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赤い時計の下で、あなたの人生を一杯  作者: 乾為天女


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第13話 大生に許された三秒

 八月六日の朝、大生は開店前の「ことば菓子店」の前に立っていた。


 午前七時二十八分。


 大輔がシャッターを半分まで上げると、その下から工具箱と四角い保管ケースが先に見えた。


 「早いね」


 「接着剤の硬化が、午前七時十二分に終わりました」


 「だから七時二十八分に来たの?」


 「徒歩十二分。信号待ちを四分と見積もりました」


 「朝ごはんは」


 「指示されていません」


 大輔はシャッターを上まで開けた。


 「まず食べる。これは店主命令」


 大生は少し考えてから、店内へ入った。


 大輔が切り落としたスポンジの端と牛乳を出す。大生は椅子へ座り、三分で食べた。


 「もう少し味わってもいいんだよ」


 「作業前の摂取です」


 「ケーキ職人に一番言っちゃいけない食べ方だな」


 九時には全員がBAR SFへ集まった。


 修復された事故当日のテープは、透明な補助リーダーで傷んだ部分をつながれている。大生はケースを両手で持ち、丸テーブルの中央へ置いた。


 「再生は一回です」


 恵梨花が聞き返す。


 「一回だけ?」


 「傷んだ磁性体は元へ戻りません。再生と同時にデジタル記録へ移します。途中で異常があれば止めます」


 「止める判断は?」


 「波形、走行音、テープ温度を確認して――」


 大生の言葉が細くなる。


 誰が止めると決めるのか。


 咲輝が記録票を見ながら言った。


 「機器の状態については、大生さんが決めてください。聞いている人の体調については、本人か私が止めます」


 「了解しました」


 返事はいつもどおりだったが、大生の右手は録音機の上で止まっていた。


 恵梨花は椅子へ深く腰を下ろした。


 「始めてください」


 大生は再生ボタンを押した。


 夏祭りの音が戻ってくる。


 風。


 割れるガラス。


 恵梨花の幼い声。


 芙美の咳。


 『西口を開けて。大生、走れる?』


 『はい』


 前回は、そこで音が崩れた。


 今日は、砂を噛むような雑音の底から、芙美の声がもう一度浮かんだ。


 『怖かったら、三つ数えてから走れ』


 少年の返事はない。


 代わりに、荒い呼吸が聞こえる。


 一つ。


 数える声は録音されていない。それでも現在の大生の唇が、わずかに動いた。


 二つ。


 録音の中で、誰かが「東口を空けて」と叫んでいる。


 三つ。


 小さな靴が床を蹴った。


 足音は録音機から遠ざかり、風の中へ消えた。


 その直後、金属が大きく軋んだ。


 大生は目を閉じた。


 二十三年間、そこまでしか覚えていなかった。


 走れと言われた。


 自分は止まった。


 三秒の遅れを抱えたまま、西口へ走った。


 録音は芙美や航大たちの声へ移り、大生の足音はもう戻らない。


 再生が終わると、店内には機械の回転音だけが残った。


 恵梨花はすぐには話さなかった。


 大生の三秒を、短かったとも、仕方がなかったとも言わないためだった。


 咲輝が別の白札テープを机へ置いた。


 「昨日、航大さんの録音と一緒に確認したものです。祭りの警備をしていた松浦さんの証言です」


 大生が交換する。


 今度の録音は事故から十年後のものだった。


 『西口は、人が逆向きに押し寄せていました』


 年を取った男性の声がする。


 『赤い時計の下で何かあったと聞いて、みんな東へ行こうとした。そこへ十二歳くらいの男の子が来たんです。息もできないくらい走ってきて、西口は出口にして、東口の道を空けてくれと言った』


 大生の背中が固くなる。


 『あの子が、消防車は東から来ると言った。新聞社の人が無線で呼んだとも教えてくれた。子どもの言うことだからと疑った大人もいたけれど、あの子は同じ言葉を三回言いました。結局、私たちは従った。消防車は人混みに止められず入れました』


 録音の男性は最後に笑った。


 『名前を聞いたら、大生とだけ言った。大きく生きると書くのかと聞いたら、指示はそれだけですか、と言われました。変わった子でした』


 大輔が吹き出した。


 「十二歳から変わってない」


 「最後まで聞いてください」


 大生は真顔だった。


 録音が終わる。


 恵梨花は尋ねた。


 「西口に着いたことは覚えていた?」


 「覚えています」


 「人を誘導したことも?」


 「指示を伝えただけです」


 「消防車が通れた」


 「弘樹さんが無線で場所を伝えたからです」


 「弘樹さんだけでは道は空かなかった」


 「大人が従ったからです」


 「大人だけでは、指示を知らなかった」


 大生は黙った。


 誰か一人へ手柄を集めないことと、自分のしたことを消すことは違う。


 けれど、その違いを大生へ説明する言葉を、恵梨花はまだ持っていなかった。


 大輔が静かに言う。


 「三秒、止まっていいって言われてたんだね」


 「止まりました」


 「うん」


 「走れという指示に、すぐ従いませんでした」


 「三つ数えてから走れ、までが指示でしょう」


 咲輝の声は明確だった。


 「あなたは最後まで従っています」


 大生は録音機へ目を落とした。


 「従っただけです」


 そのとき、機械の内部から、かすかな擦過音がした。


 大生が温度計を当てる。


 「モーター温度、四十六度」


 恵梨花が立ち上がる。


 「次は何を聞く?」


 咲輝も一覧へ目を落とした。


 航大はテープ棚を見た。


 弘樹は手帳を開いた。


 全員が、自然に大生の次の言葉を待っていた。


 誰も命令しなかった。


 大生は録音機、テープ、室温、窓の位置を順に見た。


 「今日は、ここまでにします」


 声は小さい。


 しかし、聞き返す必要はなかった。


 「続けると、テープを傷めます。録音機も冷却が必要です。次回は八月八日の午前十時以降が安全です」


 咲輝が確認する。


 「誰の判断ですか」


 大生は一度、息を吸った。


 「私の判断です」


 「了解しました」


 咲輝は記録票へ書いた。


 作業終了判断者、高槻大生。


 大生はその文字を長く見ていた。


 帰り際、赤い時計の下で足を止める。


 いつものように胸の内で三つ数えた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 それから今日は、誰の指示も待たずに歩き出した。



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