第7話 名前
数日後、林瓶と小蔡は丹霞峰へ薪を届けることになった。
丹霞峰の煉丹房は、峰の中腹にある。
近づくにつれ、熱気が頬を打った。炉の火は絶え間なく燃え、石壁は煤で黒ずんでいる。煙突からは、青い煙が絶えず立ちのぼっていた。
空気には、薬草の苦味と木炭の焦げた匂い、それに鉱石を焼いたあとの金属めいた残り香が混ざっている。長く嗅いでいると、胸が重くなるような匂いだった。
蘇晴が煉丹房の入口から顔を出した。
頬には炭の粉がついている。薬杵を手にしたまま目を細め、林瓶たちを見ると、にっと笑った。
「ちょうどいいところに来た。柴は裏庭に置いて。」
林瓶が薪を担いで裏庭へ向かおうとすると、蘇晴が呼び止めた。
「ちょっと待て。お前、観察眼が鋭いって聞いたけど。この丹薬を見てくれないか?」
そう言って、数粒の丹薬を差し出す。
できたてらしく、表面は滑らかで、一見しただけでは問題は分からない。
「師匠は火加減が半息ほど遅かったって言うんだが、俺にはその差が分からなくてな。お前の霊目術で、違いが分かるか?」
林瓶は一粒つまみ上げ、霊目を走らせた。
丹薬の内部を流れる霊光に、たしかにむらがある。右上は左下より、半分ほど明るさが劣っていた。
「右上です。火が三分足りません。」
蘇晴は目を近づけて確かめ、ため息をついた。
「やっぱりな。助かった。」
丹薬をしまい、机に戻る。
そのまま記録簿をめくりながら、独り言のようにつぶやいた。
「この化霊丹の材料、また足りなくなったな……紫芝が三本足りない。凝露草も残り少ない……」
林瓶の手が止まる。
――化霊丹。
その名には覚えがあった。
祭祀のとき、小蔡が口にしていた。玄祈使が毎月服用する丹薬だ、と。
「……化霊丹って、何なんですか?」
蘇晴は顔を上げた。
「さあな。詳しくは知らない。配方は宗主から直々に渡されたものだし、俺は指示どおりに調合してるだけだよ。」
蘇晴はぱらりと頁をめくり、何でもないふうに続けた。
「最近はずいぶん使用量が増えたけどな。たぶん、あっちの状態が――」
そこで言葉を切った。
だが、林瓶にはそれで十分だった。
蘇晴の手元にある記録簿には、以前の倍近い数字が記されていた。
使用量が倍になっている。
しかも、その薬は玄女峰にしか届けられていない。
誰のための薬だ?
答えが出るはずもない。
それでも林瓶は、「化霊丹」という名を深く胸に刻んだ。
――
ここ数日のあいだに、柳絮は幾つかの小さな出来事を目にしていた。
最初は、林瓶が年寄りの雑役に代わって重い糧食袋を担いだこと。
次は、外門弟子に道具を散らかされた雑役を手伝い、黙って拾い集めていたこと。
そして、熱を出した若い雑役に、自分の夕飯の半分――饅頭一つと粥を分けてやったこと。
どれも取るに足らないことだった。雑役同士で助け合うなど珍しくもない。
だが柳絮は、その三つを確かに見ていた。
彼女――柳絮は聚霊谷の外れ、木陰に立っていた。
林瓶が饅頭を割り、熱を出した雑役に差し出すのを見ていた。
表情は変わらない。
けれど、その日を境に、柳絮の林瓶への見方はほんの少し変わり始めていた。
――
その深夜。
林瓶は眠れず、聚霊谷の外へ出た。
月明かりが谷を満たしている。
静かで、水の底のように冷たい。遠くの峰々は、墨で描いた影のようにぼんやり浮かんでいた。
夜風が頬をなで、心地いい。草むらでは蟲が鳴いている。
谷口の小径を歩いていると、ひとりの人影が立っていた。
柳絮だ。
深い藍色の執法袍が、月明かりを受けて淡く光っている。
「夜更けに、何してる。」
「眠れなくて。師姐こそ。」
柳絮は答えず、月を見上げた。
しばし沈黙が落ちる。
やがて、彼女が口を開いた。
「......鎮獄峰の地下に、誰かが閉じ込められているのを知ってるか。」
林瓶の心臓が、一拍止まった。
「……噂で。」
柳絮は遠くの山影を見つめたまま言う。
「女だ。二十年前からそこにいる。なぜ閉じ込められたのかは、俺も知らない。俺の師匠と、宗主と、伝功長老の三人で決めたことだ。」
そして林瓶のほうを向いた。
「この話は、お前が首を突っ込む話じゃない。下手に踏み込むな。言っておきたかっただけだ。」
それだけ言うと、柳絮は振り返りもせず歩き去った。
林瓶は、その場に立ち尽くした。
二十年前。
三人の長老が決めたこと。思った以上に根が深い話らしい。
しかも柳絮は、それをわざわざ教えてくれた。
なぜだ。
ここ数日の柳絮の視線を、林瓶は思い返す。
彼女は見ていたのだ。年寄りの雑役を助けたことも、道具を拾い集めたことも、饅頭を分けたことも。
そうした小さな行いが、柳絮に「この雑役には、踏み込む前に警告しておくべきだ」と思わせたのだろう。
林瓶は月を見上げた。
月は冷たく、谷を照らしている。遠くの鎮獄峰は、眠る巨獣のように暗い稜線を横たえていた。
――
翌朝。
謝臨平が林瓶を呼び寄せた。軒先に腰を下ろし、手には薬材の包みを持っている。
「小林、ちょっとこれの品名と斤量を確かめてくれ。仕入れの伝票がどうもいい加減でな。」
林瓶はしゃがみ込み、薬材を開いた。
いくつかの名前と数字を読み上げる。謝臨平はそれを書き留めた。
二人は黙々と作業を続ける。
そのとき、謝臨平が何でもない調子で言った。
「お前、鎮獄峰で転んだとき。あの下に別の何かがあったか?」
林瓶の手が止まる。
「……よく覚えていません。頭を打ったので。」
「そうか。」
謝臨平はさらに数筆書き足し、帳面を閉じて立ち上がった。
そして、独り言のようにつぶやく。
「忘れておけ。あの下にいるのは普通の人間じゃない。前任の――」
そこで言葉を切った。
「いや。何でもない。」
そのまま歩き去っていく。
林瓶は、しゃがんだまま動けなかった。
前任の……。
その先は何だ?
死体安置所の夜の記憶が、鮮明によみがえる。
半ば意識を失った中で耳にした、あの断片的な言葉。
――「前任の……玄……」
――玄。
――玄祈使。
――前任の、玄祈使。
その言葉が、林瓶の中でかちりとはまった。
――
林瓶は丹霞峰へ向かった。
表向きの理由は、「内務長老からの指示で、丹薬の在庫を調べる」というものだ。
蘇晴はあっさり引き受け、記録の束を指さした。
「古いのはあっちだ。年号順に並んでる。」
林瓶は記録簿を一冊ずつさかのぼり、頁をめくっていった。
まずは最新のもの。
去年の記録には、こうある。
「化霊丹、毎月支給。玄女峰。受領者:玄霜。」
五年分を確認しても、同じだった。
すべて玄霜。
さらにさかのぼる。
二十年近く前の頁に差しかかったとき、林瓶の指が止まった。
「化霊丹、毎月支給。玄女峰。受領者:――玄玉。」
――玄玉。
前任の玄祈使の名だ。
林瓶はその名を、声に出さず何度も胸の内で反芻した。
そして次の頁へ進もうとして、ふと気づく。
二十年近く前の記録から、一気に五年ほど前まで、空白がある。
十五年分の空白だった。
そのあいだ、化霊丹は一度も記録されていない。
つまり、その十五年、玄祈使は存在しなかったのか。
林瓶は記録簿を閉じ、棚へ戻した。
礼を言って丹霞峰を後にする。
――
聚霊谷へ戻る途中、山道で伝功長老・李承道とすれ違った。
表情は冴えない。
歩調はいつもより速く、長袍の裾が風にあおられてはためいている。
ひとりの弟子が追いつき、何事かを囁いた。
李承道は足を止め、振り返って言う。
声は風に半ばかき消されたが、林瓶の耳には断片が届いた。
「もう一度調べろ。鎮獄峰に閉じ込めているのは太乙宗の罪人だ。」
「あの者の私有財産ではない。」
そう言って袖を払うと、歩き去っていった。
林瓶はうつむいたまま歩き続ける。
だが、心臓は速く打っていた。
「あの者」。
それは執法長老を指している。伝功長老と執法長老の対立は、あの女――玄玉をめぐって深まっている。
まだ、すべてはつながらない。
伝功と執法のあいだで何が起きているのか。
玄玉はなぜ二十年も閉じ込められているのか。
十五年の空白のあいだに何があったのか。
そして今の玄祈使、玄霜という少女は、それを知っているのか。
何も分からない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
今夜、林瓶は名前を知った。
玄玉。
――忘れない。
その夜、林瓶は雑寝の寝台の上で、月明かりを頼りに枕の下へ隠していた木炭を取り出した。
そして寝台の板の裏に、一文字だけそっと書きつける。
――「玉」。
それは、この世界で林瓶が初めて自分の意志で刻んだ、忘れてはならない文字だった。




