第12話 航大の貸し借り帳
航大の貸し借り帳には、人へ見せてよい頁と、見せたくない頁がある。
見せてよい頁には、傘、麦茶、釘、脚立、絆創膏が並ぶ。
見せたくない頁には、返せなかった物が並ぶ。
二〇〇三年八月十七日。
芙美さんから、ボルトカッター一丁。
返却欄は、二十三年間空白だった。
八月五日の午後、航大は自分の名が書かれた白札テープを、丸テーブルへ置いた。
「公開可なんですね」
咲輝が確認する。
「芙美さんに録られたとき、好きに使えって言った」
「どこまで想定していましたか」
「町内会の反省会くらい」
「全国配信は」
「想定してない」
「では、公開範囲は改めて決めてください」
航大は少し考えた。
「今日ここで聞く。町の掲示に使うなら、そのとき決める」
咲輝が白札の横へ新しい付箋を貼った。
「公開可でも、本人が範囲を選び直せる」と書く。
恵梨花が椅子へ座った。
「どんな録音?」
「覚えてない」
「自分のことなのに」
「借りた物は覚えてる。喋った言葉は、貸したつもりがないからな」
大輔が笑う。
「その理屈、便利すぎない?」
大生が再生ボタンを押した。
最初に聞こえたのは、若い航大の声ではなかった。
金属が激しくぶつかる音だった。
次に、十七歳の航大が叫ぶ。
『ペンチ!』
店内の全員が一度、目を瞬いた。
『違う、ニッパー! いや、ボルトカッター!』
大輔が口元を覆う。
録音の中は切迫している。風が唸り、誰かが泣き、芙美が咳をしている。
それなのに航大は、工具名だけを大声で叫び続けていた。
『モンキーレンチ!』
『それは要らない!』
若い芙美が怒鳴る。
『知ってる物を順番に言った!』
『工具当てクイズじゃないよ!』
現在の大輔がとうとう笑った。
「悪い。笑う場面じゃないのはわかってる」
「俺も今、初めて聞いた」
航大は耳まで赤くなった。
録音の中で、若い航大の呼吸は速い。
怖かったのだ。
手が震え、必要な道具の名が出ず、知っている工具を全部叫んだ。
芙美の声が近づく。
『これを使いな』
重い物が地面へ置かれる。
『ボルトカッター。私の店の奥にあった。刃を枠へ入れて。赤い塗装の下』
『切ったら、時計まで落ちるかもしれない』
『支柱じゃない。飾り枠だけ。あんたなら音でわかるだろ』
十七歳の航大は、返事をしなかった。
代わりに、金属へ刃を当てる音がする。
一度目は滑った。
二度目も切れない。
『無理だ!』
『無理なら、あと一回だけやってから言いな』
芙美の声は、励ますというより、期限を決める声だった。
航大は息を吸った。
三度目。
鈍い破断音が響いた。
風の音の向こうで、誰かが「隙間ができた」と叫ぶ。
芙美が金属枠の内側へ入る。
大輔の若い声が、恵梨花へ何かを言い続けている。
録音は混線し、細部が聞き取れない。
航大は拳を握っていた。
二十三年前の手の痛みを、今も覚えている。柄を握りすぎて皮がむけた。切った瞬間、時計まで落ちると思った。自分の判断で誰かを殺すかもしれないと思った。
録音は事故後の芙美の声へ移った。
『航大は、自分は道具を使っただけだと言います』
芙美が笑っている。
『道具は勝手に歩きません。怖がった手が、怖いまま動かしたんです』
航大は顔を伏せた。
『ただし本人は、貸したボルトカッターをなくしたことばかり気にしています。人を助けたことより、返却のほうが大事らしい。変な子です』
「芙美さんに言われてる」
大輔が囁く。
「聞こえてる」
録音の芙美は続けた。
『返してもらいました。本人は知らないけれど、事故の翌朝、時計の機械室にありました。私がしまいました』
航大は顔を上げた。
機械室。
昨日、振り子を見つけた場所。
右奥には、木箱のほかに細い棚があった。油布のかかった下段は、まだ詳しく調べていない。
録音が終わる前に、航大は立ち上がった。
「勝手に入らないでください」
咲輝が即座に言う。
「わかってる。安全確認して、全員で行く」
「全員では入りません」
「入れる人数で行く」
航大は急いでいる。それでも、返済条件は守った。
二十分後、航大、咲輝、大生の三人が保守通路へ入った。
機械室の棚の下段。
油布を持ち上げると、赤錆の浮いたボルトカッターが横たわっていた。
柄には細い針金で札が付いている。
返却済み。
人を助けた道具は、持ち主を選び直す。
芙美の字だった。
航大は工具を持ち上げた。
重さは覚えていたものより軽い。
十七歳の自分には、両腕で抱えるほど重かった。いまは片手でも運べる。それでも胸の奥へ乗った二十三年分の重さは、簡単には動かなかった。
店へ戻り、貸し借り帳を開く。
二〇〇三年八月十七日。
芙美さんから、ボルトカッター一丁。
返却欄の空白へ、鉛筆を置いた。
「消すの?」
恵梨花が尋ねる。
「借りは返ってた」
「二十三年前に」
「ああ」
航大は一本の線を引いた。
文字を塗り潰さず、読めるように残したまま、返却済みと書く。
それで終わりにしようとした。
しかし手が止まった。
芙美から借りたのは、工具だけではない。
あと一回やってから無理と言え。
あの言葉がなければ、刃を三度目に当てられなかった。
枠を切らなければ、芙美は中へ入れなかった。
それでも、自分だけが助けたわけではない。
航大は次の行へ書いた。
芙美さんから、生き残った時間。
返却欄は空けておく。
「また借りを増やしたの?」
大輔が言う。
「これは返せない」
「返せないなら、書かなくてもいいでしょう」
玲が不思議そうに尋ねる。
航大は帳面を閉じた。
「返せないことを忘れないために書くんだ」
「ずっと背負うんですか」
「違う」
錆びたボルトカッターを見た。
「次に誰かが困ったとき、少しだけ渡す。そうやって持ち主を選び直す」
航大は工具を作業台へ置いた。
二十三年遅れの返却音は、思っていたより静かだった。




