第26話 筋
あの日の午後。玄霜が自分を見上げた、あの一瞬が、林瓶の脳裏から離れなかった。この二日間、片時も。
さらりと髪が流れ落ちた、あの一瞬。陽光に照らされた肌は、玉のように白かった。そして「睡裡消魂無說処」と繰り返した、あの低い声。あれは林瓶に答えているというより、自分自身に言い聞かせるような独り言だった。
それに加えて、唐執事が老松の下で口にした、あの言葉。
「あの子は昔、学問を修めたことがありましてね。家で家庭教師を付けていたのですよ。詩を好んで、よく一人で口ずさんでいたものです――大したことではありませんが」
その言葉を、林瓶は何度も反芻した。表向きは、何気ない一言にすぎない。だが、その裏には釘があった。深読みするな――そう言外に告げている。
だが、問題はそこではない。
林瓶は確かに、玄霜が以前とは変わっていると感じていた。詩を詠むかどうか、そんな話ではない。彼女が顔を上げ、林瓶をまっすぐ見据えたその瞳に、はっきりとした「認識」の光が宿っていたからだ。
雨の東屋で見せたあの目は、空ろで、何も映していなかった。だが、あの日の午後は違った。
彼女は、林瓶という存在を認識していた。
――
二日後の早朝。林瓶は食堂で粥を一杯すすり、静かに椀を置いた。そして腹を決めた。蘇晴に探りを入れることもしない。蔵経楼の雑書の山を漁ることもしない。
林瓶はまっすぐ、謝臨平のもとへ向かった。
もう、遠回しに探る必要はなかった。
――
聚霊峰の控えの間。謝臨平は古い帳簿をめくっていた。冬の陽光が窓から差し込み、机の上に積もったかすかな埃を照らしている。
足音に気づいて顔を上げると、林瓶が立っていた。
林瓶は挨拶も前置きもなく、単刀直入に切り出した。
「謝長老。化霊丹の薬材の出所と、品質管理の記録を拝見させてください」
謝臨平の視線が、一瞬だけ林瓶の顔に止まった。
だが、何も問い返さない。
引き出しを開け、幾度もめくられてきたのだろう一冊の登記簿を取り出す。それを机の上に置き、林瓶の前へ静かに押し出した。
その無言の仕草は、どんな言葉よりも重かった。
林瓶も黙って頷き、窓際の椅子に腰を下ろして、登記簿を開いた。
林瓶は黙々と頁をめくった。気づけば半日近くが過ぎていた。
登記簿は、想像以上に分厚かった。表紙は擦り切れて毛羽立ち、角は丸まり、紙は飴色に変わっている。記された文字には新旧が入り交じっていた。
数年前までさかのぼる古い記録は、整然としていて、力のある筆致だった。一画一画が丁寧に書かれている。だが、頁を追うにつれて筆跡は崩れ、署名する者の名も入れ替わっていく。折り目や墨の染みが随所に残り、この簿冊が何度も開かれ、繰り返し参照されてきたことを物語っていた。
化霊丹の薬材の出所は、細かく記されていた。太乙宗直営の薬田。場所は丹霞峰の北斜面。栽培と収穫は、丹器長老の門下が担っている。
主薬の検品署名者は、当初から一貫して丹霞峰の老執事、劉翔という男だった。化霊丹の精錬が始まったその日から、一度も交代していない。どのロットにも彼の署名と日付があり、筆跡も安定していて、途切れは見当たらなかった。
だが、直近三ヶ月の記録だけは様子が違っていた。
ある頁をめくったところで、林瓶の指が止まる。三ヶ月ほど前――ちょうど宋明遠が玄女峰へ通い始めた時期を境に、化霊丹の検品署名が「劉翔」から「何章」へ変わっていたのだ。筆跡は新しく、墨の色もどこか浅い。まるで、つい最近書き込まれたかのようだった。
何章。
林瓶には聞き覚えのない名だ。だが、記憶の底から、ある言葉が浮かび上がる。謝臨平が以前、何気なく口にしていた言葉だ。
「伝功長老の配下で、実務をこなせる者はそう多くない。何章は、その数少ない一人だ」
林瓶はその名を記憶に刻み、さらに頁をめくった。
数頁先で、二つ目の違和感に行き当たる。
輔薬の検品署名は変わらず、劉翔の名のままだ。だが、輔薬の仕入れ記録に目を走らせた瞬間、林瓶の視線はそこに釘づけになった。三ヶ月前から、従来の薬田に加えて、新たな供給元が追加されている。
その供給元の名には見覚えがなかった。だが、受領の署名欄には、やはり「何章」の文字が並んでいた。
主薬ではない。
輔薬だ。
――
林瓶は背もたれに身を預け、膝の上に広げた登記簿の数行を、じっと見つめた。窓の外で風が鳴り、隙間からは冬の乾いた冷気が忍び込んでくる。
頭の中で、情報を整理していく。
主薬は、宗主と顧青煙の厳重な監督下に置かれている。薬田から精錬炉、成品の入庫に至るまで、あらゆる工程で署名と検品が義務づけられ、そのたびに記録が残されている。管理記録に不自然な空白はなく、署名の間隔も一定だ。ここに手を入れるのは、至難だろう。
だが、輔薬は違う。
輔薬の記録は、主薬に比べればずいぶん粗い。記されているのは、調達先と数量、入庫日だけ。ロットごとの検品結果もなければ、品質管理の識別番号もない。登記簿の中でも、輔薬の頁だけは明らかに情報が薄かった。余白ばかりが目につき、細部は省かれている。
もし輔薬に異物が混ぜられていたとしても――この簿冊だけでは見抜けない。
林瓶は登記簿を膝に置いたまま、窓の外に広がる灰色の空を見上げた。出来事を時系列に並べ直す。
三ヶ月前。
それは、宋明遠が玄女峰へ通い始めた時期と、寸分違わず重なっている。
点と点が、つながった。
林瓶は登記簿を閉じ、立ち上がった。謝臨平の机まで歩み寄り、静かに簿冊を返す。
「拝見しました」
「そうか」
謝臨平は顔も上げずに答えた。
「ありがとうございました、長老」
謝臨平は短く「うむ」と返しただけで、やはり何も聞かなかった。
林瓶は背を向け、部屋を出た。
出口へ向かう途中、ふと、前世の職場で監査をしていた頃のほうが、まだ少しましだったのではないか、という考えがよぎる。だが、それも一瞬だった。泡のように浮かんでは、すぐ消えた。
――
控えの間は、再び静寂に包まれた。廊下に響いていた足音は次第に遠ざかり、やがて完全に消える。
謝臨平は机に向かったまま、しばらく動かなかった。
やがて先ほどの登記簿を手に取り、林瓶が目を留めた頁を開く。そして、無言のまま見つめ続けた。
その顔から、いつもの穏やかで慈悲深い年長者の表情が、一つずつ剥がれ落ちていく。代わりに浮かび上がったのは、疲労でも安堵でもない――ついさっきまで便宜を図っていた相手に向けるものとは思えない、異質な何かだった。
謝臨平はその数行を、長いこと見つめていた。窓の外を吹く風向きが変わるほどの、長い時間。
やがて登記簿を閉じ、引き出しへ収める。
その動作は、ぞっとするほど軽やかだった。
――
林瓶が聚霊峰を後にする頃には、冬の日はすでに傾いていた。申の刻を少し過ぎただけだというのに、太陽はもう山の端へ沈み、空の果てに冷たい紫の残光を残すばかりだった。
林瓶はすぐには寮へ戻らず、道端に立つ古びた槐の木の下で足を止めた。両手を袖の中に収め、今日得た情報を頭の中でつなぎ合わせていく。
一つ。品質管理の責任者が交代していたこと。化霊丹の検品署名が、丹霞峰の老執事・劉翔から、伝功長老門下の何章へ移っていた。
二つ。輔薬に新たな供給元が加わっていたこと。その受領署名も、やはり何章だった。
三つ。その時期。三ヶ月前という、宋明遠が玄女峰へ通い始めた時期と一致していること。
三つの断片がそろったとき、それらは一つの方向を指していた。
そこで、林瓶はもう一つの疑問にぶつかる。
宋明遠は玄女峰から戻るたび、いつも上機嫌だった。唐執事の話では、彼は一度たりとも玄霜と二人きりにはなっていない。常に監視の目があったはずだ。ならば、いったい何に満足していたのか。
もし、彼が玄女峰へ通う目的が「玄霜の様子をうかがう」ことではなく、その機会を利用して玄女峰の倉庫に何かを仕込むことだったとしたら。
もし、彼の狙いが玄霜そのものではなく、彼女が服用する薬だったとしたら。
林瓶は古い槐の木の下で、しばらく立ち尽くしていた。寒風が頬を打ち、帳簿をめくっている間にかいたわずかな汗をさらっていく。
襟を立て、思考に抜けがないか確かめるように、もう一度だけ論理を組み直す。
次の配薬のとき、倉庫にある輔薬を確かめる。何が潜んでいるのか、自分の目で直接。
林瓶は踵を返し、寮へ向かって歩き出した。途中、二人の外門弟子に声をかけられたが、軽く頷いただけで足は止めない。
その意識は、すでに輔薬の真相へ向いていた。




