第3話 祭祀
空はまだ暗い。雑役たちは夜明け前に叩き起こされ、慌ただしく支度を始めた。
「早くしろ! 今日は玄女峰だ! 香炉、蒲団、供卓、どれか一つでも忘れたら承知しないぞ!」
小蔡の声が、朝の静けさを切り裂いた。肩には赤い毛氈を担ぎ、腰の後ろには箒を差している。まるで歩く雑貨屋のような格好だった。
林瓶も朱色の絨毯を抱え、その後ろについていく。後頭部の痛みはほとんど引いていた。脈打つような鈍い重さが、わずかに残っているだけだ。
――
玄女峰へ続く石段は、驚くほど整っていた。両脇には名も知らぬ花木が植えられ、夜露を帯びた葉が朝の光の中で細かくきらめいている。山道には数歩おきに石灯籠が立ち並んでいた。中の灯は消えているが、表面には細かな符文が刻まれ、霊力の残滓がかすかに光を宿していた。
階段を上るにつれ、空気に混じる甘い香りが濃くなっていく。聚霊峰のそれとはまるで違う。この峰の霊気は、桁違いに濃い。
山頂に着くと、祭祀のための祭壇が姿を現した。
三丈四方の台座は、すべて青みがかった霊石で組まれている。林瓶にはその石の正体は分からない。ただ、足を乗せると、ひやりとした冷たさが靴底越しに伝わってきた。台座の表面には、中心から外へ向かって無数の符文が刻まれている。巨大な蓮の花が開いたように、規則正しい幾何学模様を描いていた。
「その線、踏むなよ」
小蔡が慌てて林瓶の腕を引く。
「陣法だ。壊しでもしたら、お前一人じゃ弁償できないぞ」
林瓶は足を引っ込めた。
供卓の上には、七つの白玉の皿が並べられていた。拳ほどもある紫色の果実。表面はうっすらと発光している。透明な玉の壜の中では、琥珀色の液体が揺れていた。さらに色とりどりの鉱石もある。どれも林瓶の知らないものばかりだった。
卓の後ろには、大きな青銅の鼎が据えられていた。三本脚で、両脇に取っ手がついている。表面には鳥獣の紋様がびっしりと刻まれていた。口径は一メートルほどあり、内側には香灰と炭がすでに用意されている。
「あれは祖師鼎だ」
小蔡が声を潜めた。
「五百年は経ってるって話だ。普段は玄女殿に安置されてて、年に一度の祭祀の時だけ、ここに運ばれる」
林瓶は頷く。小蔡と一緒に蒲団を並べ、香炉を置き、供卓を拭いていく。前世ではやったことのない仕事だ。だが、この身体は迷いなく動いた。手も足も、その先まで、雑役としての記憶に従うように自然に働く。
――
やがて、各峰の長老たちが集まり始めた。
最初に姿を見せたのは、丹器長老顧青煙だった。濃い緑の法袍をまとい、腰には銀糸の帯、その下に小さな銅炉を模した佩玉を下げている。彼女は祭壇の周囲をひと巡りすると、弟子たちに祭祀法器を配置させ、すぐ脇へ退いた。無駄な動きがまるでない。この儀式そのものには、あまり関心がないようにも見える。
「冷たい人だな」
小蔡が囁いた。
「仕事に集中しろ」
次に現れたのは謝臨平だった。いつもより色の濃い灰色の道袍をまとい、腰には内務令牌を下げている。祭壇に上がると、まず顧青煙に軽く会釈し、それから隅で蒲団を並べている雑役たちへ目を向けた。その視線が林瓶の上で、ほんの一瞬だけ止まる。
「小林、祭祀が終わったら、山下で酒を何本か買ってきてくれ。今夜使う」
「はい、長老」
謝臨平は頷き、自分の位置へ歩いていった。
伝功長老の姿は、どこにも見えない。
やがて、宗主李還真が現れた。紫の法袍をまとい、頭には玉冠、手には玉の払子を持っている。袍は陽光を受けて柔らかく輝いていた。その光沢は、布地そのものに霊力が込められている証だ。彼は慣れた足取りで進み、祭壇の符文が最も明るく光る位置を、寸分違わず踏み分けていく。
小蔡が祭壇の左側を顎で示した。
「伝功長老、来てないな」
そこは、本来なら彼が立つはずの場所だった。ぽっかりと空いている。
宗主もその空席を一瞥した。だが表情は、何ひとつ変わらない。静かに玉圭を掲げる。
――
編鐘が鳴った。
それは「キン」という単音ではなかった。低い音から高い音へと連なっていく、震えの重なりだった。音は谷間を往復し、足元の石を震わせ、林瓶の胸の奥にまで響いてくる。
その瞬間、祭壇の霊石が光を放った。中心から外へ、ひとつ、またひとつと、符文に白い光が灯っていく。まるで見えない誰かが順に火を入れていくかのように、祭壇じゅうの符文が次々と輝き始めた。
林瓶は、その光の源に違和感を覚える。
光は祭壇だけから発しているわけではない。
林瓶は無意識に、玄女峰の正殿へ目を向けた。扉は固く閉ざされている。だが編鐘が鳴り響いたあの瞬間、殿の内側から、見えない風のようなものが祭壇の上を撫でていった。そして霊石の輝きが、さらに一段強まった。
それが何なのか、林瓶には見当もつかない。だが直感する。あの殿の中には誰かがいる。そしてその誰かは、この祭壇と一体になっている。
――
祭祀は一時間ほど続いた。
林瓶は最後列の蒲団の上に正座し、膝が痺れ始めている。前方の人垣の隙間から、宗主が香を焚き、酒を献じ、祭辭を読み上げる姿がぼんやりと見えた。編鐘が鳴るたび、谷が共鳴し、その響きが胸の奥を直接打ってくる。
その時、近くにいた若い雑役たちが囁き合った。
「なあ……玄祈使って、今日は出てくるのか?」
「祭祀で俺たちが会えるわけないだろ。あの人は山の上にいるんだよ」
「年に数回も降りてこないって聞いたぜ。普段は玄女殿に籠りきりだって」
「じゃあ普段は何やってるんだ?」
「さあな……玄祈使ってのは祭祀と祈祷を司る役職だ。やることはあるんだろ」
林瓶は黙って聞いていた。
「玄祈使」という言葉は、原身の記憶にもある。祭祀を司る女官。年に一度だけ姿を見せる。それだけだ。林瓶はそれ以上考えない。
少し離れたところでは、外門弟子たちが声を潜めて話していた。
「伝功長老、今日は来なかったな」
「ああ。今朝鎮獄峰に行ったらしい」
「また?」
「しっ……俺たちが聞いていい話じゃない」
会話はそこで途切れた。二人は顔を見合わせ、それ以上は何も言わない。
だが林瓶の耳には、その三文字が深く刺さる。鎮獄峰。
自分が殺された場所。あの洞窟。あの女。そして、あの一掌。
伝功長老が鎮獄峰に通っている。鎮獄峰は執法長老の管轄だ。そして林瓶を殺したのは、おそらく執法長老だ。
三つの点は、まだ一本の線にならない。ばらばらの断片にすぎない。だが、それぞれが確かにそこにある。
自分に足りないのは、情報だ。
――
同じ頃。弘武峰の蔵経楼。
伝功長老・李承道は、窓辺に立っていた。視線の先には、玄女峰の祭祀の光が見える。彼は祭祀に出なかった。
今朝、李承道は鎮獄峰を訪れていた。そしてまた追い返された。あの女は、もう半年も音沙汰がない。執法長老はただ「時機未だ至らず」と言い張っている。
李承道は冷笑した。時機未至、か。
その視線が玄女峰から雲霞峰、宗主のいる方角へと移る。
太乙宗に必要なのは、この宗門を再び頂へ導ける者だ。自宗の心法すら揃えられない腑抜けではない。
――
祭祀は終わった。
夕方の山風が、香炉の残り香を空へ散らしていく。雑役たちは来た時と同じように、手早く祭壇の後片づけを始めた。小蔡は愚痴をこぼしながら働き、林瓶は黙ってその後を動く。
頭の中では、考えがかき乱されたようにぐるぐる巡っていた。
伝功長老は鎮獄峰へ行った。鎮獄峰は執法長老の管轄だ。執法長老は林瓶を、少なくとも原身を殺した。洞窟の女は、今もあそこにいる。
断片は、散らばった札のように目の前に並んでいる。だが、どれひとつとしてはまらない。あの女は誰なのか。執法長老はなぜ彼女を閉じ込めているのか。伝功長老は鎮獄峰で何をしようとしているのか。宗主は、このすべてをどこまで知っているのか。
何も分からない。
だが、確かなことがひとつだけある。この宗門の静かな水面の下では、大きな流れが動いている。
林瓶は玄女峰の山裾で足を止め、振り返った。
夕陽の中、太乙宗の六つの峰が連なっている。飛簷の先は金色に染まり、遠くの鐘楼からは晚課の鐘の音が長く尾を引いて聞こえてきた。
美しい景色だった。
その美しさの下に、どれほどの秘密が沈んでいるのか。林瓶はまだ知らない。
分かっているのは、自分がただの雑役にすぎないということだけだ。
それでも、まだ生きている。時間はある。




