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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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第16話 一生に一度の恋・前半

 奈津子は、電話に出るまで十一回鳴らした。


 八月十日の午前十一時。


 BAR SFのカウンターには、黄色い札の付いた一本のテープと、銀色の指輪が置かれている。


 恵梨花は受話器を両手で持っていた。


 『はい』


 年を重ねた女性の声がする。


 「あの、篠原恵梨花と申します。芙美の姪です」


 電話の向こうが静かになった。


 『恵梨花ちゃん』


 名を呼ばれただけで、叔母の知らない時間が一気に近づいた。


 「私をご存じなんですか」


 『写真で。録音で。芙美は、あなたの比喩が年々わかりにくくなると言っていました』


 恵梨花は受話器を少し離した。


 「そんな報告まで」


 『去年は、人生は賞味期限の読めない豆腐だ、と言ったそうね』


 「正確には、開封日を書き忘れた豆腐です」


 『もっとわからなくなったわ』


 奈津子が笑った。


 その笑い方は、写真の大きな眼鏡の女性と同じなのだろうか。


 恵梨花は用件を説明した。


 店に残された三十一本の録音。


 銀色の指輪。


 事故の記事。


 そして「一生に一度の恋」と書かれた黄札のテープ。


 奈津子は、すぐには答えなかった。


 『その題を付けたのは芙美です』


 「聞いてもよいですか」


 『誰が聞くの』


 恵梨花は七人の名と、それぞれが事故にどう関わったかを説明した。


 奈津子は一人ずつ確かめた。


 『新聞を書いた人もいるのね』


 「はい」


 『若い小説家も』


 「まだ小説家ではありません。本人はなるつもりです」


 離れた椅子で玲が背筋を伸ばした。


 『聞くことだけ許します。外へ出すのは、内容を確認してから。私の名も、まだ書かないで』


 「わかりました」


 『それから、途中で嫌になったら止めて。あなたがではなく、私が』


 「電話をつないだまま聞きますか」


 『ええ。離れて聞くのは、得意だから』


 その言葉の意味を、恵梨花はまだ知らなかった。


 受話器をスピーカーへ切り替える。


 咲輝が全員へ確認し、大生がテープを録音機へ入れた。


 ケースには、芙美の字で小さな追記がある。


 指輪の由来。事故記事の誤解に関係するため保管。


 再生ボタンが押された。


 雑音の向こうから、若い芙美の声が流れる。


 『題を決めた』


 現在の奈津子が電話口で小さくため息をついた。


 『一生に一度の恋』


 録音の奈津子が笑う。


 『大きく出たね』


 『録音は題が大事なんだよ』


 『誰かさんの店は、題より中身を大事にする場所じゃなかった?』


 『これは特別』


 二人の声は若い。


 芙美は二十代半ば、奈津子も同じくらいだろう。


 録音された部屋では、時々、食器の触れる音がする。


 『奈津子。私は、砂鐘町を出られない』


 急に、芙美の声から笑いが消えた。


 『母さんを一人にできない。店も始めたばかりだ。そっちへ行くと言ったのに、ごめん』


 『謝る前に、私の話も聞いて』


 『うん』


 『私も、父を置いて動けない。仕事も辞めたくない』


 沈黙が入る。


 大生の指が音量つまみへ触れたが、動かさなかった。


 無音ではない。


 二人の呼吸がある。


 『では、どうする』


 芙美が尋ねる。


 『離れて暮らす』


 『別れるってこと?』


 『どうして、同じ家に住まないと別れになるの』


 『会えない』


 『会いに行く』


 『毎日は無理だ』


 『毎日会うことだけが、恋なの』


 録音の芙美は答えない。


 恵梨花も、胸の内で答えられなかった。


 好きなら一緒にいる。


 一緒にいられなければ、いつか終わる。


 そう考えるほうが簡単だった。


 東京と砂鐘町。


 仕事と、赤い時計の下にいる大輔。


 選べないなら始めないほうがよい。恵梨花は、ずっとそう思っていた。


 録音の奈津子が続ける。


 『離れて暮らす選択を、負けたみたいに言わないで。私たちは、家族も仕事も捨てない。それで私たちまで捨てる必要はないでしょう』


 『寂しいよ』


 『私も』


 『寂しいまま続けるの?』


 『寂しくない恋なんて、同じ家にいてもないんじゃない』


 大輔が、わずかに笑った。


 電話の向こうの奈津子も笑う。


 『そこは、若い私が少し格好をつけています』


 「少しですか」


 恵梨花が尋ねる。


 『かなり』


 録音の芙美が言う。


 『月に一本、録音しよう』


 『手紙じゃなくて?』


 『字だと、強がれる。声なら、少しばれる』


 『全部ばれたら?』


 『それは困る』


 『では、一割だけ正直に』


 『少なすぎない?』


 『毎月なら、十か月で一人分』


 『人間は足し算じゃないよ』


 二人は笑った。


 その笑いのあと、芙美が何か言いかけた。


 『この指輪を――』


 音が揺れた。


 テープが一瞬遅くなり、声が低く伸びる。


 大生がすぐ停止ボタンを押した。


 「ここから磁性体が浮いています」


 奈津子が電話の向こうで尋ねる。


 『続きは聞けないの』


 「修復を試みます。ただし、成功するとは言えません」


 『そう』


 落胆を隠さない声だった。


 恵梨花は謝りそうになり、やめた。


 代わりに尋ねる。


 「奈津子さん。お二人は、その後も録音を?」


 『月に一本。三十年以上』


 「ずっと離れて?」


 『二〇一二年からは、一緒に暮らしました。それまでは、行ったり来たり』


 「終わらなかったんですね」


 言った直後、自分の失礼さに気づいた。


 奈津子は怒らなかった。


 『終わる時期もありましたよ。喧嘩して、三か月録音を送らなかったこともある。別の人を好きになりかけたことも、芙美にはあった』


 店内の誰も動かなかった。


 『でも、続けることを選び直した。きれいな一本線ではないの』


 「一生に一度の恋なのに?」


 『その意味は、録音の続きで芙美が話しています。直ったら聞いて』


 通話が終わったあと、皆はすぐに席を立たなかった。


 大輔が銀色の指輪を見る。


 「一緒に住めなかった証拠じゃない」


 恵梨花は隣を見る。


 「何の証拠?」


 「二人が、選び続けた証拠」


 大輔の声は、ケーキ箱へ書く言葉より静かだった。


 恵梨花の鞄には、東京へ戻る日の新幹線予約票が入っている。


 八月三十一日の夜。


 大輔には、まだ言っていない。


 離れて暮らす恋を終わった恋だと思わない人の隣で、恵梨花は帰る予定を黙っていた。


 それは慎重さではない。


 選ばないことで、何も失わないふりをしているだけだった。



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