第11話 咲輝の十一秒
八月四日の朝、咲輝は図書館の開館前に、十一秒を測った。
壁の時計を見ながら、何もせず立つ。
一。
二。
三。
五秒を過ぎると、指先が落ち着かなくなった。
八秒で、何かしなければという焦りが胸へ広がった。
十一。
短い。
長い。
どちらも本当だった。
「何をしてるの?」
児童室の入口から同僚が見ていた。
「時間を確認しています」
「時計なら合ってるよ」
「時計ではなく、十一秒です」
同僚は深く聞かず、返却本の台車を押していった。図書館では、答えたくない人へ質問を重ねない。それは咲輝がこの場所を好きな理由の一つだった。
午後、BAR SFの丸テーブルへ黄色い札のテープを置いた。
札の裏には、咲輝の名がある。
二〇一三年八月十七日録音。
本人の許可があれば試聴可。
公開は再確認。
「聞きます」
咲輝は自分で言った。
恵梨花が顔を上げる。
「本当に?」
「確認のためです」
「確認したくないなら、しなくていいのよ」
以前なら、その言葉を慰めだと感じたかもしれない。
今の恵梨花は、決定権を返している。
「聞きたいです。ただし、公開は今日決めません」
「わかった」
玲は廊下へ出る準備をした。
「玲さんもいてください」
咲輝が止めた。
「黄札ですが」
「私が許可します。聞いた内容は書かないでください」
「守ります」
玲は座り直した。背筋が過剰なほど伸びている。
大生がテープを再生した。
最初に聞こえたのは、三十代の咲輝の声だった。
『私は、あの日、十一秒間動けませんでした』
十年前の自分の声は、現在より少し高い。言葉を一つずつ硬い箱へ詰めるように話している。
『十一秒のあいだ、逃げたいと思いました。恵梨花ちゃんの声も、店の中にいた子どもの声も聞こえていました。助けなければと思いながら、私は自分だけ逃げる道を探していました』
咲輝は膝の上で両手を重ねた。
録音には、事故当日の音も挿入されていた。芙美が保管していた一本目から、咲輝が自分で抜き出した部分だ。
風が唸る。
紙が窓へ当たる。
金属が倒れる。
子どもが泣く。
そして、何も言わない十一歳の咲輝の呼吸が近くにある。
大生が机の上の計時器を押した。
無言の時間が始まる。
一秒。
咲輝は裏口の前に立っていた。
二秒。
鍵は自分の右手にあった。
三秒。
扉を開ければいいと、わかっていた。
四秒。
外の路地にも風が入っているかもしれない。
五秒。
扉を開けて、もっと危険になったら。
六秒。
自分が決めて、誰かがけがをしたら。
七秒。
大人の指示を待つべきではないか。
八秒。
芙美は店の表側にいる。
九秒。
呼んでも返事がない。
十秒。
逃げたい。
十一秒。
事故当日の録音で、鍵が鳴った。
幼い咲輝の声がする。
『こっち。順番に。走らないで』
泣いていた子どもたちの足音が、裏口へ集まる。
『壁に手をついて。前の子を押さないで』
声は震えていた。
震えていても、言葉は具体的だった。
録音の中の咲輝は、五人の子どもを路地へ出し、最後に店内を振り返っている。
そこで、二〇一三年の咲輝の声へ戻った。
『人を逃がしたから、十一秒が消えるわけではありません。私は十一秒間、何もしませんでした』
テープが止まった。
誰も「でも」と言わなかった。
咲輝は、そのことに救われた。
大生が別の白札テープを持ち上げた。
「関連する証言があります。続けますか」
「お願いします」
男性の声が流れた。
『名前は知りません。静かな女の子でした』
事故当時八歳だったという。
『みんな泣いていたのに、その子は怒鳴りませんでした。壁に手をつけ、前を押すなと言いました。路地へ出たあと、僕の妹がいないと気づいて、その子に言いました』
咲輝は覚えている。
青い帽子の男の子。
『その子は、もう一度店へ戻りました。妹はカウンターの下にいました。僕は妹を助けてもらったと思っています』
咲輝は目を閉じた。
十一秒のあとに、自分が何をしたかは覚えている。
けれど、助かった側の人生の中で、自分がどう残っているかは知らなかった。
静かな女の子。
道を指した人。
妹を見つけた人。
自分の記憶では、動けなかった人。
「結果がよかったからといって、怖かった事実は消えません」
咲輝は言った。
「消したくありません。勇敢だったと置き換えられると、あのとき怖かった私が、また置いていかれます」
恵梨花はすぐに答えなかった。
十一秒ほどではない。
けれど以前より、長く待ってから言った。
「怖かった十一秒も、鍵を開けた一秒も、どちらも咲輝さんです」
比喩ではなかった。
短くもしていない。
良い意味へ塗り替えてもいない。
咲輝の目から、涙が一滴落ちた。
安全確認票の中央へ落ち、青いインクが小さくにじむ。
「あ」
咲輝は急いで紙を持ち上げた。
「記録票が」
恵梨花が驚く。
「そこ?」
「原本です。複製前です」
大輔が紙ナプキンを差し出した。
「涙は乾けば」
「塩分が残ります」
「感動的なことを言おうとしたのに」
「紙の劣化要因になります」
航大が帳面を開いた。
「咲輝から記録票へ、涙一滴」
「貸していません」
「返却不能だな」
「記録しないでください」
玲が口元を押さえた。弘樹まで、わずかに肩を揺らしている。
咲輝も、涙の残る顔で笑った。
十一秒は消えない。
消さなくていい。
そのあとに鍵を開けた一秒も、同じ自分の中に残していい。
咲輝は濡れた記録票を、新しい透明袋へ入れた。
破棄せず、改ざんせず、そのまま保存することにした。




