第30話 鎖
宗主に輔薬のすり替えを報告してから、林瓶は二日待った。
宗主から、何かしら話があるはずだと思っていた。細かな点を聞かれるのか。この先の対応を伝えられるのか。少なくとも、品質管理権を戻したあとの伝功長老方の動きくらいは知らされるだろう、と。
だが、何もなかった。
聚霊峰は静まり返ったままだ。まるで、そんなことなど最初からなかったかのように。
三日目の朝、謝臨平が使いを寄越し、林瓶を呼んだ。
聚霊峰の控えの間に入ると、謝臨平は茶を淹れていた。茶壺から立つ湯気が、冬の冷気の中で白くほどけていく。茶の香りはかすかで、部屋の炭火の乾いた匂いに混じっていた。
謝臨平は足音がしても顔を上げない。熱い茶を一杯、向かいの席へと差し出し、脇に置いてあった書類を一枚取り上げて机の上に置いた。
口調は気軽だった。日々の事務を伝えるような調子で。
「宗主が認可した。これからお前には三つ、新しい身分がつく」
林瓶は向かいに腰を下ろし、書類を受け取って目を落とした。鼓動が一瞬止まった。
変更一:外門弟子・林瓶、品質管理の功により、蔵経楼二階への出入りを許可する。各系功法典籍および歴代修行記録の閲覧を認める。――二階が開かれた。あの鉄の錠前越しに扉を見上げる日々が終わる。
変更二:内門弟子候補に擢とする。月例倍増。内門令牌を支給する。――もはや外門弟子ではない。内門令牌があれば、多くの場所を妨げなく通れる。腰に下げれば、行ける場所は外門の倍になる。
変更三:今後、宗門事務に関する発見があれば、直接雲霞峰に通報してよい。――直接、宗主に会える。誰かの伝言を待つ必要はない。
林瓶は書類をたたみ、袖に収めた。三つの褒賞はいずれも実利がある。蔵経楼の二階は、ずっと上がりたかった場所だ。内門候補という扱いは、宗門での立場が正式に一段上がったことを意味する。直接宗主に会えるという一文も、必要なときに余計な手間を省いてくれるはずだ。
だが、林瓶はまだ一言を待っていた。
謝臨平は茶碗を手に取り、一口すすった。すぐには置かない。茶碗の縁越しに林瓶を見る。その視線は、こちらの考えを見抜いているかのようだった。
やがて茶碗を置き、ひと言つけ加える。口調は軽い。ついでに思い出したような調子で。
「宗主が――もう一つ、お前に伝えろと」
「伝功長老方の件は、ここまでだ。お前はもう、それ以上調べるな」
林瓶の手が止まった。
「……なぜですか」
「お前が調べた件は片付いた。品質管理権は戻った。薬にも問題はない」
謝臨平の口調は変わらない。説明を要しない事実を述べているだけの声音だった。
「残りは――上の話だ」
それからもう一度、林瓶を見た。今度の声は先ほどより低い。伝言というより、警告に近かった。
「宗主は言っていた。お前に功績があることは忘れない。だが――踏み込むべきでない水がある。お前はもう、その先へ行くな」
林瓶はその場に座ったまま、何も言わなかった。袖の中の書類が腕の内側に触れている。折り目の角が、前腕の皮膚にかすかに食い込んだ。
三つの褒賞を手にした。だが最後の一言が、その重みをまとめて押し沈める。
林瓶は立ち上がり、一礼した。
「――承知しました」
――
聚霊峰を出ると、冬の風が顔を打った。乾いていて、冷たい。山道の両脇の木々はすでに葉を落とし、裸の枝を灰色の空へ伸ばしている。細い筆で紙に引いた線のようだった。
道には半ば溶けた残雪が薄く残り、踏むと湿り気を帯びた音がした。足跡も、うっすらと残る。
林瓶は道端に立ち止まり、さきほどの言葉を胸の内で反芻した。
宗主は、「もう調べるな」と言った。
「よくやった、続けて調べろ」ではない。
「よくやった。ここまでだ」だった。
林瓶は山道の端でしばらく立ち尽くした。風が襟元をはためかせる。手で襟を直し、弘武峰の方角を見上げた。冬の薄靄の向こうに、蔵経楼の輪郭がぼんやり浮かんでいる。
少なくとも、二階には上がれる。
それは林瓶自身のことだ。
歩き出す。さっきよりも、足取りはいくらか落ち着いていた。
――
林瓶が去って間もなく、聚霊峰の控えの間の扉が閉まった。
弘武峰から、一人の執事が訪ねてきていた。顔見知りではない。内務を担う、あの見慣れた顔ぶれの一人でもなかった。
その男は謝臨平の向かいに座り、茶碗を手にしている。だが茶にはほとんど口をつけておらず、もう冷めていた。
話は少ない。
要するに、近ごろ各峰の物資配分が頻繁になっていること。弘武峰としては、聚霊峰による予算審査で「適度に柔軟な」対応をしてほしいこと。用件はその二つだった。
謝臨平は黙って聞いていた。表情は変わらない。良いとも悪いとも言わない。自分の茶碗を取り上げて一口飲み、置いてから言った。
「各峰の予算は、聚霊峰として規則どおり審査します。弘武峰に特別な事情があるなら、書面で説明を添え、予算冊の後ろにつけてください」
弘武峰の執事はしばらく座っていたが、謝臨平にそれ以上話を続ける気がないと見ると、茶碗を置いて辞去した。
謝臨平は門口まで見送り、敷居の外に立ったまま、その背中を見送った。男は石段を下り、山道の角を曲がり、冬の冷たい風の中へ消えていく。
謝臨平は数息のあいだ動かずにいた。やがて踵を返して部屋に戻り、机の上の冷えきった茶を脇の水差しへ静かに注ぎ捨てた。
それから机の前に座り直す。
目の前には、一冊の開かれた予算冊があった。各峰の経費精算の帳簿ではない。別の一冊だ。表紙に題名はない。紙の古び具合は普通の内務帳簿と変わらないが、中身は違う。
そこには物資の出庫記録が、一筆ずつ書き込まれていた。精鉄、薬材、符紙の原料――出庫欄にはいずれも「外調」とある。だが、受取人欄は空白のままだ。筆跡ごとに担当者は違う。しかし時期はこの三、四ヶ月に集中していた。蒼雲宗が初めて訪れた時期と、ちょうど重なっている。
輔薬ではない。
宗外へ流れている物資だ。
謝臨平はそれらの出庫記録の日付を、蒼雲宗の訪問記録と並べて、長いこと見つめていた。
一枚ずつ見れば問題はない。精鉄はどの峰でも常備する物資だ。薬材も倉庫の常備在庫にすぎない。
だが、出庫の頻度はある時期から急に増えている。受取人は空白のまま。「外調」の理由にも備考が一切ない。
並べてみれば、輪郭が浮かび上がる。
この証拠は、数日前にはすでに彼の手元にあった。
それでも、上には報告していない。
謝臨平は椅子に深く座った。窓から射し込む冬の光が竹簾を透かし、机の上に幾筋もの平行な光を落としている。埃がその光の中をゆっくり漂う。
彼は予算冊を閉じ、引き出しを開けて中にしまい、腰から鍵を外して鍵をかけた。
動作はゆっくりしていた。
余計な音は立てない。
錠前の芯が、かちりと噛み合う。
謝臨平は鍵を腰に戻し、そのまま座って窓の外の灰色の空を見た。
しばらくしてから、引き出しの中からもう一冊の書類を取り出す。予算冊よりはるかに薄い。名簿らしい。
ある頁を開き、そこで視線を止めた。
頁には、一つの名前が記されている。――玄玉。
脇に数行の小字が添えられていた。
「前玄祈使。元正三十八年九月十五日入監。鎮獄峰後山、丙字暗室。」
最下行には、さらに古い筆跡がある。墨の色はすでに薄れていた。
「毎月探視――謝絶。」
彼の指は、その頁の端に数息のあいだとどまった。めくりもしない。閉じもしない。もともと、その頁がどこにあるかを知っていて、ただ確かめただけだった。
やがて名簿を閉じ、引き出しへ戻す。
そのまま、しばらく静かに座っていた。
窓の外では風の音が次第に強くなっている。今年最後の大雪が、もう近い。
そして一枚の白い短冊を取り出し、筆で一行を書きつけた。もっともありふれた字体で。落款はない。
「鎮獄峰後山の山道、入冬後に凍裂箇所が多数確認されたため、点検補修を要す。林瓶を班長とし、工期三日。」
その短冊を折りたたみ、明朝に回す内務通知の束の間へ差し込んだ。私印は押さない。聚霊峰の名義で出す書状に、彼個人の署名は不要だった。
そこまで済ませると、謝臨平は立ち上がり、窓を少しだけ押し開けた。冷たい風が吹き込み、机に残っていた茶の匂いを散らしていく。
彼はその場に立ったまま、遠い弘武峰の山影を見つめていた。表情はなかった。
――
夕方、林瓶が聚霊峰を出たころには、空はもう暗くなりかけていた。冬は日暮れが早い。申の刻を過ぎれば、陽はすでに尾根の向こうへ沈み、空の端に冷たい紫の光がわずかに残るばかりだった。
林瓶は少し遠回りをして、蔵経楼の門前を通った。
弘武峰の灯籠には、もう二つ灯が入っている。くぐもった黄色の光が窓から漏れていた。
林瓶は門の外でしばらく足を止めたが、中には入らない。扉の隙間から、二階へ続く階段の入口の木戸が見えた。――まだ鍵がかかっている。あの鉄の錠前が、扉の環に掛かったままだ。薄暗がりでは細部までは見えない。だが、あの輪郭なら目を閉じても見分けがつく。
長居はしなかった。
しばらく見つめ、それから背を向けて歩き出す。
だが宿舎へ戻る道すがら、林瓶の意識にはひとつのことだけが残っていた。宗主が認可した。数日もすれば、上がれる。あの錠前は、もうすぐ林瓶の前で開く。
宿舎に戻ると、灯りはつけなかった。外袍を脱いで戸口の脇に掛け、床の縁にしばらく座る。
窓の外では、また冷たい風が吹いた。窓枠がかすかに軋む。
林瓶は布団を胸まで引き上げ、目を閉じる。
あの扉が開くのを、待っている。
急がない。
だが、もうその先を考えている。
◇◇◇◇◇
第1巻 完
次巻へ続く




