第4話 衝突
翌朝、空がまだ暗いうちに、林瓶は目を覚ました。
大部屋の寝床では、まだ皆が眠っている。小蔡が寝返りを打ち、何かを寝言のように呟いて、また深い眠りに落ちた。聚霊峰の広場には、まだ誰もいない。霧は昨日よりも濃く、谷全体を薄い紗のように包んでいた。遠くの峰々の輪郭が、その向こうにぼんやりと浮かんでいる。
林瓶は持ってきた物を並べた。道端の石。枯れ枝。欠けた陶器の破片。錆びた鉄片。
石——何も見えない。
枝——何もない。
陶器——何もない。
鉄片には、ごくかすかに光る点があった。だが、それは鉄そのものではない。隙間に入り込んだ細かな鉱石の粉末だった。
やはり、霊力のない物には反応しない。
林瓶はさらに何度か試し、二つのことに気づいた。
一つ。集中すればするほど、よく見える。漫然と眺めるだけではほとんど分からない。だが、精神を目の先に集めると、光ははっきりする。
二つ。使いすぎると、目が疲れる。鉄片をしばらく見つめていると、目が乾き、視界がかすみ始めた。目を閉じて少し休めば、元に戻る。
この目は、筋肉のようなものだ。鍛えれば強くなる。だが、使いすぎれば消耗する。
林瓶は、毎朝ここで訓練すると決めた。
――
その日の夕方、林瓶は谷の外れで一人、空を見上げていた。西の空には大きな月暈が浮かんでいる。淡い光の輪が、月のまわりを取り巻いていた。
「月に暈がある。今夜は不吉だ。出歩くな」
通りかかった雑役がそう言った。
「俺のおふくろが言ってた。暈がある夜は血を見るって」
林瓶は思わず、心の中で呟く。
月暈なんて、空気中の氷の粒が光を曲げて見えるだけだ。吉凶と何の関係がある?
「大気」「氷晶」「屈折」——その言葉が、別の世界の記憶の断片として、ひらりと頭の中に舞い降りる。林瓶は首を振り、その考えを追い払った。
それよりも。
林瓶はさらに深い記憶の層を掘り起こす。
——トレーニングジム。マット。汗。組み合う影。
——ブラジリアン柔術。
名前は出てこない。コーチの顔も、ジムの名も思い出せない。だが、技術は身体に刻まれていた。クローズドガード。十字固め。三角絞め。背後からの裸絞め。考えるより先に、身体が動きを思い出す。
林瓶は立ち上がり、空き地で動きを確かめた。
——テイクダウン。腰を落とし、体を前に送り、相手の重心を崩す。動きはぎこちない。この身体の筋肉のつき方は、前世とはまるで違う。だが、骨格の使い方も、重心の感覚も同じだ。
——サイドポジション。膝をつき、体を低く保ち、腕で相手の体を押さえ込む。
鈍い。だが、使える。
林瓶は息を切らせ、そこで立ち止まった。
そして考える。
この目で、相手の霊力の流れを見ることができる。ならば、近接した状態でその流れを読みながら、関節技で流れを断てたらどうなる?
柔術の原理は、てこの作用と関節の可動域を利用して相手を制することだ。そこに、この霊力を視る目が加われば——たとえ自分に霊力がなくても、一瞬だけなら、霊力を持つ相手を抑え込めるかもしれない。
ただし、条件はある。至近距離に入ること。そして一撃で決めること。外せば、霊力を持たない雑役が、霊力を持つ相手に一方的に叩きのめされるだけだ。
林瓶はその考えを胸の奥にしまい込み、土を払って立ち上がった。
――
その夜、小蔡が走ってきた。顔色が悪い。
「林瓶、さっき聚霊峰で秦岳さんに会ったんだ」
声を潜めて言う。
「鎮獄峰の人だよ。何か探してるみたいで、何人かの雑役に、怪しい奴を見かけなかったかって聞いて回ってた」
林瓶の鼓動が一瞬止まった。
「何を聞かれた?」
「最近、見慣れない奴が谷をうろついてないか、とか。鎮獄峰の方へ行った者はいないか、とか——そんなことだよ」
小蔡は首をかしげた。
「でも、俺は何も見てないって答えたけど……何かあったのか?」
「知らない。……俺たちには関係ない」
そう答えながらも、林瓶の頭は高速で回っていた。
秦岳の質問の仕方——「怪しい奴」「見慣れない奴」という言い回しは、**誰かが外部から侵入した**という前提に立っている。つまり秦岳は、林瓶が「内部の人間」だとは考えていない。
それは林瓶にとって、一つの情報になった。秦岳——いや、執法長老は、あの洞窟に近づいた者が「外部の侵入者」であると決めつけている。彼らは、雑役がうっかり迷い込んだ可能性を想定していない。あるいは、想定した上で、その線を無視している。
なぜだ。
秦岳。執法長老の筆頭弟子。執法隊の隊長が、自ら雑役に聞き込みをしている。これはただ事ではない。
寮に戻ると、林瓶は寝台に横たわり、天井の梁を見上げた。
急がなければならない。目を鍛え、体を戻し、自衛できるようになるまで——その猶予は、あまり残されていないかもしれない。
――
その三日後。弘武峰の麓。
林瓶と小蔡は、それぞれ一本ずつ木材を担ぎ、倉庫へ向かう山道を歩いていた。今日の仕事は、弘武峰の修理用の硬材を届けることだ。蔵経楼の梁を補強するためのものらしい。
倉庫の前には、数人の外門弟子がたむろしていた。その中に一人、藍色の法袍をまとった二十四歳ほどの女がいる。
冷徹な顔立ち。腰には玄鉄の令牌。周囲には、雑役の格好をした控えの者が二人いた。だが、その立ち姿は明らかに雑役ではない。背筋は伸び、視線は絶えず周囲を警戒している。
林瓶は気を引き締めた。
そのとき、一人の外門弟子が近づいてきた。二十歳前後。面長の男だ。木材に目をやり、足で軽く蹴ってから、顔をしかめる。
「なんだ、これ。泥まみれじゃないか」
「すみません、山から運んできたものなので……」
小蔡が頭を下げる。
「山から? こんなもんを弘武峰で使えっていうのか?」
相手の声は次第に大きくなった。
「お前ら聚霊峰の雑役は、そんな仕事しかできないのか?」
小蔡の顔が真っ赤になる。それでもこらえ、無理に笑顔を作った。
「すみません。すぐに拭きますから——」
「拭く? その汚い服でか?」
外門弟子は小蔡を突き飛ばした。小蔡はよろめき、後ろの林瓶にぶつかる。林瓶の肩から木材が落ち、鈍い音を立てた。
相手はさらに詰め寄り、林瓶の襟をつかんだ。
「貴様ら雑役は——」
言葉はそこで止まった。
林瓶の右手が、反射的に動く。相手の手首の内側、その一点に親指を当てる。そこから流すように手を引き、自分の体を半身にかわした。
——手首を極める。
動きは小さく、一瞬だった。外門弟子は手首に痺れが走り、腕の力が抜け、膝が不自然に折れる。端から見れば、ただ自分でバランスを崩したようにしか見えない。
「——!」
外門弟子は立ち上がり、顔を真っ赤にして、もう一度林瓶に手を伸ばそうとした。
「やめろ」
冷たい声が横から差し込んだ。あの藍色の法袍の女、柳絮が木陰から歩み出てくる。彼女は外門弟子を一瞥し、それから林瓶を見た。
「倉庫の前で騒ぐな。任務中だろう」
外門弟子は何か言いかけたが、結局、口をつぐんだ。柳絮を睨みつけてから、仲間とともに去っていく。
柳絮は向き直り、林瓶を見た。
「名前は」
「林瓶。聚霊峰の雑役です」
柳絮は頷いた。その視線が林瓶の顔に、ほんの一瞬だけ長くとどまる。
「もう行っていい」
林瓶は頷き、小蔡を連れてその場を離れた。
――
弘武峰を出て十分ほど歩いたところで、小蔡がようやく口を開いた。
「……今の、何だったんだ?」
「何でもない。自分で転んだだけだ」
「自分で転んだ? どう見てもお前が——」
「見間違いだ」
小蔡は納得していない顔をしたが、それ以上は追及しなかった。手を振って言う。
「ま、いいや。大ごとじゃないならそれでいい。さあ、戻ろう。腹減った」
林瓶はその後ろを歩きながら、さっきの一撃を反芻していた。
手首に触れた瞬間、見えた。
霊目が、あの短い接触のあいだに、相手の体内を流れる霊力を捉えていた。丹田から腕の内側へと立ち上る、淡い黄色の光。あの流れの途中にある一点を指で押さえれば、霊力の流れを断てるかもしれない。
心臓が高鳴る。霊目と柔術を組み合わせれば、霊力を持たない林瓶にも、戦う余地が生まれる。
だが、今回の相手は油断していた外門弟子だ。もし相手が警戒していたら。もし、もっと修為の高い内門弟子だったら。この技が通じるのは、一度きりかもしれない。
それでも——
近接した状態で不意を突ければ。可能性はある。
林瓶はその確信を、胸の奥で静かに温めた。
そして、もう一つ気づいたことがある。
あの藍色の法袍の女——柳絮——は、林瓶が関節技を使った場面を目撃していた。だが彼女はそれを咎めず、問い詰めもせず、ただ名前を聞いて去った。
彼女は、林瓶を「記憶した」。雑役の一人としてではなく、**個別の対象**として。
それは、林瓶にとって良いことか、悪いことか。まだ判断できない。だが、自分が「誰かの視界に入った」ことだけは確かだ。
――
同じ夜。鎮獄峰の大殿。
柳絮は、執法長老・林蒼衡の前に立っていた。
「今日、弘武峰の麓で件の雑役に接触しました。一名の外門弟子と衝突しかけたところを、彼が制しました。動きは洗練されていました。普通の雑役のものではありません」
林蒼衡は書案の向こうで文書を手にしていた。その手が、「林瓶」という名を聞いた瞬間、ぴたりと止まる。
沈黙が落ちた。
「……林瓶?」
「はい。聚霊峰の雑役です。内務の記録によれば、入宗は十年前。体質は通霊・納霊。悟性は不入流」
林蒼衡は、すぐには答えなかった。
その名を覚えていたからだ。七日前、自分が一掌で葬った、あの雑役の名を。
林瓶は死んだはずだった。確認もした。翌朝、葬る手配もさせた。
そのはずの人間が生きている。
林蒼衡は筆を置き、窓の外へ視線を向けた。月明かりが鎮獄峰の岩壁を這っている。白く、霜のように冷たい。
長い沈黙ののち、彼は言った。
「引き続き観察しろ。気取られるな」
柳絮は頭を下げた。
「はい、師匠」
彼女が大殿を出ていったあとも、林蒼衡はなお窓の外を見つめていた。
自分が殺したはずの人間が、宗門の中を歩いている。
死に損なったのか。あるいは——
誰かが嘘をついている。
どちらにせよ、吉報ではない。




