第31話 隠
宗主の認可を得てから二日後。林瓶は手の空いている午後を選び、弘武峰へ向かった。
冬の山道は雪が踏み固められ、歩くたびにぎしぎしと鳴る。蔵経楼の木戸は半ば開いていた。入り口では当直の内門弟子が一人、首をすくめて手をこすっている。人の気配に気づくと、重たげにまぶたを持ち上げた。
林瓶は門前で立ち止まり、腰の内門候補令牌を示した。
「今日は二階を見て回りたいのですが」
当直の弟子は令牌に目を落とし、とくに止めはしなかった。だが、その視線は林瓶の全身をひと巡りし、露骨な侮りを含んでいた。
「二階は中級から上級の功法ばかりだぞ。お前、一階のものすら身についてないだろ。上がって何が分かるんだ?」
林瓶は軽く笑った。
「先輩方の修行記録や雑記でも見たほうが、一階より面白いかと思いまして」
当直の弟子は肩をすくめ、林瓶と一緒に中へ入る。二階の鍵を開けると、顎で中を示した。その顔には、どうせ見ても無駄だ、と書いてある。
林瓶は足を止めず、そのまま階段を上がった。
だが分かっている。背中に向けられたその視線が、数息のあいだ離れなかったことを。
二日前に出された夜間通行禁止の令は、今も弘武峰の山麓に立てられたままだ。この時間に蔵経楼を訪れたことを、伝功長老側が知らないはずがない。
――
二階は、林瓶の想像よりはるかに広かった。
頭上には高い梁が走り、冬の日差しが高窓から斜めに差し込んでいる。書棚の上に、長い光と影の筋が落ちていた。無数の細かな塵がその光の中でゆっくり浮かび、また沈む。かき混ぜられた金粉のようだった。
空気には、古びた紙の乾いた匂いが満ちている。一階よりも濃い。木を食う虫のかすかな酸味と、長く置かれた墨の独特の渋みも混ざっていた。
書棚は列をなして並び、一階よりずっと詰まっている。五行ごとの分類ではなく、年代ごとに積み重ねられていた。背表紙には色あせた札が貼られ、「甲午年」「丁酉年」といった文字が見える。何の札もないものも多い。ただ古い本がぎっしり押し込まれ、背の字は擦り切れて判別もつかない。
これほど大量の本を、林瓶は見たことがなかった。
二階にはほとんど人がいない。冬の寒さのせいか、ほかにいるのは入り口近くで居眠りしている弟子が一人だけだ。案内役もいなければ、作業の割り振りもない。
林瓶は自分でいちばん奥へ向かった。
書棚のさらに奥、隅のほうに、分類もされず適当に束ねられた書物がいくつか積まれている。紙の端は焼けたように脆く、触れるだけで欠け落ちそうだった。
その山の前にしゃがみ込み、林瓶はいちばん上の数冊の背を指先でそっとなぞる。表紙は汚れきっていて、色も分からない。書名すら読めないものもあった。
一冊ずつ、めくっていく。
――
大半は役に立たなかった。
古い帳簿。某年某月の薬材の出入りが走り書きされ、水濡れの跡で文字が滲み、頁の一部は塊のようになっている。
旅の記録。途中で途切れ、その先は白紙ばかり。
ほかには誰かの修行ノートらしきもの。字は歪み、粗雑な経絡図が描かれているが、初心者が思いつきで書き留めた程度にしか見えない。
林瓶は小半時ほど頁を繰り続けた。膝が少し痺れてくる。
そのとき、指先に感触の違うものが触れた。
滑らかな表紙ではない。紙質は粗く、綴じも緩い。個人が間に合わせで作ったノートのようだった。山の中から引き抜いてみると、表紙には何も書かれていない。紙は古く黄ばみ、縁はひどく擦れて、角は毛羽立っていた。手に取っただけで質の悪さが分かる。宗門で普段使われている紙より、ずっと粗い。
林瓶は最初の頁を開いた。
簡体字だった。
手が止まる。
この世界に来てから、初めて目にする簡体字だった。横に平たく、構造の簡潔なその字形は、前世で毎日のように使っていた文字とまったく同じだ。
林瓶は数行の文字を、しばらく黙って見つめた。
胸の奥に、妙な感情が込み上げる。
まるで別の世界から届いた伝言のようだった。何百年もの時を隔てて、誰かが自分と同じ書き癖で、気まぐれに一行を書き残している。
さらに数頁めくる。筆跡は荒く、個人の日記のようだ。途中で書き消した文もある。段落ごと塗り潰された箇所もある。断片的な数行が、かろうじて読み取れた。
「被云霞捡到后、毎日 no freedom(雲霞に拾われてから、毎日自由がない)」
「修行、不care(修行、気にしない)」
林瓶は眉をひそめ、さらに頁をめくった。
ひとつだけ、妙にはっきり書かれた文がある。筆圧が強い。少し腹を立てているようにも見えた。
「我写简体字,经常被嘲笑。回字有四种写法,你知道么?还问我当真识字?——老子当然识字,识的比你们多十倍。我就多写点English,你们能understand吗?」(簡体字を書くと笑われる。「回」という字に四つの書き方があるって、お前ら知ってるのか? 文字が読めるのかと聞いてくる——当たり前だ。読めるどころか、お前らの十倍は知ってる。だから英語も多めに書いてやる。お前らに理解できるか?)
そこまで読んで、林瓶は思わず心の中で言葉を継いだ。
本を盗むは盗みにあらず。
そして、自分の手にある、まさに雑書の山から引き抜いたこの表紙のない本を見下ろし、動きが一瞬止まる。心の中でひとつ咳払いし、すぐに言い直した。
これは盗みじゃない。借りるだけだ。
声には出さない。
簡体字そのものが、この世界では異質だ。まして、見覚えはあっても、この世界の誰も読めないアルファベットまで混じっている。
林瓶は表情を変えぬまま、ゆっくり本を閉じ、元の場所へ戻そうとした。
そのとき、別の頁がふっと開いた。
そこに書かれていた文字は、内容以前に、その四文字だけで林瓶の目を引きつけた。
葵花神典。
林瓶の視線は、その四文字の上で二息ほど止まった。瞬きをひとつ打ち、もう一度見る。
見間違いではない。葵花神典だ。
ある有名な武侠小説に出てくる宦官功法の名と、あまりに似すぎている。
頭に浮かんだのは、絶世の神功を見つけた、などという感慨ではなかった。
ただ、呆れ半分の内心のツッコミだけだ。
なんでこんな世界にまで来てるんだよ。
転生者の先輩、お前は舞台を間違えてないか。
表情は抑えたまま、さらに読み進める。
題の下には、小さな字でさらに一行添えられていた。
「葵花神典・蜀葵篇」
数頁めくってみると、内容はおおむね揃っているらしい。あの転生者の先輩は、入門と概要を書き残していた。字は走り書きで、構成も雑だ。だが、必要なことはひと通り書かれている。冒頭の動作と呼吸法の記述も、それらしく見えた。
林瓶は本を閉じ、周囲を確かめる。
階段口の弟子は、まだうとうとしている。こちらに気づく様子はない。
もう一度、葵花神典の冒頭をざっと読み返す。要点をいくつか頭に刻み込み、それから本を閉じた。
試しはしない。
試す必要もなかった。
これが何か、林瓶には分かっている。名前が、あの有名な武侠小説の宦官功法と一文字違いなのだ。神功を修めたければ、まず自宮せよ。大穴どころではない、露骨な罠である。
こんな場所に放り込まれ、誰にも見向きもされないのも当然だった。もっとも、この世界の人間には簡体字が読めないからでもある。
だが同時に、この本に価値があることも分かっていた。
内容は揃っている。本物の転生者が残したものだ。
修練するつもりはない。
まずは手元に置く方法を考え、確保したうえで、じっくり調べる。何か隠された手がかりがあるかもしれない。
林瓶は心の中で、もう一度「葵花神典」の四文字を反芻した。
今ではない。だが、いつか必ず役に立つ。
さらに本文の末尾までめくり、そこで内容が途切れていることを確かめる。本を閉じかけた、そのとき。
最終行の末尾に、小さな四文字が目に入った。
「未完待续」
林瓶はその四文字をしばらく見つめた。
可笑しさと、やりきれなさが半々にこみ上げる。
転生者の先輩よ。
功法を書き残すのに、どうしてネット小説の連載みたいな真似をするんだ。
さらにその下には、もっと小さな字で、書き足したようなメモがあった。
「更多故事草色篇 continue(もっとストーリーが欲しいなら草色篇へ)」
林瓶はその篇名を頭に刻みつけた。
今すぐ探すものではない。さっき読み終えたこの『苔痕録』ですら、まだ整理しきれていない。だが、少なくとももう一冊あることは分かった。
林瓶はその表紙のない本を、再び雑書の山の奥深くへ押し戻した。さらに二度ほど位置を直し、外から見ても分からないことを確かめる。
持ち出しはしなかった。
だが、場所は覚えた。
いちばん奥の書棚の裏手の隅。左から三つ目の積み重ね。上から十数冊目あたり。
紙は粗い。表紙はない。厚さは親指一本分ほど。
特徴も、すべて頭に入れた。
それから立ち上がり、膝の埃を払って一階へ下りる。
もちろん、手ぶらでは出ない。
一階の貸出台で、表紙のきれいな本を二冊選んだ。『履霜雑録』と『江南草木志』だ。
当直の弟子は本を受け取り、表紙を見て、たしかに雑書であることを確認する。そうして貸出欄に林瓶の番号を書き込んだ。
林瓶は、その手つきに気づいていた。
見られている。
何も言わず、本を脇に抱える。
数日置いてから、また借りに来よう。すぐ読み終えたように見せるのは不自然だ。
――
林瓶は二冊の本を抱え、蔵経楼を出た。
冬の空はもう暗くなりかけている。弘武峰の灯籠に二つ火が入り、くすんだ黄色の光が夕闇の中にぼんやりとあたたかな輪を広げていた。
石段を下りながら、林瓶は蔵経楼二階の配置をもう一度頭の中でなぞる。
とにかく、見つけた。
次に来るときは、古い本の表紙を持ってきて、すり替える。
――
その日の夕方。
当直の弟子は交代を終えると、弘武峰の後殿へ向かった。
伝功長老は一巻の巻宗に目を通していた。報告を聞き終えても、顔すら上げない。
「――雑書が二冊?」
「はい。一冊が『履霜雑録』、もう一冊が『江南草木志』です」
伝功長老は何も言わず、巻宗の頁を一枚めくった。
「次に来たら、二階から何を持ち出したか確かめろ。功法なら私に知らせろ。雑書なら――構わん」
「承知しました」
当直の弟子が退出すると、伝功長老は巻宗を閉じ、背もたれに身を預けてしばらく考え込んだ。
二階か……。
宗主の認可文書がある以上、たしかに上がることはできる。だが、霊目術すら通じておらず、ろくに功法も修めたことのない外門弟子が、あそこで何を掘り出せるというのか。
やがて彼は再び巻宗を開き、そのことはもう考えなかった。
玄霜の写真、見たい?




