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第23話 玄霜



翌朝早く、林瓶は薬の包みを背負い、寮を出た。


晩秋の朝は、空気が鋭く冷えている。地面にはうっすらと霜が降り、吐く息は白い。日の出も、以前より目に見えて遅くなっていた。


林瓶は外門の宿舎区を抜け、そのまま玄女峰へ向かった。


――


石橋のあたりは、いつも以上に静まり返っていた。守衛の執法弟子は、先日の二人とは別だった。林瓶が近づくと、そのうちの一人が手を上げて制した。


「令牌を」


林瓶は腰から配送用の令牌を外し、差し出した。弟子はそれを受け取り、表の『内務・配送』の文字と裏の番号を確かめる。ひとつ頷くと、令牌を返し、道を開けた。


林瓶は令牌を受け取って腰に吊り直し、石橋を渡る。


橋を渡れば、そこはもう玄女峰の領域だ。雨の中をさまよった前回とは違う。今回は正式な任務を帯びての入山だった。山道に敷かれた青石は朝露に濡れ、鈍く光っている。両脇の木々は鬱蒼と茂り、枝が交差して空を覆っていた。林の奥は薄暗い。


林瓶は一歩ずつ、慎重に足を運んだ。胸の底には、うっすらとした緊張がある。止められることへの不安ではない。登った先に何が待っているのか分からない。そんな未知への張りつめた感覚だった。


歩きながら、林瓶は頭の中に道筋を刻みつけていく。山道の曲がり角の数。木々の間隔。身を隠しやすい場所。視界が開ける地点。単なる散策ではない。脳内の地図を埋めていく作業だった。


山の中腹に差しかかったころ、例の東屋の前を通った。


東屋の中に人影はない。秋雨が軒の埃を洗い流したのか、青瓦は朝の光を受けて淡く湿っていた。林瓶は足を止め、中をのぞく。がらんとしていて、石の腰掛けと卓があるだけだ。卓の上には枯れ葉が一枚、風に追われて隅へ寄せられ、石の隙間に挟まっていた。


林瓶は、あの日自分が立っていた場所をもう一度見つめた。青石は変わらずそこにある。ただ落ち葉と薄い霜に覆われているだけで、痕跡らしいものは何も残っていなかった。


やがて林瓶は再び歩き出し、上を目指した。


――


高度が上がるにつれ、木立はいっそう深くなり、空気の湿り気も増していった。霧が林の間を漂い、遠くの景色を乳白色の薄絹のように包んでいる。両脇の岩肌には深緑の苔がつき、湿りを含んでやわらかく見えた。石段の縁はところどころ擦り減っていて、足元に気を配る必要がある。


やがて山道の曲がり角を抜けたとき、不意に視界が開けた。


玄女殿が姿を現す。


想像していたより、ずっとこぢんまりとしている。威厳に満ちた壮麗な殿舎ではない。白壁に灰瓦を戴いた青灰色の建物が、背の高い数本の銀杏に隠れるように、ひっそりと建っていた。


木製の両開きの扉も、それほど大きくない。塗りは歳月を経て落ち着いた艶消しの色合いに変わり、縁には細かなひびが走っている。門前に扁額も対聯もなく、その質素なたたずまいは、どこか隠居所めいていた。


ただ、銀杏だけは見事だった。黄金色の葉が地面を厚く覆い、青煉瓦の上に砕いた金でも撒いたように輝いている。


唐執事は、すでに殿の入口に立ち、林瓶を待っていた。


林瓶が想像していたより若く見える。四十五、六歳ほどだろうか。白髪交じりの髪をきっちり結い上げ、装飾品はひとつも身につけていない。深灰色の無地の道袍は、何度も洗ったせいか裾の色が少し褪せていたが、よく手入れされていて清潔だった。


表情の乏しい顔立ちだが、その眼差しは冷たくない。長年ひとつのことに打ち込んできた者に特有の、静かな落ち着きがあった。感情が薄いのではない。ただ、それを目の奥にしまい込み、容易には表に出さないだけだ。


唐執事は林瓶が近づくのを見ると、挨拶もなく手を差し出し、薬の包みを受け取った。中身を改めることもしない。ただ手にした重みで内容を量るようにして、短く尋ねる。


「宗主の指示か」


「はい」


唐執事は「ふむ」とだけ応じ、薬の包みを袖に収めた。それから林瓶を頭の先からつま先まで、じっくり見渡す。目の前の若者が信用に足るかどうか、見極めているようだった。


数呼吸ぶんの沈黙が流れたあと、彼女の眼差しがわずかにやわらぐ。


「中に入れ」


そう言うと、唐執事は返事も待たず背を向け、殿内へ入っていった。


林瓶は一瞬、戸惑う。薬を届けるだけなら、ここで役目は終わるはずだった。だが唐執事は振り返らない。開け放たれた扉の奥へ、そのまま消えていく。まるで、続いてくるのが当然だと言わんばかりだった。


林瓶は意を決し、敷居をまたいでその後に続いた。


――


玄女殿の中は、外から見るよりさらに薄暗かった。正面には木の屏風が置かれている。絵も字もない。ただの白木で、年月に磨かれたなめらかな光沢をたたえていた。空気にはほのかに白檀の香りが混じり、窓から入る秋の冷えた風が、それを静かに運んでいる。


林瓶は殿内の配置をひととおり目で追った。窓の数。扉の位置。廊下の向き。頭の中で、間取りの輪郭を描いていく。


唐執事は奥へ進まず、屏風のそばで立ち止まった。そして廊下の先にあるひとつの窓へ目を向ける。独り言とも、林瓶への言葉ともつかない低い声で言った。


「最近、あの子は意識のはっきりしている時間が増えた。午後になると座って、じっとしている。……いや、ぼんやりではないな。何かを考えている。以前は、そんなふうに考え込むことなどなかった」


林瓶は二歩ほど後ろに控え、その言葉に胸の内が静かに波立つのを感じた。


「それは良い兆しなのですか。それとも、危ういことなのですか」


唐執事は振り返り、林瓶を見た。その目には、そんな問いが返ってくるとは思わなかったらしい、かすかな驚きが浮かんでいる。


「良いことだ。だが、危うくもある」


彼女は一拍置き、さらに声を潜めた。


「考えるようになれば、見なくてもよかったものまで見えてしまう」


「知らなくてもよかったことまで、知りたくなる」


半開きの殿門から差し込む朝の光が、林瓶の青い法袍に細長い帯となって落ちていた。薄暗い殿内で唐執事の静かな目を見返しながら、林瓶は考える。意識が戻ったあと、あの娘は何を思うのだろう。


「気をつけます」


そう口にしたとき、林瓶の視線は唐執事の肩越しに、廊下の先の窓へ引き寄せられた。


窓がわずかに開いている。


その向こうに、誰かが立っていた。


白い影。ひどく細い。


玄霜だった。細く開いた窓の隙間の向こうに立っている。漏れ入る朝の光が、その横顔を照らしていた。林瓶から見えるのは半分だけだ。それでも鼻筋は光の中でやわらかな弧を描き、長いまつげが影を落としているのが分かる。


纏っているのは、あの祭祀の正装ではない。簡素な白い衫だ。清潔ではあるが、体に合っていないのか、痩せた体にただ掛かっているように見えた。結われていない髪は肩の後ろへ流れ、窓から吹き込む風に揺れている。


その、半ば陰に沈んだ顔を見た瞬間、林瓶は思わず息を呑んだ。


玄霜のたたずまいには、声をかけることすらためらわせるような、ひどく清冽な気配があった。まるで真冬の湖に張ったばかりの氷だ。薄く、透き通っていて、声を立てるだけで砕けてしまいそうだった。


距離もあり、窓の陰にもなっていて、顔の全体までは見えない。だが、その視線は自分へ向いている気がした。唐執事ではない。林瓶を見ている。


そして林瓶は気づく。彼女の立ち姿は、あの雨の日に東屋で見たときとは違っていた。


あのときの玄霜は、ただそこに立っているだけだった。植物のように東屋の影に溶け込み、一幅の絵の中の人物のように微動だにしなかった。だが今は違う。彼女の手が窓枠にかかっている。指先にはわずかに力が入り、関節が白く浮いていた。


それは、何かを掴みたい。けれど手を伸ばすことができない。そんなとき、人は無意識に指先へ力を込める。


唐執事は林瓶の視線を追って振り返った。何も言わなかった。ただ静かに歩み寄り、窓を閉めた。木の擦れるかすかな音がして、室内は再び静けさに包まれた。


彼女は林瓶のそばに戻ってくる。声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。


「薬は受け取った。戻るがいい」


林瓶は頷き、殿門へ向かった。外に出るとき、もう一度あの窓を振り返る。窓は固く閉ざされ、窓紙がぼんやりと光を透かしていた。窓台には小さな鉢植えが置かれている。万物が枯れていく深秋のさなか、そこにはまだ一輪、淡い黄色の花が咲いていた。細い花びらが朝の風にかすかに震えている。


林瓶は銀杏の木の下に立ち、しばらくその花を眺めていた。足元に広がる黄金色の落ち葉が風に舞い、何枚かが枝からこぼれて肩にとまる。


あの鉢植えは、お世辞にもよく世話されているとは言えなかった。鉢は小さく、土も少ない。茎は細く、頼りない。強い風が吹けば折れてしまってもおかしくない。それでも、たしかに一輪の花を咲かせていた。


やがて林瓶は視線を戻し、来た道を下り始めた。


石橋を渡りながら、ふと振り返る。銀杏の金色の葉のあいだから、青灰色の殿がぼんやりと浮かんで見えた。白壁は午前の光を受けて、やわらかく輝いている。窓台の淡い黄色の花は、ここからでは灰色の壁に埋もれた小さな光の点にしか見えない。


林瓶は前を向き、また歩き出した。


薬は届けた。玄霜の姿も見た。以前より痩せてはいたが、あの手はしっかり窓枠をつかんでいた。あれは、植物のする動きではない。


外門の宿舎へ戻る道すがら、林瓶は今日のことを反芻していた。玄霜は前に会ったときより、かなり良くなっている。人を認識し、言葉も少し交わせるようになっていた。以前、雨の東屋にいた彼女は、まるで一株の植物のように、ただそこに在るだけだった。だが今の玄霜は違う。たしかに、生きている人間だった。


それだけで、この日の配送は無駄ではなかった。



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