第17話 母の電話は三分だけ
母に電話をかけるまで、恵梨花は三時間かかった。
電話そのものは、三十秒もあればかけられる。連絡先を開き、名前を押すだけだ。
けれど、その三十秒の前に、店の床を掃き、指輪を柔らかい布で包み、冷蔵庫に残っていた炭酸水を飲み、飲んだことを後悔し、もう一度床を掃いた。
八月十四日の午後七時。BAR SFの窓には、日が沈んだあとの薄い青が残っていた。
大輔たちは帰っている。恵梨花は一人で電話をかけるつもりだった。単独行動を好むというより、誰かが隣にいると、母へ言う言葉まで説明用に整えてしまいそうだった。
呼び出し音は二回で止まった。
『もしもし』
「私」
『表示でわかってる』
母の声は、いつもどおりだった。いつもどおりすぎて、恵梨花は腹が立った。
「今、話せる?」
『三分なら』
電話の向こうで、電子音がした。
「何の音?」
『台所のタイマー。三分にした』
「そんなに私との会話を煮込みたくないの」
『煮込むと、あなたは比喩が増えるでしょう』
母は、こういうところだけ妙に鋭い。
恵梨花は銀色の指輪を見た。布の上で、蛍光灯の光を細く返している。
「芙美おばさんだったの」
前置きを作る余裕はなかった。
母は聞き返さなかった。
「赤い時計の下で、私を抱き上げたの。銀色の指輪をしていた人」
『そうよ』
あまりに短い返事だった。
恵梨花は、耳の奥に小さな穴が開いたような感覚に襲われた。二十三年間入ってこなかった言葉が、急にそこから流れ込んでくる。
「どうして言わなかったの」
『姉一人が助けたわけじゃないから』
「それでも、直接引き出したのはおばさんだったんでしょう」
『航大君が金属を切った。咲輝ちゃんが裏口を開けた。大生君が人を呼んだ。大輔君があなたの手を握った。新聞社の若い人が消防へ場所を伝えた。ほかにもいた。姉は、それを一人分の名前にしたくなかった』
「だから、謎の男のままにしたの?」
『新聞が勝手に男にしたのよ。私はあなたに、大勢に助けられたと言った』
「でも、訂正しなかった」
母は黙った。
電子タイマーの残り時間が、恵梨花には見える気がした。二分。たぶん、もう少し短い。
『できなかったの』
「何が」
『姉の名前を言うことが』
電話の向こうで、食器が触れ合う音がした。
『事故のあと、姉は肺を痛めた。咳が止まらなくなって、店を何度も休んだ。私は、あなたが助かったことより先に、姉が死ぬかもしれないと思った』
恵梨花は椅子へ座った。
『病院で姉に言ったの。どうして全部、自分で背負おうとするのって。あなたが店の中の子どもを逃がしたなら、あとは消防を待てばよかったでしょうって』
「それは、おばさんを責めたんじゃなくて――」
『責めたのよ』
母の声が重なる。
『怖かったから責めた。姉を失うかもしれない怖さと、事故のとき自分がその場にいなかった後ろめたさを、怒りに焼き直した。姉は、私に、あなたならどうしたのと言った。私は答えられなかった』
電子音が鳴った。
三分が終わった。
二人とも電話を切らなかった。
「タイマー、鳴ったよ」
『聞こえてる』
「切らないの」
『あなたが切れば』
「そっちが三分って決めたんでしょう」
『決めた人が、必ず守れるとは限らないの』
その言葉は、少しだけ芙美に似ている気がした。恵梨花が知っている叔母は、約束の時間へ必ず五分遅れ、そのくせ客の誕生日だけは一日も間違えなかった。
「おばさんとは、そのあと話さなかったの」
『必要な連絡はした。でも、謝れなかった。二〇一二年に町を出るときも、奈津子さんのところへ行くと知っていたのに、よかったねと言えなかった』
「どうして」
『姉が私より幸せになることが、寂しかったから』
恵梨花は息を止めた。
母は、立派な理由だけを持っている人ではなかった。姉を心配し、娘を守り、自分だけ置いていかれることを妬んだ。どれか一つにすれば理解しやすい。けれど、一つにすれば母ではなくなる。
「お母さん、今まで、おばさんを嫌っていたの」
『大好きだったわよ。だから面倒だったの』
恵梨花は笑った。笑うつもりはなかったのに、喉から短い音が漏れた。
「怒りって、怖さが焦げた匂いに似てるね」
電話の向こうで、母が鼻から息を吐いた。
『あなたの比喩は、たいていわからないけど』
「けど?」
『それだけは、わかる』
窓の外で、商店街の街灯が一つずつ点いた。
「私、おばさんを、私を助けた人としてしか見てなかった」
『知らなかったんだから仕方ないでしょう』
「知らなかったことと、知ろうとしなかったことは、同じじゃない」
『誰に似たのかしら、その面倒なところ』
「お母さんと、芙美おばさんを半分ずつ煮込んだんじゃない」
『煮込まないでって言ったでしょう』
今度は二人で笑った。
母は、すぐ砂鐘町へ来るとは言わなかった。恵梨花も求めなかった。
代わりに、銀色の指輪の刻印を伝えた。
『奈津子さんのNと、芙美のFね』
「知ってた?」
『昔、姉が見せびらかしに来たもの。結婚指輪よりきれいでしょうって』
「愛情表現が大輔みたい」
『大輔君、まだケーキに変な文章を書いてるの』
「知ってるの?」
『芙美から写真が送られてきてたから』
恵梨花の胸に、小さな引っかかりが生まれた。
母と芙美は、完全に縁を切っていたわけではない。仲直りも謝罪もできないまま、写真だけは届き、母はそれを捨てずに見ていた。
人と人の間は、扉のように開くか閉じるかではない。少しだけ隙間があり、そこへ何年分もの埃と光が一緒に差し込むことがある。
「今度、写真を見せて」
『今度って、いつ』
「九月。東京に戻ったら」
口にしてから、大輔にはまだ戻る日を伝えていないことを思い出した。
『そう。じゃあ九月に』
母はそれ以上聞かなかった。
通話時間は二十八分四十六秒になっていた。
「三分、ずいぶん伸びたね」
『タイマーが壊れてたのよ』
「二十八分前に正常に鳴ったけど」
『細かいことを言う子ね』
電話を切ったあと、恵梨花は銀色の指輪を布で包み直した。
母の人生を理解したとは思わなかった。
ただ、これまで見えていなかった足跡を一つ見つけた。
それだけで、母へ続く道は、昨日より少し長くなり、少し歩きやすくなっていた。




