第2話 砂が選んだ鍵
翌朝、恵梨花は赤い鍵を、カウンターの上へ置いた。
真鍮の部分には細かな傷があり、赤い革紐は手の脂で少し黒ずんでいる。新品ではない。叔母が長く使っていた物だ。
『一人で捨てないで』
紙に書かれた七文字は、指示として不完全だった。
何を捨ててはいけないのか。
誰と確認すればいいのか。
そもそも、この鍵はどこを開けるのか。
芙美は昔から、肝心な説明を省く人だった。
恵梨花が小学生の頃、母に叱られて店へ逃げ込むと、芙美は事情を尋ねず、クリームソーダを出した。
『炭酸が抜ける前に、言いたくなったら言いなさい』
結局、恵梨花が話し終える前に炭酸は抜けた。芙美は二杯目を作り、それでも急かさなかった。
優しい人だった、と簡単にまとめれば、少し違う。
待てる人だった。
そして、待たされる側には、たまに腹の立つ人だった。
「死んだあとまで待たせるのね」
恵梨花は鍵を持ち、店内を端から調べ始めた。
レジの引き出し。酒棚の下。カウンター脇の戸棚。流し台の足元。どこにも赤い鍵穴はない。
事務机の鍵穴へ差し込もうとしたが、太さが合わなかった。
物置は店のいちばん奥にある。半畳ほどの空間に、掃除道具、紙袋、古い看板が詰め込まれていた。
恵梨花は床へ物を並べた。
捨てる。
残す。
確認。
三つの山を作るつもりが、確認だけが高くなっていく。
叔母の名前が書かれた仕入れ帳。
日付のない写真。
録音済みと書かれたカセットケース。
誰かの誕生日らしい数字が刺繍された布。
「保留は作らないって決めたのに」
決心は、故人の字を見るたび軟らかくなった。
午前十一時を過ぎると、窓から入る空気が熱風へ変わった。恵梨花はブラインドを半分下ろし、物置の布を持ち上げた。
そのとき、外で乾いた音がした。
紙袋が地面を擦る音に似ている。
窓を見ると、商店街の通路で、砂と紙片が小さな柱になって回っていた。
じん旋風。
子どもの頃、町の人は砂じん旋風と呼んでいた。
細い渦は、落ちていたレシートを一枚だけ空へ持ち上げ、門型建物の柱へぶつかって形を崩した。
次の瞬間、開けていた窓から砂混じりの風が入り込んだ。
「ちょっと」
物置の布が恵梨花の手を離れ、天井近くまで舞い上がる。
薄い布の裏に、赤い金属が見えた。
壁際へ押し込まれた古い保管庫だった。
高さは膝ほど。赤茶色に錆び、正面に小さな錠前が付いている。
恵梨花はカウンターまで戻り、赤い鍵を取った。
合わなかったら、また振り出しだ。
鍵を差し込む。
引っかかりもなく奥まで入った。
回すと、乾いた音がした。
保管庫の中には、銀色の箱が収まっていた。
蓋を開けると、古いカセットテープが縦に並んでいる。一から三十一まで、白い数字が振られていた。側面には、白、黄、赤の小さな札が紐で付けられている。
いちばん右端には、三十二とだけ書かれた空のケースと、透明な包装に入った未使用のテープがあった。
その上に、折り畳まれた紙が載っている。
『三十一人を聞いた人が、自分の足音を残してください』
恵梨花は読み直した。
「足音?」
テープを一本取り出す。
ラベルには日付も名前もなく、『一 午後四時十七分』とだけ書かれていた。
二本目には『二 英雄ではなかった』。
三本目以降は、番号だけだった。
銀色の箱の隅で、小さな物が光った。
指輪だった。
飾りのない銀色の指輪。長く使われたのか、細かな傷が無数に走っている。
恵梨花の指先が止まった。
駅に貼られていたポスター。
顔のない男の手に、銀色の輪が描かれていた。
二十三年前、砂じん旋風の中で恵梨花を救った、名乗らない男。
目撃者が覚えていたのは、大きな作業着と、低い声と、銀色の指輪だけだったという。
「こんなところにあったの」
口にした途端、意味が変わった。
もし、この指輪があの男の物なら、叔母は正体を知っていたことになる。
あるいは、男自身がこの店へ来ていたのかもしれない。
恵梨花はスマートフォンを取り出し、指輪と保管庫を撮影した。次に、一本目のテープを店の古い録音機へ入れる。
再生ボタンを押した。
何も起きない。
電源コードを差し直し、側面を軽く叩く。再生、停止、巻き戻し。どのボタンも途中で引っかかった。
「昔の機械は、叩けば直るって聞いたけど」
「それ、直ったんじゃなくて、壊れかけが一度だけ動いた話だよ」
開けたままの扉から大輔が覗いていた。
今日は白い調理服のままで、腕に紙袋を抱えている。
「ノック」
「した。録音機を殴る音で消えた」
「殴ってない。軽く励ましただけ」
「機械への愛情表現が奔放だね」
昨日の仕返しらしい。
大輔は紙袋から、まだ温かい小さなパンを出した。
「朝から食べてないだろ」
「どうしてわかるの」
「昨日のレモンケーキが箱ごと同じ場所にある」
恵梨花はカウンターを見た。確かに、箱は開けてもいない。
「片づけを始めると食事を忘れるタイプだったね」
「二十三年前の人間を現在形で扱わないで」
「現在も同じだから」
言い返せず、パンを受け取る。
大輔の視線が、カウンターの銀色へ移った。
穏やかだった目元が、わずかに固くなった。
「知ってるの?」
恵梨花は指輪を持ち上げた。
大輔はすぐには答えなかった。指輪ではなく、恵梨花の指先を見ているようだった。
「似た物は見たことがある」
「誰が着けていた?」
「そこまでは、まだ言えない」
「まだ?」
「記憶だけで、人の物を決めたくない」
「慎重というより、焦らすのが趣味?」
「慎重。焦らされるほうが嫌なら、確認を急ぐ」
大輔は指輪の内側を覗いたが、触れなかった。
「ひとつだけ言える。男の物だと決まったわけじゃない」
恵梨花は、駅のポスターを思い出した。
「記事では男だった」
「記事が見たわけじゃない。書いた人が、そう決めただけだ」
「何か知ってるのね」
「知っていることと、思い込んでいることを分けたい」
大輔は録音機の蓋を開け、内部を眺めた。
「これは大生なら直せるかもしれない」
「大生?」
「音響機器の修理をしてる。昔、商店街にいた子だよ。口は固いし、古い録音の扱いにも慣れてる」
「連絡して」
「その前に建物の安全確認」
「どうして機械を直す前に床を見るの」
「床が抜けたら、録音を聞く人ごと一階へ落ちる」
「極端ね」
「昨日、階段の三段目が沈んだ」
恵梨花は黙った。
「誰に頼めばいいの」
「図書館の咲輝。古い資料の扱いがわかる。建物については航大。二人とも、芙美さんに世話になってた」
「人数が増えるほど遅くなる」
「一人で持てる荷物と、一人で持つべき荷物は別だよ」
「昨日も聞いた」
「大事なことは、焼き菓子みたいに繰り返したほうが定着する」
「その比喩も油っぽい」
大輔はまた胸の鉛筆を取り出した。
「何を書いてるの」
「焼き菓子、教訓には不向き」
恵梨花は笑いそうになり、パンを一口かじってごまかした。
温かい塩味が、空腹へ落ちていく。
銀色の指輪は、カウンターの上で静かに光っている。
謎の男を示す証拠。
そう呼ぶには、指輪はあまりにも小さく、傷だらけだった。
恵梨花は初めて考えた。
伝説が間違っているのではなく、伝説になる前の人生を、誰も聞いていないだけなのかもしれない。




