第6話 蔵経楼
謝臨平は約束を守った。翌朝早く、林瓶に一枚の臨時通行牌を渡した。
「蔵経楼では毎年この時期に、湿気取りと蟲除けのために書物を日に干す。お前も外院で手伝え」
林瓶は木牌を受け取り、弘武峰へ向かった。
蔵経楼の大扉は開け放たれていた。陽光が玄関から斜めに差し込み、床の上に細長い光の帯を落としている。埃がその中で静かに舞っていた。古い紙と墨の匂い。蟲に食われた木の、甘酸っぱいような匂い。林瓶は門の上に掲げられた黒漆の扁額を仰いだ。
「蔵経楼」
三文字を見つめていると、なぜか重苦しい圧迫感が胸にのしかかってくる。
外院は想像以上に広かった。青石敷きの庭。三方を灰色の塀に囲まれ、半ば枯れた蔦が這っている。庭には八枚の筵が敷かれ、その上に無数の書巻や竹簡が並べられていた。黄ばんだ紙。めくれた頁の角。日差しを浴びた紙面から、乾いたかすかな苦みと、防蟲用の薬草のつんとした匂いが立ちのぼっている。
数人の雑役が筵のそばにしゃがみ込み、竹串で慎重に書巻の頁をめくっていた。動きはゆっくりだ。脆くなった紙を傷つけないようにしているのだろう。
廊下には一人の若い弟子が立っていた。面長で痩せた顔。灰青色の袍をまとっている。名簿を手に、雑役たちを指図していた。だが口調は終始いらだっていた。
「そこの本の山、奥の部屋に運べ。引きずるな。抱えて持て」
「何度言わせる。書物は平らに持て。背を折る気か」
小蔡が小声で囁いた。
「あれが陸青だ。伝功長老の門下で、蔵経楼の雑務を任されてるらしい。噂じゃ、内門の連中にはペコペコしてるくせに、雑役にはああいう態度なんだと」
林瓶はその顔をしっかり記憶した。
――
曬書の作業は単調だった。だが林瓶は、その単調さの中で蔵経楼の内部を観察し続けた。
気づいたことがある。陸青は外で作業が行われているあいだ、あまり楼内に入らない。ただ軒下に立ち、雑役たちを監視しているだけだ。だが内門の誰かに声をかけられると、その一瞬だけ注意が逸れる。
林瓶はその隙を頭に刻みつけた。
もう一つ。隅に積まれた雑書の山。あれは林瓶が最初に書物を届けに来たときから、同じ場所に、同じように埃をかぶって積まれていた。
――
正午近く。作業の合間に、林瓶はその雑書の山へ手を伸ばした。
一番上に載っていたのは、一冊の異様な書物だった。
触れた瞬間、林瓶には分かった。違う。
太乙宗の写本はどれも、ざらついた麻紙で作られている。表面は粗く、草木灰の匂いが染みついている。ここ数日で百冊以上の書物を扱ったせいで、その紙の感触はもう指が覚えていた。
だが、この本は違う。紙が薄い。きめが細かい。指先を滑らせると、ほとんどつるりとして感じられる。まるで何度も何度も圧延された紙のようだ。しかも紙の端が妙に整っている。手で切ったような粗さがない。定規で測って裁ったかのように、きっちり揃っていた。
林瓶は素早く表紙を一瞥した。
墨で三文字――「苔痕録」。
草体で、走り書きのような字だった。
そのとき、奥から声がした。
「何してる」
林瓶は自然に手を引き、隣の筵の上の書物を整えるふりをした。
陸青が立っていた。
「……いえ。風で乱れていたので」
陸青はしばらく林瓶を見ていた。それから雑書の山へ視線を向けた。だが、それ以上は何も言わずに背を向けた。
林瓶は心臓の鼓動を押さえ込みながら、作業を続けた。
その日の夕方。干していた本を片づけ終えるころ、陸青が数人の雑役を呼びつけた。
「奥の雑書の山、全部二階に上げろ。場所を空ける。湿気が来る前にやっちまえ」
理由は簡単だった。一階の棚は貴重な写本で埋まっている。使いものにならない古い書物に場所を取らせる余裕はない、ということらしい。
林瓶はその作業には加わらなかった。だが、数人の雑役が一階の隅から書物を抱え、何度も階段を往復する様子を横目で見ていた。
そうか。あの山は二階へ移されるのか。
林瓶はそれ以上何も言わず、手元の書物を整え続けた。
――
二日後。機会は突然やってきた。
午後になると、空が暗くなった。西から黒雲が押し寄せ、谷の明るさが一瞬で失われる。風が吹きはじめ、外院の筵がめくれ上がり、書物の頁がばたばたと鳴った。
「雨が来る! 早く収めろ!」
陸青の声が庭じゅうに響く。
雑役たちは大急ぎで書物を楼内へ運び始めた。林瓶もそれに加わりながら、陸青が二階の書架の片づけに呼ばれたのを見逃さなかった。監視が外れた。
一階に書物を運び終えると、林瓶はそのまま二階へ上がる階段の陰に身を潜めた。
二階の隅。あの雑書の山。
林瓶は膝をつき、素早く巻物をめくり始めた。大半は欠損した功法の断片だった。剣譜の欠頁。活字の滲んだ吐納法。途中で放棄された修行ノート。
だが――ない。
『苔痕録』がない。
林瓶はもう一度、積み重ねられた書物を端から探した。たしかに一番上にあったはずの、あの異様な紙質の本が消えている。誰かが動かしたのか。あるいは最初から、あそこには置かれていなかったのか。
だが――
林瓶の指が、別の一冊の薄い古びた冊子に触れた。
表紙には「履霜雑録」。
一頁を開いた瞬間、林瓶の動きが止まった。
「玄祈使の職は、開山祖師に始まる。初代玄祈使は祖師の道侶(どうりょ——修行を共にする伴侶)であり、宗門の機要に参画した。その権限は重く、凡そ重大な事柄は必ず玄祈使と議してから行われた。」
林瓶はさらに数頁先をめくった。
「後世になるにつれ、玄祈使の権限は漸次削減された。機要参画から祭祀の司掌へ。祭祀の司掌から玄女峰への隠退へ。この百年、彼女たちが外界に姿を現すことはほとんどなくなった。聞くところによれば、他宗の最上位の人物が訪れる際にのみ、玄祈使は峰を出て迎えるとされる。一般の弟子はその一生のうちに、玄祈使の姿を一度も見ることがないかもしれない。」
林瓶の鼓動が速くなる。
――初代玄祈使は、祖師の道侶。
つまり、玄祈使という役職は、もともと「祭祀の女官」などではなかった。宗主の伴侶であり、参謀でもあった。宗門のあらゆる重大事に関わる存在だったのだ。
だが、それが少しずつ削られていった。機要から祭祀へ。祭祀から隠退へ。そして今――
数十年前に太乙宗を去った第三十四代趙宗主のことを、林瓶は思い出す。外遊先で行方不明になったという、あの不可解な失踪だ。
そのとき、階下から足音がした。
「まだか?」
陸青の声だ。
林瓶は素早く『履霜雑録』を元の場所に戻し、立ち上がった。そして隣の書架の本を整えているふりをする。
陸青が二階へ上がってきた。
「お前、ここで何をしている」
「本がずれていたので、直そうかと」林瓶の声は落ち着いていた。「すぐに終わります」
陸青は雑書の山を睨んだ。だが異常は見つからなかったらしい。眉をひそめ、短く言う。
「早く片づけろ。雨が来る前に終わらせるぞ」
「はい、師兄」
林瓶は何冊かの無難な書物を抱え、陸青の後に続いて階下へ下りた。
雨粒が屋根を打ちはじめていた。ぱらぱらと。そしてやがて、ざあっと。一気に視界が灰色に煙る。
――
聚霊谷に戻ったころには、雨は本降りになっていた。林瓶は雑寝の軒下で濡れた上着を脱ぎ、強く絞った。雨水が軒先から流れ落ち、入口の前に濁った水たまりを作っている。谷全体が灰色の雨の幕に覆われ、遠くの峰々は完全に見えなくなっていた。
誰かが悪態をついている。だが声は雨音にかき消され、途切れ途切れにしか聞こえない。
林瓶は濡れた衣服を扉に掛け、寝台の端に腰を下ろした。手を差し出し、軒から滴る雨水を受ける。水滴は掌の中で弾け、冷たく、すぐに散った。手を振って水を払うと、窓の外を見上げた。
『履霜雑録』。あの一節が頭から離れない。
――初代玄祈使は、祖師の道侶。
そして今の玄祈使は、玄女峰に閉じ込められている。この百年で権限を削られ、姿を消され、外からは見えない存在になっている。
それと第三十四代宗主の失踪。関連があるのか。まだ分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの雑書の山の中には、誰かが隠したかった何かが、まだ残っている。
そして『苔痕録』と呼ばれた、あの異様な本は消えた。だが、消えたということ自体が、それが重要だった証でもある。
雨はやまない。
林瓶は濡れた袖を絞りながら、次の機会を待つことにした。




