第1話 夏休みの相続人
砂鐘町の駅へ降りた瞬間、恵梨花は、この町は冷めたプリンの底に似ていると思った。
甘さの気配だけが残っているのに、表面は乾き、スプーンを入れれば昔の匂いが出てきそうだった。
七月二十五日、午後二時十三分。ホームの屋根は太陽に焼かれ、向かいの線路が湯気のように揺れている。蝉の声は電車が去ったあとも耳の奥に居座った。
恵梨花はキャリーケースの取っ手を引き上げた。車輪がホームの継ぎ目を越えるたび、規則正しく音を立てる。
帰ってきたのではない。
片づけに来ただけだ――そう言い聞かせた。
叔母の篠原芙美が六月に亡くなり、遺言によって、駅前商店街の一角にある店と中身が姪の恵梨花へ残された。建物そのものは九月一日に管理会社へ引き渡すことになっている。十一月には取り壊される予定だ。
恵梨花が会社へ申請した休暇は、ひとまず八日間だった。
八日あれば充分だと思っている。少なくとも、この時点では。
必要な物、不要な物、保留する物。三種類に分け、必要な物だけ東京へ送る。保留は作らないのが理想だった。保留という箱は、判断を未来の自分へ押しつける小さな倉庫だからだ。
改札を抜けると、砂時計商店街の入口が正面に見えた。
左右の古い建物を二階部分でつないだ門型の建物。その外壁に、赤い時計が掛かっている。
午後四時十七分。
長針も短針も、二十三年前から同じ場所にある。
赤い文字盤を見た途端、舌の奥に砂の味が広がった。
金属がねじれる音。
頬に当たる熱い風。
右手を包んだ、誰かの手。
――眠るな。
声がした気がして、恵梨花は瞬きをした。
駅前には風らしい風もない。植木鉢のマリーゴールドが、暑さに耐えるように葉を伏せているだけだ。
「趣味の悪い町おこし」
恵梨花は時計から目をそらした。
事故を忘れないために止めた時計が、いつからか「伝説の英雄が現れた時刻」として観光案内へ載るようになった。駅の壁にも、銀色の指輪をした男の横顔が描かれたポスターが貼られている。
夏休みに出会った、地元の伝説の人。
そんな見出しの下で、顔のない男が赤い時計を背負っていた。
十歳だった恵梨花を助けた人物だという。
恵梨花自身には、その男の記憶がない。
砂時計商店街は、駅前にあるのに驚くほど静かだった。営業中の札を出している店は半分ほど。乾物屋の軒先で扇風機が回り、向かいの眼鏡店では店主が新聞を顔に載せて眠っていた。
門型建物の一階北側から、焼き菓子の匂いがした。
木の看板には、丸みのある文字で「ことば菓子店」と書かれている。その上が、叔母の店だった。
外階段の手すりは、握る前から熱いとわかる色をしていた。恵梨花はハンカチ越しにつかみ、二階へ上がった。
扉の上には、濃紺の小さな看板が残っている。
BAR SF。
子どもの頃は、宇宙人でも集まる店だと思っていた。
相続書類と一緒に受け取った鍵を差し込む。錠は一度引っかかり、二度目で回った。
扉を押した途端、乾いた埃の匂いが鼻を刺した。
「うわ」
思わず声が出た。
店内には、夜が置き忘れられていた。
閉じたブラインド。逆さに伏せられたグラス。黒い革張りの丸椅子。酒瓶の並ぶ棚には薄く埃が積もり、壁の時計は八時十二分を指したまま止まっている。
恵梨花は窓を開けた。外の熱気が押し入り、埃を舞い上げる。
くしゃみを三回してから、手帳を開いた。
一日目、全体確認。
二日目、書類。
三日目、食器と酒類。
四日目、家具。
五日目、廃棄業者。
六日目、発送。
七日目、予備。
完璧だ。
少なくとも、カウンターを見るまではそう思っていた。
店中が灰色なのに、長い木のカウンターだけが、つい最近まで誰かに磨かれていたように艶を残している。
指でなぞっても、埃がつかない。
「相続物件へ勝手に入る人がいる町は、プリンより治安が悪いわね」
「プリンに治安があるのかは知らないけど、勝手には入ってないよ」
背後から声がした。
恵梨花は振り返り、掃除用の柄を槍のように構えた。
入口に立っていた男は、両手をゆっくり上げた。片手には白いケーキ箱がぶら下がっている。
「武器はレモンケーキだけです」
背が高く、白いシャツの袖を肘まで折っている。目元は穏やかで、いきなり掃除用具を向けられても声を荒らげなかった。
見覚えがあるような、ないような顔だった。
男は恵梨花より先に名乗った。
「大輔。下の店をやってる」
「ああ」
記憶の中に、六つ年上の少年が浮かんだ。夏祭りの日、菓子屋の息子として手伝いをしていたはずだ。ただ、顔はうまく重ならない。
「昔より育ったわね」
「二十三年あれば、それなりに」
「横には育ってない」
「ケーキ屋としては努力不足かもしれない」
大輔は笑い、構えられた掃除用具の先へケーキ箱を差し出した。
「おかえり、恵梨花」
その言葉だけが、店の空気から少し浮いた。
「帰ってきたんじゃないわ。片づけに来ただけ」
「じゃあ、片づけにおかえり」
「便利な日本語ね」
受け取った箱の側面に、小さなカードが差してある。
恵梨花は読み上げた。
「二十三年ぶりの君へ。再会は発酵バターより香る」
「店のサービス」
「比喩が油っぽい」
「発酵バターは香りが売りなんだけど」
「再会の横に置くと胸焼けする」
大輔は傷ついた様子もなく、胸ポケットから細い鉛筆を出し、何かをメモした。
「何を書いたの」
「発酵バター、再会には不向き」
「反省が具体的すぎる」
大輔によれば、芙美が入院する前まで、週に一度、窓を開けてカウンターだけ乾拭きしてほしいと頼まれていたらしい。相続手続きが始まってから店には入っていないという。
「どうしてカウンターだけ?」
「芙美さんが、ここは人の肘と秘密を載せる場所だから、最後まできれいにしておきたいって」
恵梨花はカウンターへ目を戻した。
人の肘と秘密。
いかにも叔母が言いそうで、いかにも意味がわからない。
「廃棄業者、もう決めた?」
「明後日、見積もりに来る。酒類は買い取り。家具は状態次第。書類は私が確認して、個人情報がある物は溶解処理」
「一人で?」
「一人のほうが早いから」
「早いのと、間違えないのは別だよ」
恵梨花は手帳を閉じた。
「慎重なのね」
「ケーキは焼き直せないし、人の話も一度捨てたら戻らないから」
「店にあるのは、古いグラスと酒瓶よ」
「そうだといいけど」
大輔は言って、赤い時計のある方角を見かけた。
だが、視線は窓枠の手前で止まった。
ほんの一瞬だったが、恵梨花は気づいた。
「時計、嫌いなの?」
「好き嫌いを決めるには、少し長く見すぎた」
大輔はそれ以上言わなかった。
一階から焼き上がりを知らせる音が響く。
「戻るよ。レモンケーキは冷蔵庫に入れなくていい。今日中がいちばんおいしい」
「賞味期限は?」
「恋より短く、後悔より長い」
「普通の日数で答えて」
「三日」
大輔が階段を下りると、店はまた静かになった。
恵梨花はケーキ箱をカウンターへ置き、郵便受けを確認しようと入口へ戻った。扉の内側に古い金属箱が付いている。
蓋を開けると、広告の紙の下から、赤い革紐の付いた小さな鍵が出てきた。
鍵には二つ折りの紙が結ばれている。
叔母の字だった。
『一人で捨てないで』
恵梨花が紙を裏返したとき、店の奥で音がした。
ちりん。
扉のベルによく似ていた。
けれど入口の扉は閉まったままで、店内には恵梨花しかいなかった。




