第15話 銀色の指輪は誰のもの
銀色の指輪の内側には、肉眼では読めないほど浅い傷があった。
八月九日、咲輝は図書館の資料修復室へ指輪を持ち込み、拡大鏡の下へ置いた。
「研磨剤は使いません。光の角度だけ変えます」
恵梨花、大輔、航大、玲が、作業台を囲む。
大生は録音機の冷却状態を確認するためBAR SFに残り、弘樹は新聞社へ戻っていた。
咲輝が細い照明を横から当てる。
銀の内側に、アルファベットが浮かんだ。
N to F 1978
玲が声に出す。
「エヌからエフへ。一九七八年」
「Nは人名でしょうか」
「Fは芙美さん」
恵梨花が答えた。
自分の口から出た名前なのに、遠くで誰かが言ったように聞こえた。
咲輝は指輪を保管ケースへ戻すと、別の箱を運んできた。
「昨日、地域写真資料を調べました。銀色の指輪が写っている可能性のある写真が一枚あります」
薄い和紙を外す。
昭和五十三年の夏。
商店街の小さな喫茶店前で、二人の若い女性が笑っている。
一人は、二十歳の芙美だった。
恵梨花の記憶にある叔母より頬が丸く、髪が長い。腕を組んでいるもう一人の女性は、細い眉と大きな眼鏡が印象的だった。
芙美の左手に、銀色の指輪がある。
写真の裏には、青いインクで書かれていた。
奈津子と芙美。初めて二人で店番をした日。
「奈津子」
玲が刻印と写真を見比べる。
「Natsuko to Fumi」
航大が腕を組んだ。
「芙美さんの指輪だった」
「写真が同じ意匠に見えるだけです」
咲輝は慎重に言う。
「刻印と年代は一致します。ただし、写真だけで現在の指輪と同一だと断定はできません」
「でも、可能性は高い」
恵梨花が言った。
自分の声が、他人の取材を整理するときの声になっている。
可能性が高い。
断定できない。
追加確認が必要。
そうやって言葉を並べれば、胸の中を見ずに済む。
大輔が写真へ顔を近づけた。
「事故の日も、芙美さんはこの指輪をしてた」
全員が大輔を見る。
「見たの?」
恵梨花の問いに、大輔はうなずいた。
「手を覚えてる。恵梨花を引き上げるとき、枠の内側から出てきた手。指輪が光った」
「どうして今まで言わなかったの」
「指輪が芙美さんの物だと、俺は知らなかった。銀色の輪が見えたことなら、当時の聞き取りでも話した」
「男の手だった?」
「わからない」
大輔は迷わず答えた。
「砂で黒く見えた。袖が大きくて、腕も太く見えた。咳をしていて、声は低かった」
航大が顎へ手を当てる。
「作業着は、うちの親父のだ」
「どういうこと?」
「祭りの朝、時計の飾りを直してた。親父は昼に熱を出して帰った。作業着を店の裏へ置いたままにしたんだ。砂がひどくなったとき、芙美さんが着た」
「なぜ」
「半袖じゃ、割れたガラスと金属の中へ入れない」
大輔は続ける。
「芙美さんは、あの日ずっと咳をしてた。砂を吸って、声が低くなってた。大きな上着。低い声。銀色の指輪」
弘樹の記事にあった三つの特徴が、目の前の写真へ重なっていく。
玲が小さく言った。
「謎の男は、芙美さんだった」
「違う」
恵梨花は強く言った。
資料修復室に、紙をめくる音さえなくなる。
「まだ決まってない。指輪が叔母さんの物でも、事故の日に中へ入った人が叔母さんだとは――」
「大輔さんが見ています」
「顔は見てない」
「作業着も一致します」
「借りた人がほかにいたかもしれない」
「恵梨花」
大輔が呼ぶ。
「決めないで」
恵梨花は写真から目を逸らした。
「一つ見つかるたびに、みんなすぐ形にする。男じゃなかった。叔母だった。はい、これで真相。そんなに簡単にしないで」
声が震えていた。
芙美が自分を助けた。
それが本当なら、母は知っていたはずだ。
なぜ何も言わなかったのか。
なぜ新聞の男を訂正しなかったのか。
なぜ芙美は、自分へ一度も名乗らなかったのか。
二十三年間、感謝する相手を知らずに生きた。顔のない英雄へ礼を言う想像を何度もした。そのすぐ近くにいた叔母へ、自分はどんな態度を取っていたのか。
最後に会ったのは八年前だった。
仕事が忙しいと言い、夕食を断った。
電話も折り返さなかった。
もし芙美が救助者なら、その後悔まで一度に名前を持ってしまう。
咲輝が写真へ和紙を戻した。
「今日は、断定しません」
玲が何か言いかける。
咲輝は首を横へ振った。
「資料が増えたことと、恵梨花さんの気持ちが追いつくことは別です」
航大も立ち上がった。
「それに、芙美さん一人じゃ枠は動かなかった」
自分が切った。
咲輝が道を開けた。
大生が人を誘導した。
大輔が手を握った。
弘樹が消防を呼んだ。
芙美が抱き上げたとしても、一人の英雄へ置き換えれば、同じ間違いを繰り返す。
恵梨花は椅子へ座り直した。
「写真を、もう一度見せて」
咲輝が和紙を外す。
若い芙美は、奈津子と肩を寄せて笑っている。
事故の救助者でも、叔母でも、BAR SFの店主でもない顔だった。
「奈津子さんは、いまも生きてる?」
「芙美さんの住所録に、連絡先がありました」
「連絡していいのかな」
「指輪と黄札テープについて、確認する必要があります」
咲輝は写真の裏書きを見た。
「ただし、聞きたいことを全部聞く権利があるわけではありません」
恵梨花はうなずいた。
銀色の指輪は、伝説の男の正体を示す鍵ではなかった。
芙美が、自分の知らない人生を生きていた証拠だった。




