第64話 焼火道人
林瓶は一晩じゅう考え続け、ついに焼火道人が誰なのかを推し当てた。このことは、もとはといえば蘇晴がうっかり口を滑らせたものだった。だが、おそらく蘇晴自身も、それと気づいてはいなかった。
翌朝早く、林瓶は丹霞峰へ向かった。
行く前に、まず丹霞峰の外縁を回って様子を見た――丹房の入口には人の出入りがない。通りかかった、掃除をしている低階の雑役に尋ねると、その雑役は「蘇師姐は今日は丹器堂のほうで材料を受け取っていて、峰にはいません」と答えた。林瓶はその点を確かめてから、ようやく丹房のほうへ歩いていった。
丹霞峰の丹房は、峰の中腹、やや東寄りの位置にあり、一筋の山渓に寄り添うように建っていた。入口に着いたとき、混じり合った薬草の匂いが鼻を打った――苦く、渋く、その底にかすかな焦げた甘さがある。扉は半ば閉ざされ、内からは薄暗い黄の炉火の光が漏れていた。林瓶は戸外に立ち、門枠をひとつ叩いた。
中から女の声がした。高くはない。何かに取りかかっている最中の、張りつめた集中を帯びた声だった。
「入りなさい」
林瓶は扉を押して中へ入った。
丹房は広くない。部屋の中央には、半人ほどの高さの丹炉がうずくまるように据えられている。炉膛の火光が観察孔から漏れ出し、地面に揺れる橙色の光斑を投げていた。壁には何列もの薬草の乾葉が掛けられ、炉火に炙られて、その縁がわずかに反り返っている。空気には、草薬を煮立てたあとの混じり合った匂いが満ちていた。
顧青烟は丹炉の前に座っていた。
深青色の丹房常服を着ている。袖口は布紐で括られ、髪は後ろへ撫でつけて一本の木簪で留めていた。入口に横向きになり、手には長柄の丹鏟を握って、炉膛の中の薬滓をかき返している。誰が来たのか、顔を上げて見ようとはしなかった――聞こえたのは足音と、扉が押し開かれる音だけだった。口調は淡々としている。日々の一事を片づけているようだった。
「何の用?」
林瓶は入口に立ったまま、中へは踏み込まなかった。横顔を見る――炉火の光がその輪郭を明暗ふたつに切り分け、注意の大半は炉に注がれていた。
口を開く。声は高くない。だが、一字一字がきわめて明瞭だった。
「焼火道人が聞いてこいと言った――あの物は、まだあるかと」
顧青烟の手が止まった。
その一瞬の停止は長かった。半呼吸ほどではない。丹鏟は炉膛の上およそ一寸のところに宙づりになり、指先は柄を握ったまま、動かない。炉膛の火は、止まったそのとき一度跳ね、それからまた落ち着いた。鏟を置きもせず、かき返しを続けもしなかった。その姿勢のまま、二、三呼吸ほど静止していた。それから、ゆっくりと丹鏟を炉縁に置き、身を起こした。
すぐには答えなかった。身を巡らせ、林瓶のほうを向く。炉火の光が下から顔を照らし、その表情を半ば明るく、半ば暗く映し出していた。視線は林瓶の顔に落ち、そこで止まった。その目は冷たくもなく、熱くもない――見ていた。だが、見ていたのは林瓶という人間そのものではなかった。来歴を見ていた。この人間が、いったい本物なのかどうかを見ていた。長いこと、見つめていた。
何も言わなかった。
林瓶もまた何も言わなかった。そこに立ち、待っていた。
時間は丹房の中をゆっくりと流れていった。炉火の唸りは絶えず低く続き、壁に掛かった薬草の乾葉は熱気に蒸されて、ごくかすかなぱちぱちという音を立てていた。顧青烟が顔を、襟元を、入口に立つその姿勢を見ているのが、林瓶には感じ取れた――見知らぬ者を値踏みしているのではない。目の前のこの人間を、自分がもう長いこと開いていなかったひとつの枠の中へ入れてみて、そこに収まるかどうかを見ているのだ。
その過程は、ほとんど半柱香に届くほど続いた。
外の風がときおり扉の隙間から忍び込み、炉火を一度傾けては、また元へ戻した。林瓶の左肩は、長く立ち続けたせいで酸っぱくなり始めていた。だが、動かなかった。ずっとそこに立ち、返答を待っていた。
やがて顧青烟が口を開いた。声は高くない。ひとつの決断を終えたあとにだけ宿る静けさを帯びていた。
「……誰があなたを寄越したの?」
「彼女自身だ」
顧青烟は何も言わなかった。身を翻して奥の棚の前へ歩いていく。棚は壁に沿って組まれた木の架で、その上にはさまざまな瓶や壺、巻かれた古い紙が積まれていた。引き出しを開け、中を探り、一束の紙を取り出した――白紙ではない。すでに文字の書かれた古紙だった。引き出しの脇から筆を一本抜き取り、筆先を墨皿に浸す。机の前に立ち、林瓶に背を向けたまま、いくつかの字を書いた。
筆は遅かった。ためらいの遅さではない――一画一画が明晰で、乱れがないのだ。
書き終えると、紙を折りたたみ、振り向いてこちらへ歩いてきた。その顔には余計な表情がひとつもなかった――その顔つきを見ても、先ほど何か異常なことが起こったとはまるで分からない。折った紙片を差し出した。
「持っていきなさい」
林瓶は手を伸ばして受け取った。紙片は大きくない。二つ折りにされており、紙面には古紙特有の乾いたざらつきがあった。その場では開かなかった。
顧青烟はすでに身を返し、丹炉の前へ戻って丹鏟を取り上げ、再び薬滓をかき返し始めていた。声が丹炉の向こうから伝わってくる。口調は、また日常の事務を処理するそれに戻っていた。
「彼女に伝えなさい……物はずっとここにあると」
林瓶はうなずいた。身を翻して立ち去ろうとした。
戸口をまたごうとしたとき、顧青烟の声が再び背後から届いた――今度の口調は先ほどとは違っていた。重くはない。だが、一字一字がはっきりしていて、長いこと考えた末にようやく口に出すと決めた言葉のようだった。
「あなたと彼女のあいだに、いったい何があるのか、私は知らない。玄霜のことも、いくらかは耳にしている」
林瓶は足を止めた。
「焼火道人のことは、本来なら第三の人間に知られるべきではなかった。でも、あなたがここに立ってその四文字を口にできたということは――少なくとも彼女は、あなたが自分を害さないと思っているということ」
林瓶はそこに立ったまま、振り返らなかった。背後では炉火の唸りが聞こえ、顧青烟が薬滓をかき返すたび、丹鏟が炉壁を擦る細かな音が続いていた。
「彼女を失望させないで」
林瓶はしばし沈黙し、一字だけ答えた。
「分かった」
外へ出ていった。
林瓶が出ていったあと、丹房の中は再び静けさを取り戻した。扉は背後で閉まり、隙間から差し込んでいた一条の光も細まり、やがて消えた。屋外の人声も足音も遠ざかっていった。丹房に残ったのは、炉火の唸りだけだった。
顧青烟は振り返らなかった。その足音が遠ざかってゆくのを聞いていた。聞こえなくなるまで。ずっと。
手の中の丹鏟はなお動いていた。一度、また一度。だが、その動きは先ほどより遅かった。力の遅さではない。人の心のどこかが、後ろへと歩み戻っていたのだ。ずっと昔へと。
焼火道人。顧青烟はこの四文字を、もう十数年も耳にしていなかった。炉膛の中で跳ねる火光を見つめ、その目の前にいくつかの情景が浮かび上がった――深い夜の色。炉火の橙の光。ふたつの若い顔。
夜。丹霞峰。
丹房の光は炉火に染められ、暖かな橙色の濁った塊になっていた。窓は閉じられていた。だが、風は扉の隙間から忍び込み、壁に掛けられた薬草の乾葉をそっと揺らしていた。
丹炉は部屋の中央にうずくまり、炉膛の火光が観察孔から漏れ出して、地面に揺れる橙色の光斑を投げていた。部屋には、草薬を煮立てたあとの混じり合った匂いが満ちていた――苦く、渋く、そこに少し焦げた甘さの底味がある。
顧青烟は丹炉の前に座り、顔の輪郭は炉火に明暗ふたつに切り分けられていた。炉をじっと見つめ、ぴくりとも動かない。目の中の火の苗がひとつ跳ねれば、その視線もそれに従ってわずかに移る。丹炉の中の薬液はすでに二刻にわたって煎じられており、もっとも肝要な段階に来ていた――火は強すぎてもならず、弱すぎてもならず、絶えてもならない。
玄玉は傍らの柱にもたれていた。濃い色の常服を着ている――玄祈使の正装ではない。袖口の擦り切れた古い袍子で、帯はゆるく締められ、袖はひと折りまくられて半ばの手首がのぞいていた。手には蒲扇をつまみ、気のあるのかないのか分からぬ調子で扇いでいる。火を扇いでいるというより、手持ち無沙汰で何か持つものを探しているようなものだった。
「あとどれくらい?」
「二刻」
「……それ、今ので三度目の『二刻』だぞ。おまえのこの炉、火加減が駄目なんじゃないか。次は私が直してやろうか」
顧青烟は相手にしなかった。
玄玉も気にしない。支える足を替え、蒲扇を反対の手に持ち替え、また扇ぎ続けた。火光が顔の上で一度、また一度と揺れた。
しばらくして、また口を開いた――声は高くない。何気なく言ったようでいて、そこに少し笑みが混じっていた。
「この一炉の薬、もしうまく煉成できたら、名前は半分私のものだな」
「何を言っているの」
「焼火道人」
顧青烟の口元がわずかに動いた――笑ったのではない。口角の端がほんの一筋動いただけで、ほとんど見て取れぬほどだった。反駁はしなかった。丹方を一枚めくり、筆先で紙面を二度つついた。何かを書き留めているようだった。それから顔も上げずに一言言った。
「なら注記の署名は『焼火道人』と書いておく」
玄玉は一瞬きょとんとし、それから吹き出した。
「おい、書くなよ――伝わったら、堂々たる玄祈使が、おまえの火焚き道童になってしまうだろう」
「言ったからには書く」
「……書いたのか?」
顧青烟は答えなかった。筆先が紙の上で一度止まり、それからまた下へと動いていった。
玄玉は顧青烟を見た。追及はしなかった。だが、口元の弧はまだ残っていた。
部屋の中はしばし静かになった。炉火の唸りは低く安定していて、まるで巨大な虫が壁の中で眠っているようだった。
そのあと、丹炉の中から細かな音が伝わってきた――ぐつぐつという音ではない。熱した油鍋に水滴がひとつ落ちたあとのような、じゅっという音だった。
顧青烟の身体がわずかに前へ傾いた。玄玉も笑みを収め、柱から身を起こした。
「来た、来た」顧青烟があわただしく言った。
「早く見ろ、早く見ろ」玄玉も身を寄せた。
二人は丹炉の扉を開けた。黒煙が炉膛からどっと湧き出し、濃い焦げ苦い匂いを伴っていた――何かを焼き焦がしたときのむせる匂いではない。薬滓が炭化したあとの、乾いてざらついた、古木を焼き焦がしたような独特の匂いだった。
黒煙が散ったあと、二人の顔はどちらも煤で汚れていた――顧青烟の左頬には斜めの黒い筋が一本つき、頬骨から顎へと伸びていたが、本人は気づいていない。玄玉の鼻先には大きな煤の塊がつき、額にも何筋か擦れた跡があって、まるで今しがた竈の中をくぐってきた猫のようだった。二人とも、相手の顔には気づいていなかった。
玄玉は首を伸ばして炉の中をひと目見て、声を上げた。
「ああ、駄目だ駄目だ――」
顧青烟は何も言わず、炉膛の中の丹盤を取り出して灯の下へ寄せた。一粒一粒をより分けてゆくにつれ、眉間の皺はますます深くなった。廃丹。廃丹。半ばしか成っていない焦げ殻。廃丹。
「いやいやいや――」玄玉が身を寄せ、手を伸ばして二つほどかき分けた。「まだ二粒、ちゃんとした丹がある」
顧青烟は目を落とした。たしかに。丹盤のいちばん隅に、二粒の丸くつややかな、深褐色の丹薬があった。表面はなめらかで、光沢も均一である。炭の塊のような廃丹の山の中にあって、それだけは同じ一炉から出たものとは思えぬほど出来がよかった。
顧青烟はその二粒の良丹を拾い上げ、机の上に置いた。玄玉はその二粒の薬を見下ろし、それから自分の鼻先についた煤をちらと見た――ようやく気づいたのだ。手の甲で拭ったが、きれいには取れず、かえって黒灰を大きく塗り広げてしまった。
顧青烟は笑わなかった。だが、うつむいて丹方に数行を書きつけた。筆跡は細く痩せていて、冷静だった。
紙の上にはこう残った。
> 元正三十五年 七月 制大還丹
> 廃丹八顆
> 成丹両顆
> 火候 —— 焼火道人
> 監制 —— 青烟仙子
玄玉は傍らに立ち、最後の一行を覗き込んだ。
「青烟仙子?」
「何」
「……自分にはそんなにいい名前をつけておいて、私には焼火道人か?」
顧青烟は顔を上げなかった。筆を置き、丹方を机の隅に広げて乾かすと、身を翻して炉灰を片づけに行った。その背中は炉火の余光の中で、痩せて、まっすぐで、まるで燃え尽きぬ炭の一片のようだった。
玄玉は机のそばに立ち、丹方の上の二行――「焼火道人」「青烟仙子」を見ていた。調子の合わぬ取り合わせでありながら、並べて置けば不思議と違和感のない一対のようでもあった。ふっと笑い、その上の一行を消しはしなかった。
夜風が扉の隙間から忍び込み、丹方の端を一度めくり上げ、それからまた落とした。
その後、あの丹方がどこへ行ったのかは分からない。だが、「焼火道人」の四文字は、たしかにいくつかの古い紙の端に残されたのだった。
回想はそこで止まった。
火はなお燃えている。動きはいつもより少し遅かった。まるで心の中にひとつのことを抱えているように――重いが、同時に温かいものを。
林瓶は丹霞峰を出たあと、すぐには住まいへ戻らなかった。木陰の下の低い石に腰を下ろし、その紙片を開いた。
紙に書かれていた内容はきわめて簡単だった。二行だけである。
*物はある。青烟仙子。*
林瓶はそれを二度読んだ。物はある――「物」が具体的に何を指すのか、まだ完全には分からなかった。だが、少なくともひとつだけ、はっきりしたことがある。顧青烟の手元には、たしかに玄玉が必要としている物がある。そして「青烟仙子」というこの署名――これは顧青烟の今の道号である凝虚真人ではない。これは二人だけが知っている暗号なのだ。
紙を折りたたみ、懐にしまった。胸にぴたりと当たるように入れ、立ち上がって袴の灰を払うと、鎮獄峰の方角を一度見やった。もう一度、あそこへ行かねばならなかった。この紙を玄玉に届けるために。




