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第25話 兆し


あの取り調べから、半月が過ぎた。


冬の寒さは、晩秋のころよりさらに厳しさを増している。山道の両脇に並ぶ銀杏はすっかり葉を落とし、むき出しの枝が灰色の空の下で複雑に絡み合っていた。石段にはうっすら霜が降り、足元は滑りやすい。靴底が霜を踏むたび、かすかな音が鳴る。


林瓶は薪の束を背負い、玄女峰へ続く山道を登っていた。口からこぼれる白い息が、冷えた空気の中で霧のように広がる。


鎮獄峰での取り調べ以来、十日あまり、静かな日々が続いていた。林瓶を訪ねる者もいなければ、行く手を遮る者もいない。宋明遠でさえ、外門でその姿を見ることは、ほとんどなくなっていた。食堂では「最近、宋師兄は忙しいらしい」と噂されているが、何をしているのか知る者はいない。


だが、林瓶は少しも気を緩めていなかった。静かなことが、そのまま安全を意味するわけではない。警戒心は胸の内に沈めたまま、歩くときは余計なものを見ず、話すときは余計なことを口にしない。言われた仕事を、ただ機械のようにこなしていた。


玄女峰のあの花も、まだ見に行けていない。薬材の配送の日はまだ先で、許可なく向かうことはできなかった。


けれど今日、玄女峰の山裾にある物置へ、薪を一束届ける仕事が回ってきた。薬材ではないから、規則上は問題ないはずだった。外門の弟子が薪を運ぶ。それだけなら、誰に咎められる筋合いもないはずだった。


林瓶は背中の薪をぐっと持ち上げ、足早に山道を進んだ。


――


山道を半ばほど登ったところで、最初の巡回に出くわした。


鎮獄峰の弟子が二人、厚手の綿入れの袍をまとって上から下りてくる。腰には制式の短刀。二人は林瓶をひと目見て、その腰に下がる配送令牌へ視線を走らせたが、呼び止めはしなかった。そのまますれ違っていく。


だが、その冷ややかな目つきからは、言葉のない圧が、肌に刺さるようだった。


――今の玄女峰は取り締まりが厳しい。余計な真似はするな。用が済んだら、さっさと立ち去れ。


さらに登ると、曲がり角の軒下に当直の弟子が一人立っていた。その弟子も林瓶と令牌を確認したが、何も訊かずに視線を外した。


遠くで巡回の足音が響いていた。規則正しいその響きは、止まることのない振り子のようだった。


林瓶は、この道の様子を頭の中でもう一度なぞった。警備は解かれるどころか、先週よりさらに厳しくなっている。自分がここを通れたのは、配送令牌がまだ有効だからだ。あるいは、唐执事があらかじめ手を回していたのかもしれない。


林瓶は薪を山裾の物置へ運び込み、丁寧に積み上げた。さあ下りようと振り返った、そのときだった。唐执事が殿の門から姿を現した。


彼女はすぐには口を開かなかった。積み上げられた薪を見て、それから林瓶へ視線を移す。何かを測るような沈黙が流れた。ひと呼吸おいてから、唐执事が静かに言った。


「届けたか。」


「届けました。」


唐执事はうなずいた。余計なことは言わない。そのまま殿の中へ戻りかけ、入口でふと足を止めた。そして振り返り、林瓶を見る。


その目には、うまく言葉にできない含みがあった。――せっかく来たのだから。そんなふうに見えた。


「彼女は今日、裏庭にいる。あっちから行け。前殿を回らなくていい。」


林瓶は一瞬、息をのんだ。唐执事が自ら取り計らって、玄霜に会わせようとしたのは初めてだった。


――


林瓶は殿の脇を抜け、裏庭へ回った。


冬の庭は、前殿よりずっと静かだった。老いた銀杏が一本、庭の半ばを占めている。枝は葉を落とし、うっすら白い霜をまとっていた。枯れ葉はきれいに掃き寄せられ、壁際に積まれている。その下からは湿った土がのぞいていた。


空気には冷えた匂いが混じっている。枯れた草木と凍った土。そこに、かすかな白檀の香り。


そのとき、声が聞こえた。


とてもかすかで、途切れがちの声だ。誰かが低く何かを唱えている。人に話しかけているのではない。独り言のようだった。声は渡り廊下の向こうから流れてきて、冬の冷えた空気の中で、妙にはっきり響いていた。


林瓶が二、三歩近づくと、足元の掃き残しの枯れ葉を踏み、ぱり、と乾いた音がした。


渡り廊下の向こうで、声がぴたりと止む。


林瓶は息をひそめた。数息のあと、また声が聞こえ始めた。今度は先ほどより少し抑え気味で、ためらいながらも、それでも続けることを選んだような声音だった。


今度は、詞の文句がはっきり耳に入る。


「夢入江南煙水路……行尽江南、不与離人遇……」(江南の煙る水の道を夢に見る……江南を巡り尽くしても、想う人には逢えない……)


林瓶は一瞬、息をのんだ。


中国の古い詞だ。だが、その思いは胸の内でひらめいただけで、すぐに消えた。この世界に晏幾道がいるはずがない。ただの偶然だろう。深くは考えず、さらに一歩進む。


渡り廊下の下に置かれた木の椅子に、一人の人影が座っていた。


白い厚手の綿入れの袍。膝には薄い毛布。視線を自分の指先に落とし、低い声で詞を唱えている。やはり、誰かに話しているのではなく独り言だった。髪は垂れて広がり、顔の大半を隠している。見えるのは、かすかな顎の線だけ。


林瓶は渡り廊下の角に立ち、数歩の距離を空けた。淡い日差しが彼女の髪に落ち、ほのかな光を帯びさせている。


ふと林瓶の視線がそれた。渡り廊下の手すりに落ちる。


そこに、小さな植木鉢が置かれていた。粗い陶器の鉢だ。中には名も知らぬ小さな花が植わっている。葉は細く、冬らしい暗い緑をしていた。その先にひとつ、小さな蕾。薄紅色で、かたく閉じている。まだ開いていない。


鉢の縁には細かなひびが一本入っていた。凍って割れたあと、直されたようにも見える。鉢の下には、よく洗われた小さな古布が敷かれていた。


林瓶はその鉢に一瞬だけ目を留め、再び玄霜へ視線を戻した。


「不与……不与……」


玄霜は眉を寄せ、同じところを二度繰り返した。先が出てこないらしい。


林瓶は渡り廊下の角に立ったまま、少し迷った。声をかけていいものか分からない。本来、これは自分の出る幕ではない。薪を届けに来ただけだ。このまま引き返せばいい。聞かなかったことにしてしまえばいい。


けれど、口が先に開いていた。


大きくもなく、低くも高くもない声で、彼女が詰まったその先を引き取る。


「不与離人遇。」(想う人には逢えない。)


玄霜が、はっと顔を上げた。


乱れた髪が何筋か、頬の脇から滑り落ちる。まるで薄い紗が一枚、そっと剝がれたようだった。その瞬間、軒の隙間から差し込んだ薄日が斜めに落ち、あらわになった肌を照らした。


林瓶は息を止めた。


見惚れたからではない。これまでにも、その輪郭は見たことがある。横顔も、窓の隙間越しの半分の顔も。そのたび、確かに美しいと思った。だが、それはどこか安全な美しさだった。距離があり、雨の幕があり、窓の隙間があり、自分は見えているつもりでいられた。


けれど、この瞬間は違った。


光が彼女の五官を、ひとつずつ浮かび上がらせていく。派手な明るさではない。肌の質感そのものが、光の下に現れたのだ。長く手の中で温められた上質な脂玉のように、内からかすかなぬくもりを含んだ白。雪の白ではない。雪は冷たく、死んでいる。これは玉の白だ。生きていて、温かい。


光は彼女の肌の上に乗るのではなく、その中へ沈み込み、溶け合っているように見えた。眩しくはないのに、目を離せない。


眉は淡い。まるで筆に十分な墨を含ませぬまま引いたようで、端にいくほどかすかになり、そのまま光に溶けていた。唇の色も薄く、ほとんど肌と溶け合っている。口元のほんのわずかなところにだけ、かすかな紅が残っていた。冬の冷気にさらされて、冷えきったような色だ。


そして、林瓶は彼女の目を見た。


その瞬間、自分が呼吸を忘れていたことに気づく。


瞳の色は淡く、ほとんど透き通っていた。普通の人のような濃い褐色でも黒でもない。灰と青のあわいにあるような、不思議な色。山あいの深い淵が、曇天の下でたたえる水の色に似ている。澄んでいて、現実のものとは思えなかった。


ふと、林瓶は感じた。彼女の視線は、自分の上にきちんと落ちているようでいて、どこか自分を通り抜けてもいる。胸を抜け、庭の葉を落とした銀杏を抜け、その先の、自分には見えない遠くへ落ちている。


それでも、彼女は林瓶を見ていた。


あの雨の亭のときとは違う。虚ろに「見ている」のではない。本当に「見ている」目だった。視線は林瓶の顔にとどまり、何かを確かめるようだった。唇がかすかに動く。何か言おうとしている。


数息ののち、玄霜が口を開いた。声はきわめて軽く、どこかおぼつかない。暗がりの中で手を伸ばし、触れたものが本当に自分の求めていたものか、まだ確信できない――そんな響きだった。


「君か?」


林瓶は渡り廊下の入口に立ったままだった。


そのときになって、ようやく気づく。裏庭に入ってからずっと、同じ姿勢のままだ。左手は袖口を握りしめ、右足は左足より半歩前に出ている。全身が「進む」と「止まる」のあいだで固まっていた。誰かに一時停止をかけられたように。


何をしに来たのか、一瞬わからなくなる。


ここへ現れたことを、どう説明すればいいのかも分からなかった。薪を届けに来た、と言うにはいかにも不自然だ。まさか裏庭まで回るとは。通りかかった、と言うのも無理がある。裏庭の渡り廊下は、通り道ではない。


結局、林瓶の口をついて出たのは、それだった。


「……通りかかったんです。詞を唱えておられるのが聞こえて。」


玄霜は林瓶を見つめたまま、しばらく黙っていた。やがてうつむき、膝の上でずれていた毛布の端を引き上げ、きちんとかけ直す。その動きはひどくゆっくりで、今のやりとりを自分の中で飲み下しているようだった。


やがて、彼女が口を開く。声はやはり軽い。


「不与離人遇。覚えた。」


しばらく静寂が落ちた。玄霜は顔を上げず、自分の指先を見ている。もう暗唱できるかどうか、黙って確かめているようだった。


それから唇が動く。続きを唱えようとしたが、また途切れた。眉が、ごくわずかに寄る。


林瓶は渡り廊下の角に立ったまま、彼女を見ないようにしていた。けれど、あの詞の続きが自然と脳裏に浮かぶ。


《睡裏消魂無説處》


(眠りのうちに魂は消え入るも、語るべき場はない。)


下の句だ。林瓶はそれを知っていた。そして、この一句が自分の胸の内まで言い当てていることにも気づく。この世界へ来てから、誰にも言えないことをずっと抱えて生きてきた。本当のことを話せる相手には、まだ一人として出会っていない。


自分がそれを口にしたことに、林瓶は気づいていなかった。先ほどよりもさらにかすかな声で、まるで自分自身に言い聞かせるように。


「睡裏消魂無説處。」


玄霜の指先が止まった。


彼女はすぐには何も言わない。ただ静かに座ったまま、しばらくしてから、ごく低い声で繰り返した。


「睡裏消魂無説處。」(眠りのうちに魂は消え入るも、語るべき場はない。)


覚え込もうとしているようだった。


それから顔を上げ、林瓶を見る。その目に驚きはない。あるのは、ひどく淡くて、言葉にしづらい何かだった。林瓶がこの一句を引き取るとは思っていなかった。そんな気配だ。


うまく暗唱できたことを伝えたのではない。ただ、彼が継いだ一句が、たまたま今の彼女の耳にとどまっただけだ。


彼女はそれを口にはしなかった。しばらくして、そっと言う。


「この詞、覚えにくい。」


林瓶は少し間を置いてから答えた。


「……確かに、難しいですね。」


玄霜はうつむき、口元にほとんど見えないほど淡い弧を浮かべた。笑みというより、「分かっている」というしるしだった。


林瓶はそれ以上、長居しなかった。一礼する。立ち去るとき、動きがいつもよりわずかに遅れる。振り返りはしない。だが、彼女がまだそこにいることは、分かっていた。


裏庭を出るころ、背後からごくかすかな声が聞こえた。玄霜がまた詞を唱え始めたのだ。今度は最初から。声はさっきより少し穏やかで、誰かが近くにいたことが、かえって心を落ち着かせたようにも聞こえた。


林瓶は胸の内で静かに思う。


彼女が「良くなった」わけではない。だが――考え始めている。


――


山を下る道すがら、林瓶はひどくゆっくり歩いた。


初冬の陽は高くない。斜めの光が山道に差し込み、人の影を長く引き延ばしている。石段の脇の枯れ草には霜が降り、光を受けてかすかにきらめいていた。何歩か進んでは立ち止まり、また歩く。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもある。


頭の中には、さっきの光景が何度もよみがえっていた。


玄霜が顔を上げて林瓶を見たときの表情。あの雨の亭で見せたような、何も映さず通り抜けていく虚ろさではない。「君を知っている」と確かに言う目だった。ほんの一瞬だったが、その一瞬で十分だった。


「君か?」――たった二文字。だが、その重みは分かる。適当に尋ねたのではない。頭の中で、会ったことのある人間を一人ずつ確かめ、その末に林瓶へたどり着いたのだ。


彼女はまだ、雨の亭で会ったあの人間を覚えている。


そこまで考えたところで、林瓶の足がふっと止まった。けれど、すぐにまた歩き出し、襟元を立てる。


庭を出て山道を下り、曲がり角まで来たときだった。老いた松の下に、唐执事が立っていた。まだ遠くへは行っていなかったらしい。


足音に気づき、彼女が林瓶を見る。その目には、どこか複雑な色があった。何か訊きたそうでいて、だが正面からは訊きにくい。そんな気配だ。


しばらくして、唐执事は何でもないことのように口を開いた。


「あの子は子どものころ、書を習っていた。家に先生を呼んでな。好きで、ときどき一人で暗唱している。別に大したことじゃない。」


林瓶の足が、ほんのわずかに止まる。


その言葉の裏にある意図は、すぐに分かった。林瓶が余計なことを言わないよう、先に釘を刺しているのだ。


林瓶はうなずきもせず、首も振らず、ただ「うん」とだけ返した。


唐执事はしばらく林瓶を見ていたが、それ以上は何も言わなかった。やがて振り返り、殿の中へ戻っていく。冬の山道を背景に、その背はひどく細く見えた。だが歩き方は、いつも通りしっかりしている。


林瓶はさらに山を下った。


胸の内では、はっきり分かっていた。唐执事の言うことは本当だ。玄霜が昔、書を読んでいたのも事実だろう。だが、その話で林瓶の疑念を打ち消そうとしているのも、また事実だった。二つは両立する。どちらも本当でありうる。


山道の両脇の松には霜が乗り、空気には冷えた草木の匂いが満ちていた。歩きながら、林瓶は考える。


彼女は、ただの玄祈使ではなかった。書を読んだことのある人間だ。ここへ閉じ込められる前、彼女には彼女の暮らしがあった。


外門宿舍の近くまで来たところで、林瓶は足を止め、振り返って玄女峰の方を見た。冬の山は灰色に沈み、細かな様子までは何ひとつ見えない。


それでも、林瓶には分かっていた。


彼女はあそこにいる。詞を唱えている。一度で駄目なら、もう一度。


しばらくそのまま立ち尽くし、それから寮へ向かって歩き出す。


自分にはどうにもできないこともある。けれど、少なくともあの午後、一人の人間が、自分なりのやり方で何かを伝えてきた。


――彼女は、まだ諦めていない。



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