第14話 弘樹の見出し
八月八日の朝、弘樹は砂鐘日報の資料室で、二十三年前の取材ノートを開いた。
表紙には、若い自分の字でこう書いてある。
八月十七日 砂時計商店街 じん旋風。
字は今より大きく、右上がりだった。
自信があったのではない。
自信があるように見せたかったのだ。
頁をめくる。
午後四時二十二分、消防到着。
負傷者九名。
少女一名、看板下から救出。
救助者――大きな作業着。銀色の輪。低い声。
その下に、鉛筆で「男?」と書いてある。
疑問符は、翌朝、青いボールペンで塗り潰されていた。
二十三歳の弘樹は、現場で誰より早く記事を出したかった。
電話回線が混み合う中、新聞社の携帯無線で消防へ場所を伝えた。救急車が入れる道を確認し、負傷者の人数を数え、病院へ運ばれた人の名を追った。
記者として、できることをしたつもりだった。
翌朝、当時の編集長は取材ノートを指で叩いた。
『誰が助けた』
『複数です。枠を切った少年、店の人、少女の手を握った少年、通路を空けた人たちがいます』
『読者が覚えられない』
『事実です』
『事実を全部並べるだけなら、掲示板でいい』
編集長は「銀色の輪」の文字を丸で囲んだ。
『これだ。名乗らず去った男。絵になる』
『男とは確認できていません』
『大きな作業着で、低い声だったんだろう』
『砂と咳のせいかもしれません』
『では、確認してこい』
確認しに行った。
商店街の会長は言った。
『男だったと思う。あんな重い枠の中へ入るのは男だろう』
祭りの客は言った。
『銀色の指輪が見えた。男の手だったかは、よくわからない』
別の客は言った。
『背が高かった。いや、屈んでいたからわからない』
誰も顔を見ていなかった。
誰も名を知らなかった。
だから、一人の人物を作るには都合がよかった。
町長は、暗い事故記事だけでは祭りが終わると言った。
商店街の会長は、勇気の話も残してほしいと言った。
弘樹は、町が前を向くための記事なのだと自分へ言い聞かせた。
そして見出しを書いた。
銀色の指輪の男、砂じん旋風から少女救う。
疑問符を消したのは編集長ではない。
弘樹自身だった。
午前十時、弘樹は取材ノートを持ってBAR SFへ上がった。
録音機は大生の判断で休ませている。丸テーブルにはテープの代わりに、咲輝が用意した白い閲覧台が置かれていた。
「原本です」
弘樹はノートを台へ置く。
咲輝が手袋を渡した。
「持ち主にも着けていただきます」
「私のノートです」
「二十三年前の資料です」
「まだ現役で使っています」
「でしたら、なおさら傷めないでください」
弘樹は反論せず手袋を着けた。
恵梨花が向かいへ座る。
「見せてください」
最初の数頁は、事故の時刻と負傷者の搬送先だった。
次の頁から、証言が並ぶ。
大きな上着。
銀色の輪。
低い声。
顔は見えない。
性別、不明。
「不明と書いてある」
恵梨花の声が低くなった。
「はい」
「なのに、記事では男にした」
「はい」
「誰かに書き換えられたんですか」
「いいえ」
「上司に命令された?」
「強く求められました」
「断れなかった」
「断ち切るほどの証拠を持っていませんでした」
「違うでしょう」
恵梨花は頁を指で示した。
「男だという証拠がなかったんでしょう」
弘樹は答えなかった。
恵梨花の言葉は続く。
「あなたの記事を、私は二十三年間信じた。顔を覚えていない代わりに、その男を覚えていた。名乗らず消えた立派な人が、私の人生を救ったんだって」
「記事に、人生を預けるべきではありません」
「預けさせた人が言うの?」
大輔が何か言おうとした。
弘樹は先に口を開いた。
「あなたも、人の人生を二十分の番組へ削っている」
店内の空気が変わった。
恵梨花の目が細くなる。
「私の仕事の話?」
「取材した人の一週間、一年、三十年を、放送枠へ収める。視聴者が理解しやすい順番へ並べ、題を付ける。不要だと判断した沈黙を切る」
「同じだと言いたいんですか」
「同じではない。だから、違いを説明してください」
弘樹は自分でも、卑怯な返しだとわかっていた。
目の前の責任を認める代わりに、相手の傷を探した。
批判は、刃先を外へ向けている間だけ、自分の傷を見なくて済む。
恵梨花は立ち上がった。
「少なくとも私は、性別不明を男とは書かない」
「そうあるべきです」
「あなたに褒められたくない」
「褒めていません」
「そこだけは、よくわかる」
恵梨花は階段を下りていった。
大輔は追わなかった。
代わりに一階へ降り、しばらくして小さな白い箱を持って戻る。
「渡してくる」
「追わないのでは?」
玲が尋ねる。
「追わない。置いてくる」
箱には何も書かれていなかった。
いつもなら、クリームより先に言葉を盛る男が、空白の箱を持って外へ出る。
弘樹は取材ノートへ目を落とした。
二十三年前、自分にも空白を残す選択はあった。
性別不明。
救助には複数人。
現時点で氏名を確認できず。
そのまま書けばよかった。
読者が覚えにくくても、町が喜ばなくても、記事が弱いと言われても。
窓の下を見ると、恵梨花は赤い時計から少し離れたベンチに座っていた。
大輔は隣へ座らず、白い箱だけを端へ置いて店へ戻った。
恵梨花はしばらく箱を開けなかった。
やがて蓋を持ち上げる。
レモンケーキが一つ。
言葉はない。
恵梨花は空白の蓋を何度も見た。
弘樹には、その表情が泣いているのか、怒っているのかわからなかった。
わからないものを、わかりやすい一語へ変えてはいけない。
二十三年かかっても、彼はまだ、その程度のことから学び直していた。




