第29話 変
二日後、林瓶は聚霊峰の控えの間の入口に立っていた。
この二週間で集めた情報を、林瓶は頭の中で何度も反芻していた。歩いているときも、食事の最中も、寝る前も。
間違いを恐れているからではない。問い詰められたとき、口にした一言一句にきちんと根拠を持たせるためだ。
検品の署名変更――謝臨平が見せてくれた登記簿には、はっきり記されていた。丹霞峰の劉執事から何章へ。時期も月単位で特定できている。
輔薬の仕入れ先に新しい業者が加わった件も、署名者は同じ何章だった。時期も重なっている。
輔薬のすり替えは、自分の霊目術で実際に確かめた。これは最も確かな証拠だ。
宋明遠の書物を使った運び込みには、直接の証拠こそない。だが、間接的な手がかりはすべて同じ先を指していた。
最後の一点を「証拠」として出すつもりはない。
ただ、背景として謝臨平には伝えておく必要がある。
林瓶は深く息を吸った。胸の内で論理をもう一度だけ並べ直し、それから木戸を叩いた。
謝臨平は茶を飲んでいた。冬場だけに、茶はすぐ冷める。
手にした杯からは、もうほとんど湯気が立っていなかった。それでも、まだ持ったままだ。杯の表面には細かな水滴がびっしり浮いている。長いこと手にしたまま、何かを考え込んでいたのだろう。
叩く音に気づき、謝臨平が顔を上げる。林瓶だとわかると、静かに茶杯を置いた。
林瓶はその前に立った。挨拶も前置きもない。
調べたことを、そのまま話し始める。
声は高くない。調子も終始一定だった。まるで、書き上げた報告書を読み上げているようだ。
最初に輔薬の異変に気づいたこと。登記簿を調べ、何章の名を見つけたこと。唐執事の物置で実際に確かめたこと。
一つひとつに根拠があり、すべてに出どころがあった。
話を聞き終えても、謝臨平はすぐには口を開かなかった。
冷めた茶の杯を手に取り、また置く。手に取ったのは癖のようなものだろう。置いたのは、茶がもうすっかり冷えきっていたからだ。
その指先が、杯の縁にほんの一呼吸だけとどまった。
やがて謝臨平は立ち上がり、机の上の上着を取って羽織ると、一言だけ告げた。
「行こう。宗主に会いに行く」
謝臨平は林瓶を静室には連れていかなかった。各峰を結ぶ連絡通路を通り、そのまま雲霞峰の書斎へ向かう。
冬の雲霞峰は、前に来たときよりさらに静かだった。
山道の落ち葉は風に吹き寄せられ、道の端に溜まっている。石段にはうっすらと埃が積もっていた。
書斎の木戸は半ば開いており、謝臨平が手をかけて押し開ける。林瓶はその後に続いた。
部屋は広くない。三方を囲む書棚には、巻物や書冊が積み重ねられていた。紙の端が黄ばんでいるものもあれば、角が反っているものもある。長いあいだ手をつけられていないのだとわかる。
書案の後ろの壁には、一幅の掛け軸が掛かっていた。記されているのは、たった一文字――「守」。
墨の色は大半が褪せ、端は毛羽立っている。だが筆勢はなお残っていた。
気まぐれに書いたものではない。ひと目でそう知れた。
林瓶の視線が、その文字の上で一瞬止まる。
守る。――何を。
答えは出ないまま、視線を外した。
李還真は書案の向こうに座っていた。前には例の銅盤――あの卦象式盤が置かれている。
だが今日は、その上に手を置いていなかった。両手の指を組み、机の上に載せたまま座っている。まるで、こちらが来るのを知っていたかのように。
謝臨平が一礼し、脇へ下がる。
林瓶は書案の前に立ち、口を開いた。
「自分はこう考えます」とは言わない。
「疑っています」とも言わない。
ただ、事実だけを述べる。
「三ヶ月前、化霊丹の検品署名が丹霞峰の劉執事から何章に変わりました――伝功長老公認の者です。同じ時期に、輔薬の仕入れルートにも新たな業者が追加されています。署名者は同じく何章です」
「先週の薬の納入時、霊目術で玄女峰の物置に残っていた輔薬を調べました。色が濃く、霊光も均一ではありません。正常な輔薬の霊光とは異なっていました。すり替えられています」
「宋明遠は玄女峰に上がるたび書物を持ち込み、出るときには別の巻物に替えています。推測ですが――書物の間に替えの薬包を挟んで運び込み、執事が背を向けた隙にすり替え、交換した正規の薬を同じように書物へ挟んで持ち出しているものと思われます」
言い終える。
書斎に、しばし沈黙が落ちた。
李還真はすぐには答えなかった。
組んだ指はそのまま、机の上に置かれている。視線は机の一点に落とされたままだ。林瓶が口にした内容を、一つずつ頭の中で確かめているようでもあった。
しばらくして、ようやく口を開く。
声は大きくない。穏やかな口調だ。だが、その一言一言には、自分でさえ口にすべきか確かめるような重みがあった。
「わかった」
たった三文字。
けれど、前の「わかった」とは違う。
前回はそう言ったきり、何もしなかった。
だが今日は立ち上がった。書棚の前へ歩み寄り、一巻の文書を取り出して案の上に広げる。そして筆を取ると、さらりと一筆書き加えた。
筆先が紙を走る音が、静まり返った書斎にひときわ鮮やかに響く。
李還真はその文書を謝臨平に渡した。
「品控権は内務に戻す。すべての薬材の出入りは、お前の検品署名を通せ」
謝臨平は文書を受け取り、目を通すと袖に収めた。
林瓶は傍らで、その一部始終を見ていた。
宗主が文書に一筆加えるのも。謝臨平がそれを袖に収めるのも。すべてが、日々の購買伝票に署名でもするように、あまりに淡々と進んでいく。
だが林瓶にはわかっていた。伝功長老公認の者が、化霊丹の流れに三ヶ月も手を入れていたのだ。
そして今日、その道が断たれた。
雲霞峰を出るころには、外では風が吹き始めていた。
冷たい風が襟元から入り込み、首筋を撫でる。林瓶は襟を寄せ、石段を下りていった。
両脇の枯れ草が、風に倒れてはまた起き上がる。
歩みは速くない。いつものように急ぐのではなく、一歩ずつ踏みしめるように進んでいた。
さっき書斎で口にした言葉が、頭の中でゆっくり沈んでいく。
林瓶は、自分から前へ出ることに慣れていない。
それでも先ほど、宗主の前に立ち、二週間かけて集めた手がかりを一つひとつ並べた。誰かの口を借りることもなく、回り道もせずに。
胸の内で、何かが静かに定まっていく。
これまでは、人の言葉を運ぶだけだった。
だが今日は違う。
もう俺は、ただの伝言役じゃない。
俺は――捜査役だ。
翌日、林瓶は丹霞峰へ常備薬を受け取りに行った。
冬の丹霞峰は、いつもよりひっそりしている。
薬草を干す竹ざるの多くは片づけられ、残ったいくつかの空の架台だけが風に揺れていた。空気に残る乾いた薬草の匂いも薄く、冷気に押し流されている。
蘇晴が丹房の入口で林瓶を見つけた。左右を見回し、近くに誰もいないのを確かめてから、声を潜める。
「師匠がね、『よくやった』って伝えてくれって」
蘇晴は笑っていた。
その笑みに浮かぶのは、少し誇らしげな色だ。自分の手柄ではないのに、林瓶のことを喜んでいるのが伝わってくる。
木戸の枠にもたれた袖口には、まだ炭の粉がついていた。手には使いかけの薬杵を握っている。
「あの人、普段はそんなこと滅多に言わないんだよ」
蘇晴はそう付け加えた。
「『よくやった』なんて言わせたんだから、大したもんだよ」
林瓶はうなずき、薬袋を受け取って腰に下げた。
何か返そうとして、結局やめる。蘇晴も気にした様子はなく、そのまま丹房の中へ戻りかけた。
二歩進んだところで、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ――これから薬を取りに来るときは、並ばなくていいから」
林瓶は振り返らなかった。
それでも、口元がほんのわずかに動いた。
冬の日差しは低い。
それでも肌に当たると、かすかなぬくもりを感じる。
林瓶は歩きながら、ここまでの流れを頭の中で整理していた。
輔薬の異変に気づいたこと。登記簿を調べて何章の名に行き当たったこと。霊目術ですり替えを確かめたこと。そして昨日、宗主が検品権を取り戻したこと。
すべてが一本につながっている。
伝功長老の側も、必ず何らかの動きを見せるはずだ。
だが、それを考えるのは今日ではない。
そう思いながら丹炉房を出ると、院の門口で誰かとぶつかりかけた。
林瓶は一歩引いて顔を上げる。
秦岳だった。
膨らんだ麻袋を背負い、うつむいたまま門をくぐろうとしていたらしい。やはり前を見ていない。
二人は石段の上で同時に足を止めた。
相手が林瓶だとわかると、秦岳の目が一瞬揺れる。ここで会うとは思っていなかったのだろう。
肩の麻袋を背負い直し、先に口を開いた。
「……お前もか」
林瓶は秦岳の背負う麻袋をちらりと見た。口は縛られているが、隙間から乾いた薬草の根が何本かのぞいている。
「それは?」
「蘇師妹が薬材の何種類か足りないって言っててな。もう年内は店じまいするところばっかりだから、手伝いに行ってきたんだ」
秦岳はできるだけ気軽な口調を装っていた。
だが、耳の先が赤くなっているのまでは隠しきれていない。
「忙しそうだったから」
林瓶は丹炉房のほうを一瞥し、もう一度、秦岳の背の大きな麻袋を見た。
「何種類か足りない」にしては、蘇晴が半月は使えそうな量だ。
けれど、林瓶はそれを指摘しなかった。
ただ一つ、うなずくだけ。
「早く届けてやれ。外は寒い」
秦岳は短く返事をし、林瓶の脇をすり抜けて門の中へ入っていく。
林瓶が数歩進むと、背後から秦岳の声が聞こえた。少し潜めた声だ。
「蘇師妹? 薬材、どこに置けばいい?」
林瓶は振り返らない。
ただ、その足取りは少しだけ軽くなっていた。




