第65話 嫁入りの噂
噂は食堂から広がった。あの日の昼は、いつもより人が多かった。三、五人が一つの長机に身を寄せて座り、椀を手に立ったまま食べる者もいた。箸を椀の縁に置いたまま話し込み、飯が冷めてもなお口を止めない者もいた。林瓶は麺の入った椀を一つ持って壁際の席に座り、うつむいて二、三口食べたところで、隣の卓の話が耳に入った。
「……聞いたか? 霊台宗のほうが、うちと縁組する気らしい」
「誰とだ?」
「誰って、玄祈使に決まってるだろ」
林瓶の箸が、椀の縁でぴたりと止まった。ほんの一瞬。麺をひと箸つまむほどの短い間だった。それからまた麺を口へ運び、噛み、飲み下した。うつむいたまま、椀の中の麺つゆを見つめ、顔は上げなかった。
隣の卓の声は抑えられていなかった。まるでこの件は、もう朝から宗門じゅうに広まっていて、今さら隠れて話す必要もないとでもいうようだった。
「霊台宗の少主か? この前の大比に来てたあいつか?」
「そう、そいつだ。あの大比は、ただ試合しに来ただけじゃない。玄祈使にも会いに来てたんだ」
「じゃあ婚儀の話はもう決まったのか?」
「まだ決まってはいないが、十中八九そうなる。宗主のほうも否定してない」
「霊台宗の少主って……林瓶と決勝でやり合ったあいつだろ?」
「そうだ」
「じゃあ決勝のとき、霊台宗の少主にこてんぱんにやられて、灰まみれみたいな有様だったのって……あいつじゃないか?」
声は低くなった。だが、抑えきれてはいなかった。
「じゃああいつ、これから宗門の中じゃ――」
「やめろ」もう一人が、その言葉を遮った。
卓の上はしばらく静かになった。誰かが一つ咳払いをし、話題を変えた。
林瓶は顔を上げなかった。残りの麺を食べきり、汁も飲み干した。それから椀を回収場所へ持っていって置き、外へ出た。
食堂を出たとき、午後の日差しが顔に当たった。温度はちょうどよかった。食堂の入口の石段に立ち、さっき耳にした言葉を心の中で一つ一つなぞった。
霊台宗の少主、義明が太乙宗との縁組を望み、その相手は玄霜である。義明が前回太乙宗へ来たのは、ただ試合のためだけではない。そのことは知っていた。あのとき、遠くから義明と玄霜が廊下の下に立って話しているのを見たことがあった。そのときは、二人が何を話しているのかわからなかった。だが今はわかった。決勝のとき、なぜ義明が序盤で手加減し、全力で攻めてこなかったのかも理解した。義明は太乙宗と縁組するつもりでいた。だから太乙宗の弟子の面目を、あまりにも無残に潰したくはなかったのだ。ゆえに試合の立ち上がりで使ったのは、攻撃型の符紙ではなく、制御型の符紙だった。あのときは、義明の戦い方とはそういう風格なのだと思っていた。だが今になって、ようやく腑に落ちた。あれは意図して力を抑えていたのだ。
頭の中で手がかりをつなぎ合わせた。伝功長老が蒼雲宗を取り込もうとしていたこと。大比。陸驚鴻。裏で交わされていた会話。どれも証拠だった。では宗主は、何をもって伝功長老の勢力に対抗するのか。縁組である。霊台宗と縁組し、玄霜をその一枚の札として押し出すのだ。縁組は玄霜自身の望みではない。今の玄霜の状態では、そもそも望みと呼べるものを語ることすらできない。これは宗主の手腕だった。
食堂の前に長く立ってはいなかった。山道をしばらく歩き、食堂のほうへは戻らず、一つ角を曲がって住まいへ帰った。
住まいには誰もいなかった。扉を閉め、寝台のそばにしばらく腰を下ろした。それから立ち上がり、拳を上げて壁へ一撃叩きつけた。
全力を尽くして、指の骨が裂けるほどの打ち方ではない。ただ一拳打ち込んだだけだ。骨の節が突き固めた土壁にぶつかって鈍い音を立て、壁の隅に積もっていた灰が少し震え落ちた。それから額を壁に押し当て、目を閉じ、そのまましばらく立っていた。壁は冷たかった。指の関節には、少し鈍い痛みがあった。手を下ろしたときには、中指と薬指の関節のあたりが、すでに赤くなっていた。だが皮は破れていなかった。そこに立ったまま、荒くなっていた呼吸をゆっくりと平らに戻していった。それから身を起こし、袖口を整え、扉を押して外へ出た。
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三日後。化霊丹の日である。
林瓶は丹霞峰で丹盒を受け取った。蘇晴はいなかったが、当番の弟子は札を見覚えており、丹盒を渡すとすぐに去っていった。見慣れた道を歩く。丹霞峰を出て、山あいの渓流に沿ってしばらく下る。外門食堂前の空き地を通り過ぎ、山道へ折れて回り込み、玄女峰へ向かった。
玄女峰の様子は、いつもと変わらなかった。院門は開け放たれ、庭のあの古い槐の木の葉は、午後の光の下で油を引いたような艶を帯びていた。廊下の下には二人立っていた。
一人は玄霜である。淡い色の衣を着ていた。以前見たことのあるものではない。襟元と袖口に銀の蓮文様が刺繍された、新しい衣だった。淡い青緑の生地は、光の中で柔らかな艶を返していた。髪は半ば束ねられ、すっきりとした首筋がのぞいている。立ち姿は端正でありながら張りつめてはおらず、片手は脇に垂れ、もう片方の手は軽く廊柱に添えられていた。
もう一人は、見たことのない人物だった。若い女で、灰青色の侍従の装いをしていた。生地は太乙宗外門弟子のものより上等で、仕立てもいっそう気が利いている。袖口はきりりと収まり、腰には濃い色の細帯が締められていた。その立ち姿は玄霜より半歩ほど後ろに控え、わずかに首を傾けて、玄霜の話を聞いていた。口音は太乙宗の者とは少し違い、語尾に東南のほうの調子がわずかに混じっていた。
林瓶が庭へ入ると、二人の会話は一瞬途切れた。灰青色の衣の女が振り向き、一目見た。その視線は一瞬、林瓶の上にとどまった。だが好奇ではなかった。世慣れた者が見知らぬ相手に向ける、本能的な反応だった。止めるべき相手ではないと確かめると、すぐに引っ込められた。
林瓶はその女を見なかった。唐執事の立っているほうへ歩いていった。
唐執事は廊下の反対側に立っていた。濃い色の執事袍を着ており、手にはすでに丹盒を受け取る構えができていた。歩み寄り、丹盒を差し出した。唐執事はそれを受け取り、うつむいて封を確かめ、一つうなずいた。
ちょうど身を翻して立ち去ろうとしたとき、声がした。
「そこの師兄」
足が止まった。
振り向くと、玄霜が廊下の下に立ち、こちらを見ていた。表情は穏やかで、口元には自然な弧がわずかに浮かんでいる。視線は林瓶の上に落ちていた。冷淡ではない。だが親しげとも言いがたい。知ってはいるが親しくはない同門に向ける、あの礼儀正しいまなざしだった。
「以前、宗門大比で宗門に名誉をもたらした方でしょう?」
そう言った。声の高低は過不足なく、すでに耳にしているが、自分自身とは直接関わりのない事柄を確かめるような口ぶりだった。
「わたしも聞いている。とてもよく戦っていた」
名を呼べなかった。言ったのは、「宗門に名誉をもたらした方でしょう」である。意識は、林瓶が誰であるかには向いていない。自分の宗門から、面目ある人物が出たという点にあった。宗門に名誉をもたらした――その基準を、玄霜は認めているのだ。
林瓶はそこに立っていた。距離は一丈にも満たなかった。襟元の銀蓮文様の針目まで見えた。話すとき、口元がわずかに上がるその弧も見えた。よく戦ったと言った。たしかにそのことを知っているのだ。だがその言葉には、それ以上の意味はなかった。宗門大比と玄祈使とのあいだには、もともと何の関わりもないからである。林瓶は宗門に名誉をもたらした一人の弟子であり、玄霜はそのことを耳にした玄祈使である。口調も態度も、自分とは何の関係もない事柄を評するときのそれと寸分違わなかった。なぜなら林瓶という人間そのものが、玄霜の認識の中では、まさしく玄霜とは関わりのない一件にすぎなかったからである。
一つうなずいた。
「玄祈使のお気遣い、感謝する」
玄霜はそれ以上何も言わなかった。わずかにうなずくと、顔を横へ向け、再びあの霊台宗の侍女と話し始めた。
霊台宗の侍女は、玄霜が向き直ったあと、また林瓶を一目見た。その一瞥は、さっきより少し長かった。ただ見ているだけで、余計な表情はない。顔を覚えておこうとしているようだった。それから視線を引き、再び玄霜と話し続けた。
林瓶はそこに立ったまま、さらに一息ぶん長くとどまった。二人の話し声の調子は穏やかで滑らかだった。午後の庭で二人が何気なく語らっているときの、あの自然な響きだった。いつもと何も変わらなかった。
身を翻して去った。
院門を出るとき、振り返らなかった。陽光が頭上から降り、足もとに短い影を落としていた。来た道を下っていく。数歩進んだのち、歩みを少し緩めた。自分が今どんな気持ちなのか、判断しようとはしなかった。ただ一つ、わかったことがあった。さっきのあのやり取りの中で、玄霜の言った一語一語はすべて本当だった。たしかに林瓶がよく戦ったと思っている。たしかに心から褒めたのだ。だがその褒める口調は、部署の同僚に「先月の報告書、よくできていた」と言うのと何の違いもなかった。胸のあたりには何もなかった。刺すような痛みも、酸いような苦さもない。ただ静かで、がらんと空いていて、どこへ置けばよいのかわからない感覚だけがあった。
山道をしばらく歩いてから、ようやく自分の手を見下ろした。丹盒はもう渡してしまっている。手の中は空だった。
さらにしばらく歩いたのち、分かれ道で立ち止まった。縁組の噂と、さっきのあのやり取りとが、心の中で重なり合っていた。まるで噛み合わない二枚の図のようだった。
懐の紙片はまだそこにある。玄玉に会いに行かねばならなかった。ただ紙片を渡すためだけではない。縁組の件についても、玄玉がどう言うのかを知る必要があったのである。




