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第33話 閑

第33章 ひま


玄女峰(げんじょほう)から下りてからというもの、あの数首の詞が何日も頭の中を巡っていた。山道の雪は踏み固められ、その上にまた新しい雪が積もる。歩くたび、足元で雪がぎしぎしと鳴った。通る道は以前と変わらない。けれど、道端の景色はどこか違って見える。


それから数日もすると、季節はすっかり真冬に入った。太乙宗(たいいつしゅう)の各峰も、目に見えて動きが少なくなる。


各峰の弟子たちは、ほとんど部屋にこもっていた。食堂で食事をする者は半分ほどに減り、道で見かける弟子も、厚手の綿入れの袍に身を包み、うつむきがちに足早に通り過ぎていく。


謝臨平(シエ・リンピン)のほうの仕事も減っていた。年末の予算審査はすでに終わり、各峰の物資も十分に蓄えられている。聚霊峰(しゅうれいほう)は、一年でもっとも暇な時期に入っていた。ある日、謝臨平が庭で林瓶を見かけ、こう言った。


「このところ、お前に急ぎの用はない。休める時に休め。倉庫にばかり入り込むな」


林瓶は「はい」と答えた。だが、本当に休んでいたわけではない。


――


冬休みのあいだ、林瓶は何度か丹霞峰(たんかほう)へ足を運んだ。自分から用事を作ったわけではない。蘇晴(スー・チン)に連れて行かれたのだ。


「冬休みって暇だし、新しい丹薬を試したいんだ。火加減、見てくれない?」


蘇晴(スー・チン)丹房(たんぼう)の入口に立っていた。手には一握りの薬材。袖口には炭の粉がつき、髪も炉の火で少しぱさついている。林瓶が半ば引っ張り込まれるように中へ入った時には、すでに炉には火が入っていた。丹房の中は春のように暖かい。


彼女は炉の前にしゃがみ込み、手の甲で炉壁の温度を確かめて、満足そうにうなずいた。


「いい炉だろう? 山の下のより、ずっと使いやすい」


林瓶も、たしかにそう感じていた。丹炉(たんろ)は火力の調整が非常に精密だ。温度の上がりも早く、下がり方も均一で、普通の炉のように焼けすぎたり、逆にぬるすぎたりしない。林瓶は手を炉壁の上にかざし、熱の回りの均一さを確かめた。


「これは誰が作った炉だ? 腕がいいな」


蘇晴(スー・チン)は少し声を潜めた。


「うちの師匠が言ってたんだ。昔はこんなんじゃなかったって。昔なじみの人が送風系統を改造したらしいの。改造する前は、一炉で半分は駄目になってたのに、改造した後は成丹率が倍になったって」


林瓶(リンピン)は彼女を見た。


「その昔なじみって、どんな人だ?」


蘇晴は肩をすくめた。


「さあね。師匠も詳しくは話さなかった。一度聞いたことはあるけど、その場で話を切られてさ。それ以来、聞けなくなっちゃった」


林瓶はそれ以上、追及しなかった。丹房の入口にしばらく立ち、蘇晴が材料を準備するのを待つ。そのあいだ、視線がふと脇の間へ流れた。


顧青煙(グー・チンイエン)の机。普段そこに掛けられている、あの古い玉が今日はない。


目で探すと、玉は外されて机の上に置かれていた。脇には、小さく折りたたまれた布が添えられている。布はまだ完全には乾いていないらしく、玉の表面はしっとりと濡れていた。あの模様が、湿った玉の上にいつもよりはっきり浮かび上がっている。長年の埃の下から、ようやく姿を現したかのようだった。


林瓶は気づいた。以前見た、あの玉だと。昔なじみの者が送風系統を改造し、その者が玉を残した。おそらく同じ人物だ。


そう考えていると、蘇晴(スー・チン)が奥から戻ってきた。林瓶は視線を外し、彼女に続いて丹房の中へ入った。


――


冬休みのあいだ、林瓶は蔵経楼(ぞうきょうろう)にも何度か足を運んだ。


冬の蔵経楼は、外ほどではないにせよ暖かくはない。だが、なにより静かだった。一階にはほとんど人がいない。寒すぎて、弟子たちもあまり来たがらないのだ。林瓶は書架のあいだにひとり座る。窓の外には、灰色の空と雪に覆われた山並みが広がっていた。そこで半日を過ごし、古い書物を何冊かめくったが、これといった収穫はない。結局、目についた一冊を手に取っただけだった。


帰り際、林瓶は二階のほうをちらりと見やった。あの無表紙の本は、まだそこにある。だが、今は上がれない。時期ではない。伝功長老(でんこうちょうろう)からあの一撃を食らったばかりだ。今は何より、波風を立てずにいるべき時だろう。


この風向きが収まったら、入れ替え用の古い本を持って二階へ上がる。林瓶は心の中で二階の配置をもう一度なぞった。それから貸出カウンターへ行き、前に借りていた『履霜雑録(りそうざつろく)』と『江南草木志(こうなんそうもくし)』を返す。代わりに、手にしていた『前朝異聞録(ぜんちょういぶんろく)』を借り、記録を済ませて楼を出た。


――


その日の昼時。食堂で食事を受け取った林瓶は、壁際の隅に座った。『前朝異聞録』を机に広げ、汁物をすすりながら頁をめくる。中ほどのある頁で、一文に目が留まった。本門の先輩が書き残した随筆のようだった。


「本門三十四代宗主・玄陽真人(シュエンヤンしんじん)、在位十八年。宗門の最盛期にあって、ある日突然、掌門令牌及び『周天引星訣しゅうてんいんせいけつ』の秘巻を携えて外遊に出、そのまま杳として知れず。後に三十五代が継位す。其人、凡庸にはあらずと雖も、本門の功法を習うにその法を得ず、漸く性行乖戾、横征苛斂を極め、各峰の心を離れしめ、内乱ここに起こる。是の役、本門の高手、死するか去るかして、損耗半ばを過ぐ。噫。盛衰の際、豈に天命に非ずや。」


林瓶は手を止めた。第三十四代宗主の失踪。功法の失伝。内乱。高手の半減。


その数行をもう一度、目で追う。心の中で、その名をなぞった。周天引星訣しゅうてんいんせいけつ


そして次の頁をめくろうとした時、机の角に何かがぶつかった。碗の中の汁が揺れ、机にこぼれる。縁を伝って滴り落ち、袍の裾にまで飛んだ。


林瓶は顔を上げた。


陸青(ルー・チン)が立ち止まり、振り返っていた。顔には、いかにも「わざとだが、どうする」という色が浮かんでいる。


「おっと、すまん。お前がそこに座ってるの、見えなかったわ」


林瓶は一瞥をくれただけで、何も言わなかった。机の上の布で汁を拭き、本を自分のほうへ寄せる。頁に汁がかからないようにしてから、また手を戻した。


この数日、気分は悪くなかった。むしろ、いいと言っていい。こんなことで乱されたくはない。


だが、その無視が陸青の癇に障ったらしい。


「お前、最近忙しいみてえだな。聚霊峰だの玄女峰だの。どうだ、雑役上がりってのは、そこまで必死に売り込まなきゃならねえのか?」


食堂が少し静まり返った。周りの弟子たちが箸を止める。


林瓶は本を閉じ、立ち上がった。声を荒らげることもない。ただ陸青を見て、ごく平坦な口調で言う。


「今、何て言った? 聞こえなかった」


その落ち着きが、かえって陸青の立場を悪くした。周囲の目がある。このまま引き下がるわけにはいかない。陸青は林瓶の胸元をつかみにかかった。


「まだ終わって――」


言い切る前に、林瓶は動いていた。


左手で、突き出された陸青の手首をつかむ。腰をひねり、そのまま押し込んでくる力を横へ流す。陸青は重心が前に乗っていた。その勢いのまま、体勢が大きく崩れる。林瓶の右足が足元を軽く払う。膝を腿の外側に当て、体重をかけた。次の瞬間、陸青の顔が隣の机に叩きつけられる。鈍い音が食堂に響いた。


動きは、二息とかからなかった。霊力のぶつかり合いもなければ、技の名もない。ただ、つかみ、流し、払い、押さえた。それだけだった。


食堂が、一瞬で静まり返る。


陸青は机にうつ伏せになったまま、片腕を背後に極められ、顔を机に押しつけられて身動きが取れない。もがいても、林瓶は力を緩めなかった。逃れられない。


ひとりの弟子が、思わず息をのんだ。荒々しかったからではない。あまりに速かったのだ。まるで、歩いている途中で自分の足にもつれて転んだようにしか見えなかった。


林瓶は手を離した。


陸青は机から跳ね起き、真っ赤な顔で振り返り、林瓶をにらみつけた。食堂にいた全員が、次の怒鳴り声を待っていた。だが、陸青は怒鳴らなかった。むしろ笑った。その笑みに温度はない。


「やるじゃねえか。だが、喧嘩は実力じゃない――覚えておけ」


口調はひどく軽い。大げさに騒ぐほどのことでもない、とでも言いたげだった。だが、そういう言い方だからこそ、その言葉はその場にいた全員の耳にはっきり届いた。


陸青はうつむき、衣襟の埃を払う。自分の碗をつかむと、そのまま向きを変えて歩き去った。足取りは速くも遅くもない。逃げるような慌ただしさも、怒りに任せた乱れもなかった。


食堂には再び話し声が戻る。だが、さっきまでよりずっと小さい。林瓶は席に戻った。目の前の汁物は、もう冷めている。碗を手に取ってひと口すすり、『前朝異聞録』を開いた。何事もなかったかのように、また読み始める。遠くの隅では、数人の女弟子が何かひそひそと話し合い、くぐもった笑い声を漏らしていた。


――


ある午後、大雪が降っていた。


林瓶は蔵経楼にも、聚霊峰にも行かなかった。宿舎の窓辺に座り、外の雪が太乙宗のすべてを白く覆っていくのを眺めていた。窓には霜の花が張りつき、その向こうに見える山や建物の輪郭はぼやけている。雪原を走り回る弟子たちの声が、くぐもって窓越しに届いた。


そうしているうちに、ふと気づく。こんなふうに静かに座るのは、ずいぶん久しぶりだ。


雑役から外門弟子へ。問い詰められ、薬を届け、問題を見つけては潰してきた。この道のりは決して早くない。だが、林瓶はほとんど足を止めずに進んできた。今は、窓の外の雪があらゆる音を吸い込み、風の音でさえ何か越しに届いてくるように思える。


玄霜のことも考える。あの人も今、雪を見ているだろうか。玄女峰の雪は、こちらより深いはずだ。彼女は前に「次はもっと早く来て」と言った。次に薬を届けるのは三日後。三日。林瓶には、少し長い。


二階の、あの無表紙の本のことも考える。風向きが収まったら、同じくらいの厚さの古書を持って行き、入れ替える。位置は覚えている。手に取った時の感触も覚えている。間違えることはない。


伝功長老のことも考える。最近は静かすぎる。静かすぎて、かえって落ち着かない。理由はわからない。ただ、伝功長老がこのまま何もせず終わるはずがないことだけはわかっている。その前に、準備を整えておかなければならない。


雪はまだ降り続いていた。窓の外は、白一色の世界。誰にも見られていない絵のように、ひっそりと静かだ。


林瓶は窓辺に座ったまま、手の中の湯飲みをひとつ回した。器の内側に結んだ水滴が、ゆっくりと伝い落ちていくのを見つめる。


三日後。



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