第34章 渦(うず)
年の瀬最後の配薬の日、林瓶は一袋の薬材を背負い、玄女峰へと歩いた。
道は人影もまばらで、白く凍った雪が足裏でざりと鳴った。峰ごとの弟子たちはそれぞれの務めに追われ、誰もこの寒の中を余計に歩こうとはしない。山気は冷え、息を吐くたびに白が宙に溶けた。
唐執事が殿の入口で待っていた。薬材を受け取り、一つひとつ確かめたのち、帳簿に筆を走らせながら何気なく言う。
「この年を越せば、玄霜は十九になる。」
独り言のような声だった。
林瓶は返事をしなかった。
十九。
その数字だけが胸に残った。玄霜が十八だと聞いたのは、まだ林瓶が丹霞峰の庭にいた頃だ。一年が、いつのまにか過ぎていた。
薬材を収めた林瓶は廊下を見た。玄霜の姿はない。木の椅子の上もがらんとして、凍てた静けさだけが残っていた。
「修行に出た。」背後から唐執事の声がした。言葉は義務でもなく、ただ空気に溶けるように響いた。
林瓶が振り返ると、唐執事は帳簿に目を落としたまま続けた。
「自分から言ったよ。いつまでも詩を聴いてばかりではいられない、とな。」
その声音に温もりも冷ややかさもなく、ただ淡々とした事実だけがあった。林瓶は何も言わず、廊下越しに閉じかけた扉を見た。隙間から、干された衣が衣架に掛かっている。赤みがかった布が灰色の室内でかすかに灯のように見えた。玄霜の衣ではない。冬陽を受けて、柔らかく影を落とす布だった。
ほんの数息見つめただけで、林瓶は目を逸らした。唐執事のものか、あるいは別の誰かの。
しばし入口に佇んだのち、林瓶は山気に背を向け、雪の道を下った。
――
知らせが届いたのは翌日の午後だった。
聚霊峰の倉庫で炭火を検めていると、蘇晴が姿を見せた。表に誰もいないのを確かめ、扉を閉めて低い声を落とす。
「伝功長老が会議で、お前のことを持ち出した。」
言葉の響きが、林瓶の内でひとつずつ形を帯びていく。蘇晴は続けた。
「年末の長老連席会議。正式じゃないが、執事以上が揃う総括の場だった。伝功長老が言った——『玄女峰の物資管理を、外門に上がって三月も経たぬ弟子に任せるのは規矩に背く。玄女峰は宗門の根幹、一弟子が出入りを統べるなど前例がない』と。」
林瓶は黙って聞いていた。
「宗主が返した——『化霊丹の品質は霊目術で見極める必要がある。あの者には見える』って。」
そこで蘇晴の声がわずかに緩んだ。宗主が彼をかばった、と言わなくても十分伝わった。
「そのあと、伝功長老がさらに突っ込んだ。『では薪運びにも霊目術が要るのか? 布団も冬衣も筆墨も、その目で見せよと?』」
沈黙が走った。
「宗主は?」林瓶が問うと、蘇晴は首を振った。「何も言わなかった。」
四字が重く倉庫に沈んだ。霊目術は薬の理屈を支えられても、薪や筆では通らない。宗主が庇いきれぬ所まで来たのだろう。
「名は出さなかったけど、誰のことかは皆わかってた。」蘇晴が低く添える。
林瓶は小さくうなずいた。「わかった。」
それ以上は何も聞かなかった。蘇晴はしばらく彼を見、それから踵を返す前に一言だけ落とした。「気をつけて。」
扉が閉まり、静けさが戻る。炭の匂いの中で、林瓶はまだあの言葉を消化できずにいた。
その時、戸を叩く音が響いた。
トントン。短い二度。慎ましい調子だった。
扉を開けると、謝臨平が立っていた。手に一枚の紙を持つ。玄関の敷居をまたがず、外から差し出した。
「宗主の手配だ。」
林瓶は受け取り、目を通した。筆の跡は冷ややかに整っている。
——化霊丹の配薬権は変更せず。その他の物資は明日より内務峰・周安に移管。
それだけが記されていた。
謝臨平は去らず、数息の後、淡い声を置いた。「お前を外したわけではない。規矩だ。」
そして踵を返し、廊下の向こうへと姿を消した。
林瓶は紙を見つめ、やがてそれを折って袖に収めた。宗主は、外形だけ理を通しつつ、彼の立場をぎりぎりに残した。化霊丹は彼の手に、雑務は周安に。誰も異を唱えられぬ配置。
周安——内務峰の老管。円満で、私情など誰も疑わぬ。年老いた手で薪を運んでも、そこに邪念の影は落ちない。
林瓶は炭篭の埃を払った。陽が高窓から落ち、白い光が地面を細く照らしている。袖の奥で、触れた紙がかすかにざらついた。
――
同じ午後、柳絮が執法長老に呼ばれた。名目は年末の輪調。半年勤めた張り込みの任務を他に譲る、と。
翌朝、立ち番が変わっていた。
林瓶が山門を出ると、いつもの場所に柳絮はいない。代わりに無口そうな三十過ぎの男が立ち、腰に短い鉄棍を差し、視線を地に落としている。まるでただ休んでいるようだった。
だが林瓶が歩けば、その影も歩き、立ち止まれば同じように止まる。距離を取りつつ、決して見失わない。柳絮とはまったく違っていた。柳絮の視線には冷たさの奥に温があった。この男には、空が透けて見えるような無があった。
夕方、林瓶が宿舎へ戻る途中、角の向こうで柳絮と目が合った。柳絮は待つように立ち、林瓶が近づくと小声で言う。
「代わった。気をつけろ。」
それだけ。振り返らず、暮色の中に姿を消した。裾が風に舞い、一度だけ翻って静かに落ちた。
林瓶は立ち止まり、その背が辻の影に沈むまで見送った。
宿舎に戻ると、雪が本降りになっていた。灯りをつけずに机の前に座る。外では細かな白が夜を埋めていく。
思い浮かぶ——伝功長老の発言、柳絮の異動、秦岳が蘇晴と会っていたという噂。三つの出来事が一日のうちに並んだ。
玄霜は修行に入った。
唐執事の言葉では、自分から望んだらしい。
あの紙の句も繰り返し頭に浮かぶ。明日から玄女峰に上がる口実は薬だけになる。炭火の名目で長居することもできない。「ついでに」廊下の植木鉢の土が替えられたか見に行くこともできない。
林瓶は、扉の隙間から見たあの紅い衣を思い出した。ひとまわり大きい、誰のものでもない布影。灰に沈む部屋の中で、冬の陽を受けて柔らかく光っていた。
雪は絶えず降りしきっていた。太乙宗の年越しが静かに近づき、雪音の下で、水面のような気配がそっと動き始めていた。




