第36章 春(はる)
大晦日。林瓶は一日中、部屋に籠もっていた。苔痕録を広げてはみたものの、活字はただ紙に浮いた黒い跡にしか見えない。正月にまで自虐めいた時間を過ごすのも、少し虚しい気がした。
外門の宿舎は、いつもより人の声が多かった。
誰かが門に対聯を貼っている。字は歪み、筆も荒い。だが、紅紙が一枚貼られただけで廊に火が灯ったように明るくなった。提灯の下を風が抜け、紅い紙面がふくらんではしぼみ、そのたび影が壁を遊ぶ。遠くで爆竹の音がぽつぽつと途切れ途切れに響き、音の向こうから年の匂いがしていた。
外袍を畳んで床の端に置いたところで、張遠が扉を開けた。手には半分ほど残った花生糖の袋。正月前に食堂から配られたものだ。一人一袋。
張遠は袋を机に放り、床の縁に腰を下ろす。息を吐く。ため息というより、座るときに出る自然な音だった。
「また一年か。」
林瓶も机のそばに腰を下ろした。張遠が茶を二碗持ってきたので、二人はその半袋の花生糖をつまみながら、とりとめもない話をした。
「俺の町は青州府の柳河鎮ってところでな。道が二本。一本縦で一本横。」
糖を噛み砕くたびに声がもごもごと揺れた。
「家に少し田があって、食えるだけは食えるが、贅沢もしねえ。十六の年に太乙宗に来たんだ。ちょうど町が水に沈んで、親父が言うんだ。『山で運を試せ』ってな。」
「いつ帰った?」
「三年帰ってない。」張遠は淡々と答えた。「遠いし、半月がかりだ。外門の休みも取れねえ。それに……帰ったら多分、戻りたくなくなる。行かねえほうが、まだ夢がある。」
最後の一片を食べ終え、掌の屑を払って顔を上げる。
「お前は?」
林瓶は少し間をおいて言った。
「俺は――一人だ。」
張遠はうなずいただけだった。「なら似たようなもんだな。正月は食堂で旨いもんでも食おうぜ。」
林瓶は口元をほころばせた。いつも寡黙な張遠も、今日は心の張りが緩んでいる。窓の外で爆竹がいっそう賑やかになり、どこかで誰かが笑い声を上げた。
――
元日、林瓶は遅く起きた。餅を二切れ食べ、茶葉を懐にしまってから、昼近くに外へ出た。
まず聚霊峰へ。
謝臨平は例の小部屋にいた。机の上には落花生と湯気の立つ茶壺。いつもと変わらぬ面持ちで、林瓶を見ると手を招いた。
林瓶は茶を受け取り、懐から包みを出して机に置く。「新年のご挨拶に。山には良いものもなくて。」
謝臨平は断らず受け取り、静かに脇へ置いた。「気持ちが嬉しい。」
食堂の様子や部屋の寒さなど、他愛ない言葉をいくつか交わす。林瓶は短く答え、立ち上がった。
謝臨平が思い出したように言った。「鎮獄峰の山道、去年の凍りでまだ傷んでいる。春前に見ておかねばな。」
軽い口調だったが、林瓶の心にはその言葉の音が残った。
聚霊峰を出たあと、丹霞峰へ向かう。懐には一昨日、山下で買った桂花糕。甘い香りが油紙越しに漂う。
門前の提灯は二つ。対聯が鮮やかに貼られている。
「丹炉火暖三冬過 薬臼声軽一歳除」
筆はまっすぐ、力強い。顧青煙の字だ。林瓶は少し眺め、それから門を押した。
庭は静かで、丹房の扉だけが灯を洩らしていた。
「誰?」横の部屋から声。
振り返ると、蘇晴が箕を持って出てきた。薬材を干していたらしい。林瓶を見るや、手を払って笑う。
「やっぱり新年の挨拶か。」
「明けましておめでとう。」
「おめでとう。」蘇晴は石椅子に腰を下ろした。「座んな。」
林瓶は桂花糕を差し出す。「山下で買ったんだ。口に合うといいけど。」
蘇晴は躊躇なく開けて一つ口に入れた。「悪くない。食堂の菓子なんかよりずっとましだ。」包みを丁寧に畳んで置き、「気が利くな。」
冬の陽が庭を温めている。蘇晴は背を凭せ、日を受けながら丹房を顎で示す。「師匠、中にこもりきりだ。何してるんだか。昨夜も火の前でぼうっとしてた。」
林瓶は扉の隙間からこぼれる光を見た。揺らぎはなく、息のように静かだった。
やがて蘇晴は餅を切ってきた。「これ、食べろ。台所のやつだ、旨いぞ。」
林瓶は箸を取り、一口食べた。餅の温もりが舌にじんわり広がる。
見送りに出た蘇晴が言った。「春になったら薬材が増える。目利きを頼むよ。」
林瓶は「心得た」と答えた。
門を出るとき、一度振り返る。対聯の朱が風に揺れた。書き手の筆は揺るぎないが、その心までは——どうだろう、と思う。
――
宿舎に戻り、もう一包みの菓子を手に聚霊谷へ向かう。
台所の煙突から白い煙。薪の山に陽が当たり、雀が軒先で跳ねている。小蔡が入口で大蒜の皮をむいていた。指は寒さで真っ赤だ。
顔を上げ、林瓶を見て目を丸くする。
「お、お前、本当に戻ってきたのか!」
大蒜を投げ出して立ち上がる。「もう外門の人間だし、戻らねえと思ってた!」
「そんなことないさ。」林瓶は菓子包みを差し出す。「食べてみろ。」
小蔡は開けて一目見て、すぐ閉じた。「外門の菓子は、やっぱり見てくれが違うな。」それでも口にせず、そっと棚に置いた。
周安が庭の向こうで用品を数えていた。こちらを見て笑う。「外門になっても顔を出すとは、立派だ。」
林瓶は小蔡と並んでしゃがみ、他愛のない話をした。台所の匂いも声も、あの頃のままだ。氷の層を踏む音が足元から伝わる。
帰る時、小蔡が追ってきた。包子を二つ、油紙ごと握らせる。「持ってけ。外門のは冷めてるだろ。」
指が熱くて持ち替えるほどだった。
林瓶はそれを握りしめ、門前で一瞬、視線を谷に落とした。それから歩き出す。
――
午後、鎮獄峰へ。酒壺を一本提げて。
この峰にはまだ足を運べていなかった。柳絮が去り、執法峰では空気がまだ固い。だが今行かなければ、もっと行きづらくなる。
門前で足を止める。あの日――蘇晴の報せ、謝臨平の訪れ、柳絮の異動。そのすべてがこの門の内側で起きた。
ちょうど秦岳が中から出てきた。視線が林瓶の酒壺に止まり、すぐ林瓶の顔に戻る。淡い光を映した瞳に、感情の色はない。
「執法長老に新年のご挨拶を。」林瓶は壺を差し出した。「中までは失礼します。」
秦岳は受け取り、重さを確かめるように手を傾けた。しばらくして言う。「気持ちは預かった。取り次ごう。」
林瓶がうなずき、引き下がろうとしたとき、声が背から飛んだ。
「ちょっと待て。」
振り返ると、秦岳は門の前に立ち、遠くを見つめたまま言った。
「――務めを果たせ、と。」
四文字。冷たくもなく、熱くもなく。
林瓶は石段に立ち尽くし、吹き抜けてくる風に袍の裾を揺らされた。
「ありがとうございます、とお伝えください。」
秦岳はうなずきもせず、庭の奥へ消えた。門は静かに閉まりかけ、かすかに隙間が残った。
鎮獄峰を出るころ、空は灰青の幕に変わっていた。峰々に灯がともり始める。ひとつ、ふたつ、やがて星屑のように連なった。
林瓶は石段の上でしばらく谷を見下ろした。爆竹の音が遠くで裂け、木の燃える匂いが風に混じる。リズムを失った破裂音が、冬の山に散った。
――
夕方、林瓶は雲霞峰へ登る。執事に止められた。宗主は来客中だという。
林瓶は挨拶状と賀聯を手渡し、「新年のご機嫌伺いを」と言って門を離れた。
山道には赤い灯が並び、遠くでまた爆竹が上がる。冬の山影が墨のように溶け、峰の端に淡い光が揺れた。宗主には会えなかったが、礼は尽くした。
――
宿舎に戻ると張遠はいない。食堂で誰かと飲んでいるのだろう。
林瓶は床の縁に腰を下ろし、枕の下に手を差し入れた。あの本の角が布越しに指先へ当たる。抜き出さず、ただそこにある硬さを確かめる。
外袍を畳み、床の端へ置く。
窓の外で新しい爆竹が鳴った。さっきより近い音。パチパチパチ、と続き、火の匂いが室内に薄く流れ込む。
灯を消す。部屋が闇に沈む。
年が明けた。
それだけのことだった。




