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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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第18話 大輔の十六歳

 大輔は、自分の十六歳の声を聞くくらいなら、店の前で裸になって愛を叫ぶほうがまだましだと思っていた。


 愛を叫ぶことには慣れている。


 裸になるほうは、警察と咲輝に止められるだろうが、少なくとも録音は残らない。


 八月十五日の午後。BAR SFの試聴机には、白札の付いた一本が置かれていた。


 ラベルには芙美の字で、ただ「大輔 十六歳」とある。


 「年齢まで書く必要ありました?」


 大輔が言うと、玲がノートから顔を上げた。


 「三十九歳の声と区別するためじゃないですか」


 「現在の年齢を確認する必要もなかった」


 「僕は正確さを重視しています」


 「人前で慎重な人が、他人の年齢には大胆だね」


 恵梨花が笑った。


 その笑顔を見た瞬間、大輔は、録音を聞かなくてもいいと思った。二十三年前に伝えたかったことの半分は、目の前で彼女が笑っているだけで済んでいる。


 残りの半分が、ずっと厄介だった。


 大生がテープを確認した。


 「保存状態は良好です。白札なので、篠原芙美さんの記録では、大輔さん本人の許可があれば試聴と公開が可能です」


 「試聴だけ。公開は保留で」


 「承知しました」


 咲輝が一覧表へ書き込む。


 「途中で止めたい場合は、理由を説明せず手を上げてください」


 「両手を上げたら?」


 「より強い停止意思と判断します」


 「逃げる人みたいになるな」


 「逃げても構いません。ただし階段は走らないでください」


 大輔は、十六歳の自分より、今の自分のほうが追い詰められている気がした。


 再生ボタンが押された。


 最初に聞こえたのは風だった。


 砂が窓と看板を叩く音。遠くで割れる食器。誰かが子どもの名前を呼ぶ声。


 そして、若い大輔の声。


 『聞こえる? 目、開けられる?』


 返事はない。


 『寝たら駄目だよ。寝たら、ケーキが一個になるから』


 現在の店内で、恵梨花が眉を寄せた。


 「最初は二個だったんじゃないの」


 「交渉の途中だったんだ」


 録音の中で、かすかな少女の声がした。


 『二個……』


 『そう、二個。目を開けたら二個。ずっと開けてたら三個』


 『そんなに、食べられない』


 『じゃあ、僕が一個食べる』


 『ずるい』


 『君が起きてないと、ずるいって言えないよ』


 大輔は額を押さえた。


 玲が何かを書いている。


 「書かないで」


 「台詞を記録しています」


 「そこは赤札にしたい」


 「大輔さんの意思で、今から変更できます」


 咲輝が真顔で札の束を差し出した。


 「制度が整いすぎている」


 録音は続いた。


 『目を開けて。君の泣いた顔、苺より赤いから』


 恵梨花が吹き出した。


 「苺は赤いでしょう」


 「十六歳に比喩の精度を求めないで」


 『苺より赤いなら、病気だよ』


 録音の少女まで同じことを言った。


 店内の全員が笑った。


 大輔だけは、笑いながら胸の奥が痛んだ。


 あの日の恵梨花は、泣きながらも言葉の間違いを指摘した。砂で顔が汚れ、脚を挟まれ、時計の外箱が軋む音に震えていた。それでも、誰かの言葉を受け取り、返していた。


 大輔は、彼女が返事をするたび、自分もここにいてよいと思えた。


 『名前、何?』


 録音の中で恵梨花が尋ねた。


 『大輔』


 『だいすけ』


 『うん』


 『忘れたら、ごめん』


 『忘れていいよ。起きてたら、それでいい』


 現在の恵梨花の笑いが止まった。


 大輔はテーブルの木目を見た。


 忘れていいと言った。


 本当は忘れてほしくなかった。十六歳の自分は、その二つを同時に抱え、格好をつけるほうを口にした。


 金属を切る音が入る。


 航大の若い声が工具名を叫び、芙美が隙間へ入る。消防の到着を知らせる声も近づいてきた。


 『大輔、手を離さないで』


 芙美の声。


 『離しません』


 『この子を引く。痛いよ、恵梨花』


 『ケーキ……』


 『三個! 三個だから!』


 『二個でいい……』


 大輔は目を閉じた。


 録音の中で、恵梨花の身体が引き出される。大人たちの声が重なり、担架を求める声がした。


 最後に、十六歳の大輔が小さく言う。


 『よかった』


 それは、今の大輔が思っていたより幼い声だった。


 再生が終わった。


 誰もすぐには話さなかった。


 大輔は両手を上げたくなったが、もう止める音はない。


 「思い出した」


 恵梨花が言った。


 大輔は顔を上げた。


 「全部じゃない。手の温度と、声。ケーキを勝手に増やす人」


 「増やしたのは、君が起きていたから」


 「私、名前まで聞いてたんだね」


 「忘れていいと言ったから」


 「本当に忘れられると思った?」


 「思わなかった」


 「じゃあ、どうして二十三年間、言わなかったの」


 責める声だった。


 大輔は言い訳を選ばなかった。


 「事故のあと、君の家に手紙を出した。転居先不明で戻った」


 「手紙?」


 「名前と、ケーキの約束を書いた。字が下手で、住所を間違えた可能性もある」


 「慎重なのに?」


 「十六歳だったから」


 玲が小さくうなずいた。


 「十六歳は便利な説明ですね」


 「十九歳が言わないで」


 大輔は続けた。


 「そのあと、新聞に謎の男の記事が出た。俺が名乗ったら、助けた人のふりをするみたいだった。実際、俺は手を握っただけで、君を引き出したのは芙美さんたちだった」


 「手を握っただけ、って言わないで」


 恵梨花の声が強くなった。


 「咲輝さんの十一秒も、大生さんの三秒も、航大さんの工具も、誰も『だけ』じゃなかったでしょう。自分のことだけ小さくするの、ずるいよ」


 大輔は何も言えなかった。


 恵梨花の目に涙がたまっている。


 「再会してからも言わなかった」


 「恩を着せたくなかった」


 「私が思い出すかどうかを、私より先に決めたんじゃないの」


 「そうかもしれない」


 「慎重さって、優しさの顔をして逃げることがあるね」


 胸へ刺さったが、否定できなかった。


 「ごめん」


 大輔は、それだけを言った。


 恵梨花は涙を拭いた。


 「でも、ありがとう」


 怒りと感謝は、同じ場所に置けるらしい。


 大輔は初めて知った。


 言葉を一つに選ばなくても、相手へ渡せることがある。


 「恵梨花」


 「何」


 「俺は、二十三年前から――」


 店の扉が勢いよく開いた。


 咲輝が、赤い消火器を両手で抱えている。


 「すみません。裏階段側の消火器が使用期限を七か月過ぎています」


 大輔は口を開けたまま止まった。


 咲輝は二人を見た。


 「会話中でしたか」


 「最も重要なところだった」


 「火災時も重要です」


 「それはそうだけど」


 「続けてください。私は聞かないように交換します」


 咲輝は三歩離れ、背中を向けた。


 消火器の安全ピンが、妙に大きな音を立てた。


 恵梨花が笑い出す。


 大輔も笑った。


 続きを言うには、もう空気が安全になりすぎていた。


 「今度にする」


 「また慎重さの顔をして逃げてない?」


 「次は、消火器の期限を確認してから言う」


 「先に告白内容を確認したほうがいいと思う」


 恵梨花はそう言って、録音機へ視線を戻した。


 大輔は、その横顔を見ながら思った。


 十六歳の自分は、彼女を眠らせないために言葉を並べた。


 三十九歳の自分は、目の前の人がどんな人生を選ぶかを聞くために、今度こそ言葉を選ばなければならない。



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