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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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第3話 ケーキより甘い言葉を

 大輔の店には、ケーキより甘い言葉を求めて来る客と、甘い言葉だけは要らないと言って来る客がいる。


 前者は恋人の誕生日が多く、後者は配偶者への謝罪が多い。


 七月二十七日の午前十時、ことば菓子店のカウンターには、後者の男性が立っていた。


 「喧嘩したわけじゃないんです」


 五十代ほどの男性は、小さな桃のタルトを前に、困りきった顔をしていた。


 「ただ、妻が髪を切ったのに三日間気づかなくて」


 「三日」


 「毎日会ってます」


 「それは、喧嘩の一歩手前ですね」


 「やっぱり?」


 大輔は細長いカードを取り出した。


 店では希望する客へ、菓子箱に添える一文を書いている。始めたのは十年前だった。最初は誕生日用の短い言葉だけだったが、いつしか告白、謝罪、退職、仲直りまで持ち込まれるようになった。


 店の壁には、金色の文字でこう書いてある。


 『ケーキより甘い言葉を』


 大輔は鉛筆を動かした。


 『変わった髪に気づくのは遅れましたが、変わらず大切に思っています』


 男性はカードを読み、目を丸くした。


 「これ、俺が考えたことになります?」


 「なりません。店員の文章です」


 「正直だなあ」


 「贈るとき、ご自分の言葉を一つ足してください」


 「何を?」


 「髪型の感想を」


 「似合ってると思うんですけど、前と何が違うのかは」


 「そこから先は、ケーキでは救えません」


 男性は深くうなずき、桃のタルトを持って帰った。


 入れ替わるように、二十代の女性が来た。昨日、恋人と別れたらしい。


 「甘い物を食べれば忘れられますか」


 「忘れられません」


 「即答」


 「食べている五分間、別のことを考えられる可能性はあります」


 「じゃあ、いちばん大きいのください」


 女性はモンブランを選んだ。


 大輔は箱へカードを添えた。


 『次の恋はモンブランのように山があります』


 「待って」


 背後から声が飛んだ。


 振り返ると、店の入口に恵梨花が立っていた。昨日と同じ紺色のパンツに、今日は白いシャツを合わせている。髪は一つに束ね、片手に叔母の録音機を抱えていた。


 「慰める気があるの?」


 「山を越えれば景色が変わる、という意味で」


 「モンブランは食べたらなくなるでしょう」


 「新しい恋もなくなる可能性はある」


 「正直すぎる」


 失恋した女性は二人を見比べ、吹き出した。


 「そのカード、ください。今の私には、永遠より信用できます」


 客を見送ったあと、大輔はカード用の帳面へ一行書いた。


 モンブラン、失恋には場合によって有効。


 「その記録、何年続けてるの」


 「十年」


 「言葉よりケーキの研究をしたほうがいいんじゃない?」


 「ケーキは毎朝研究してる。言葉は失敗が多いから、記録が必要なんだ」


 恵梨花は録音機をカウンターへ置いた。


 「大生さんに連絡は?」


 「した。明後日の夕方なら来られる」


 「明後日」


 「今日来られるとは言ってなかったよ」


 「私は今日直るつもりだった」


 「予定に、他人の予定を入れ忘れてる」


 恵梨花は眉を寄せた。


 小学生の頃から、予定どおりに進まないと、口元だけが不機嫌になる。本人は表情に出していないつもりらしい。


 二十三年前もそうだった。


 夏祭りの手伝いで、予定していた金魚すくいへ行けなくなり、露骨に口を尖らせていた。


 その数時間後、砂の中で、同じ口元が震えていた。


 『眠くない。ケーキ、二個くれるまで寝ない』


 小さな手が、大輔の指を強くつかんでいた。


 記憶の中の風が、店内の冷房を一瞬だけ止めたように感じた。


 「どうしたの」


 恵梨花に見られていた。


 「焼き時間を思い出してた」


 「嘘が下手ね」


 「菓子屋だから、嘘より砂糖を扱う時間のほうが長い」


 大輔は作業台へ向き直った。


 本当のことを話すなら、順番が必要だった。


 自分が恵梨花の手を握っていたこと。


 救助したのは自分ではないこと。


 あの日、作業着の腕に銀色の指輪があったこと。


 知っていることと、二十三年間に町で聞いた話が、すでに混ざり始めていること。


 何より、恵梨花自身が覚えていない時間を、自分の言葉だけで塗り直したくなかった。


 「明日は、咲輝さんが来る」


 大輔は言った。


 「図書館の人?」


 「司書。録音や古い資料の扱いがわかる。建物の安全も、まず確認したいって」


 「録音機を直すだけなのに、大げさじゃない?」


 「床が抜けたら困る」


 「昨日も聞いた」


 「昨日、店の外階段の三段目を踏んだ?」


 「踏んだ」


 「少し沈んだだろ」


 「古い階段なら、あのくらい」


 「その『あのくらい』を確認する」


 恵梨花は腕を組んだ。


 「慎重さが三重包装」


 「大切な物は割れないように包む」


 「人間は箱に入らないわよ」


 「だから難しい」


 大輔は冷蔵ケースから、小さなレモンケーキを一つ取り出した。


 昨日渡した物と同じ形だが、表面の砂糖衣が少し薄い。


 「朝食は?」


 「食べた」


 「何を」


 「昨日のパンの残り」


 「それは朝食じゃなくて、昨日の遅刻した夕食」


 「胃に入れば同じ」


 「同じじゃない」


 「栄養士?」


 「ケーキ屋」


 「説得力が微妙」


 言い合いながらも、恵梨花はレモンケーキを受け取った。


 大輔はその動作を見ないふりで、録音機の上へ布を掛けた。


 「指輪のこと、もう一度聞くけど」


 「うん」


 「似た物を、誰が着けていたの?」


 大輔は、冷蔵ケースのガラスに映る恵梨花を見た。


 答えは喉まで来た。


 芙美さんだと思う。


 けれど、それは十六歳の自分が砂の中で見た輪だった。作業着の袖口、血の付いた手、低い咳。そこへ二十三年分の噂が絡みついている。


 「確かめてから話す」


 「そう言って、重要なことを先延ばしにするタイプ?」


 「重要だから先延ばしにするタイプ」


 「扱いにくい」


 「知ってる」


 大輔は胸ポケットから鉛筆を抜いた。


 「今度は何を書くの」


 「慎重さ、好意を減らして見せることがある」


 恵梨花は一瞬、意味を考えた。


 「それ、誰への反省?」


 「商品開発」


 「言葉を商品にする人は信用できない」


 「ケーキは信用してくれる?」


 恵梨花はレモンケーキを一口食べた。


 酸味のあとから、焦がし蜂蜜の甘さが来る。


 「ケーキは、まあ」


 「よかった」


 その一言に喜びが出すぎて、大輔は自分でも困った。


 愛情表現が奔放なのではない。


 隠そうとすると、別の場所からあふれるのだ。


 恵梨花は気づかなかったふりをして、録音機を抱え直した。


 「じゃあ、明日は安全確認。明後日は修理」


 「予定表に他人を入れられたね」


 「期間限定よ」


 「夏休みみたいに?」


 恵梨花は答えず、店を出た。


 外階段を上る足音が遠ざかる。


 大輔は壁の向こうにある赤い時計を見なかった。


 午後四時十七分。


 見なくても、針の位置は知っている。


 あの日からずっと、忘れたことがなかった。



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