起きなかった日に褒められない仕事だ。それでいいと思っている。
事故が起きた日に、できなかったことを数えるよりはいい。
午後四時十二分、咲輝は図書館を出た。
鞄には、白い手袋、温湿度計、懐中電灯、マスク、記録票、養生テープ、携帯用の小さな消火スプレーが入っている。
同僚からは引っ越し業者のようだと言われた。
違う。
引っ越し業者は、もっと大きな物を運べる。
砂時計商店街へ着くと、一階の大輔が店先へ出ていた。
「来たね」
「予定より二分早いです」
「階段を上る二分も計算してる?」
「含めています」
「じゃあ、ちょうどだ」
大輔は二階を見上げた。
「恵梨花は、たぶん奥で箱と戦ってる」
「箱は戦いません」
「恵梨花は戦う」
咲輝は否定できなかった。
外階段の一段目へ足を置き、荷重をかける。二段目。三段目。
三段目が、わずかに沈んだ。
咲輝はすぐ足を戻した。
「使用中止です」
「上に恵梨花がいる」
「今、下りてもらいます」
「別の階段は裏側」
「そちらを使います」
大輔が声をかける前に、二階の窓から恵梨花が顔を出した。
「何をしてるの?」
「三段目を使用中止にします」
「昨日も一昨日も使ったけど」
「昨日と一昨日に落ちなかったことは、今日落ちない証明になりません」
「階段一段で会議を始めるの?」
「会議ではなく、決定です」
恵梨花は何か言い返そうとしたが、大輔が裏階段を指した。
「咲輝さんに安全のことで勝とうとしないほうがいい」
「勝ち負けじゃない」
「勝つ気の人の声だよ」
結局、恵梨花は店の奥にある裏階段から下りてきた。
三人で建物の南側へ回り、狭い路地の階段を上る。こちらは鉄製で、錆びてはいるが揺れは少ない。
店へ入ると、床いっぱいに箱が並んでいた。
捨てる。
残す。
確認。
札が貼られている。
「確認が多いですね」
咲輝が言うと、恵梨花は不本意そうに腕を組んだ。
「故人は説明を省くから」
「故人に限りません」
「私も省くと言いたい?」
「聞かれる前に結論まで話すので、途中を省く傾向はあります」
恵梨花は大輔を見た。
「この人、昔からこんなに率直だった?」
「昔は、もっと黙ってた」
「今も必要なことしか話していません」
咲輝は鞄から記録票を出した。
まず床と壁を確認する。窓枠の腐食。天井の染み。配線。非常口。消火器の期限。避難経路。
恵梨花は録音を早く確認したそうだったが、咲輝は順番を変えなかった。
「録音を聞く前に、建物から生きて出られる状態にします」
「言い方が物騒」
「床板の一部が腐っています」
咲輝はカウンター奥の床を指した。
見た目は他と変わらない。だが、靴底で軽く押すと、木が鈍く沈んだ。
恵梨花の表情が変わる。
「ここ、昨日踏んだ」
「今日は踏まないでください」
「昨日落ちなかったことは、今日落ちない証明にならない」
大輔が先回りして言った。
「覚えなくていいところを覚えたわね」
録音機を置く場所は、入口に近い丸テーブルへ変更した。腐った床には養生テープを貼り、航大が来るまで立ち入り禁止とする。
次に、咲輝は銀色の箱を確認した。
三十一本のカセットテープ。
空の三十二番ケース。
銀色の指輪。
白、黄、赤の札。
「これは公開範囲の印だと思います」
咲輝は札の束の下から、芙美の説明書きを見つけた。
白札。公開可。
黄札。本人または遺族へ再確認。
赤札。保存のみ。非公開。
「録音を持っている人なら、自由に聞いていいんじゃないの?」
恵梨花が尋ねる。
「所有と利用は別です」
「相続したのは私」
「録音された人生まで相続したわけではありません」
咲輝は強い言い方をしたあと、少し息を整えた。
人前で意見を言うときは、声が必要以上に硬くなる。
「ただし、保存状態を確認するための最小限の試聴は必要です。誰が聞き、何のために聞いたかを記録します」
「面倒ね」
「面倒にすることで、守れるものがあります」
「人の人生?」
「はい」
恵梨花は答えず、三本のテープを眺めた。
咲輝は一本ずつ番号を記録した。外観、カビ、ケースの割れ、テープのたるみ、札の色。
作業は静かに進んだ。
大輔は階下へ戻り、恵梨花も次第に口数が減った。
夕方の光がブラインドの隙間から入り、カウンターへ細い線を作る。
十一番のテープを持ったとき、咲輝の指が止まった。
黄色い札の裏に、小さく名前が書かれている。
咲輝。
「あなたの録音?」
恵梨花に気づかれた。
「たぶん」
「覚えてないの?」
「録音したことは覚えています。何を話したかは、全部は覚えていません」
「いつ?」
「事故から十年後です」
咲輝はテープを箱へ戻した。
「十一歳のとき、私はBAR SFの裏口にいました」
恵梨花は何も言わず、続きを待った。
その沈黙が意外だった。
「砂じん旋風を見て、十一秒間、動けませんでした」
「十一秒」
「時計が見えました。四時十七分になった直後でした。数えたわけではありません。あとで、事故当日の録音に残った音からわかりました」
十一秒。
今でも咲輝には長い。
紙が空を逆流し、子どもが泣き、何かが倒れる音がした。逃げるべきだとわかっているのに、足は床へ縫いつけられていた。
その十一秒のあいだに、もっと早く鍵を開けられた。
もっと早く声を出せた。
もっと多くのことができた。
「十一秒なんて、瞬きの親戚みたいなものよ」
恵梨花が言った。
咲輝は彼女を見た。
励まそうとしている。悪意はない。自分の言葉で理解できる大きさへ変えようとしているだけだ。
「親戚ではありません」
「比喩だから」
「十一秒は十一秒です」
恵梨花の口元が止まった。
「慰める前に、十一秒を聞いてください」
言ったあと、咲輝は少し後悔した。
強すぎたかもしれない。
けれど恵梨花は反論しなかった。
窓の外で、赤い時計は午後四時十七分を指している。
「わかった」
恵梨花は短く答えた。
「聞く。勝手に短くしないで、十一秒のまま」
その返事は、慰めではなかった。
だから咲輝は、少しだけ息をしやすくなった。
帰る前に、外階段の三段目へ赤い使用禁止札を付けた。
大輔が店先から見上げる。
「赤い時計の下に、赤い札か」
「目立つ色が必要です」
「恋愛にも付けられる?」
「危険が予想される場合は」
「じゃあ、恵梨花には」
「聞こえてるわよ」
二階の窓から声が落ちてきた。
大輔は何も言っていない顔をし、咲輝は記録票へ書き足した。
外階段三段目。使用中止。
大輔。発言前の周囲確認が必要。
書き終えると、ほんの少しだけ笑った。




