第21話 双玄夾一水
五日が過ぎた。宗主からは、相変わらず何の音沙汰もない。
林瓶は寝台の端に腰を下ろし、窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。秋は深まり、夜明けも遅くなっている。窓の外の老槐樹も、葉はほとんど落ち切っていた。胸の奥に湧く苛立ちを、林瓶はぐっと押し殺す。
そのとき、扉が叩かれた。
「林瓶、起きているか」
謝臨平の声だった。いつもどおり、ゆったりとして、少しも焦りを感じさせない響きだ。
林瓶が扉を開けると、灰色の古びた道袍をまとった謝臨平が立っていた。靴先には、朝露に濡れた泥がついている。謝臨平は林瓶の顔をしばらく見つめ、それから胸の内を見透かしたように言った。
「一週間待たせたな。焦れたか」
林瓶は否定しなかった。
謝臨平はしばらく黙り、門柱にもたれて、葉をほとんど落とした庭木を眺めた。それから静かに口を開く。
「宗主はな……物事を……いささか慎重にお考えになる方だ。だから、一週間も待たせることになった」
「慎重にお考えになる」――その言葉の前に、ほんのわずかな間があった。言い換えたのだ、と林瓶にはわかる。最初に出かかったのは、「優柔不断」という言葉だったのだろう。
だが、あえて追及はしなかった。謝臨平も、それ以上は何も言わない。秋風が庭を吹き抜け、枯れ葉と土の匂いを運んでくる。
「行こう。宗主がお待ちだ」
林瓶はうなずき、謝臨平のあとに続いた。
今回通るのは正規の道だった。謝臨平は聚霊谷の裏門から出て、青石の敷かれた山道を上っていく。秋の山道には枯れ葉が積もり、露に濡れた石はひどく滑りやすい。
雲霞峰の静室。その扉は半ば開いていた。中に灯りはなく、薄暗い。謝臨平は入口で足を止め、中には入らずに扉を押し開けると、林瓶に向かってうなずいた。
林瓶は一人で中へ足を踏み入れた。
――
李還真は書案の向こうに座っていた。灰白色の常服をまとい、髪は木の簪でまとめている。銅盤は以前と同じ場所に置かれていたが――銅針の並びは前とは違っていた。
部屋はひっそりと静まり返っている。窓は閉め切られ、外の風の音も遮られていた。銅盤の上から細く立ちのぼる青い煙だけが、静かに漂っている。
李還真は顔を上げ、林瓶にひと目だけ視線を向けた。続けて手を伸ばし、盤上の銅針を軽く弾く。かすかな金属音が響いた。
「来たか」
「はい、宗主」
李還真は向かいの蒲団を指した。
「座れ」
林瓶は一瞬ためらった。宗主の前で着座を許されるのは、これが初めてだ。膝をつき、蒲団に腰を下ろす。背筋にわずかに緊張が走る。衣越しに、青煉瓦の床の冷たさが伝わってきた。
――
しばらく沈黙が流れた。李還真はすぐには口を開かない。林瓶がこの空気になじむのを待っているようだった。やがて、静かに言葉を紡ぎ出す。
「内務長老がお前を推挙したとき――本座は一卦を立てた」
少し間を置き、李還真は窓の外の山影へ目を向けた。見ているのは山そのものではない。あの夜の出来事だ。
あの夜、内務長老から推挙文書を受け取ったあと、李還真は先祖伝来の太乙六壬式盤を取り出した。銅盤に灯りを当て、香を焚いて心を鎮める。そして一枚の亀甲を盤上に投じた。
亀甲は盤の上を数度滑り、「坎」の位で止まり、かすかに震えた。
坎は水。
方位は北。
玄女峰のある方角だった。
李還真はその卦を長く見つめていた。
双玄夾一水。
命縁は水に在り。
卦が示したのはそこまでだった。
李還真は視線を窓の外から戻し、林瓶へ向けた。
「双玄夾一水――それがお前に下された卦だ」
林瓶は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
李還真は首を横に振った。
「卦は未来を語らん。ただ流れを示すだけだ」
そう言って銅盤へ目を落とす。
「本座に見えたのは、お前と玄女峰の縁だけだ」
李還真はひと息置いた。
「だから止めなかった」
林瓶は黙っていた。
あの日、自分が雨の中で玄女峰へ迷い込んだことを思い出す。
宗主は、それを止めなかったのだ。
「あとは順水推舟だ」
李還真は静かに言った。
「流れがどこへ向かうかは、本座にも分からん」
――
「唐執事からの伝言は本座が受け取った。化霊丹の件も、蘇晴の記録も、すべて確認済みだ」李還真の口調は落ち着いていた。「伝功長老が何を企んでいるか――本座が把握していないわけではない。だが――」
そこでひと呼吸置く。そして、林瓶がまったく予想していなかった言葉を口にした。
「本座から一つ依頼がある。これは命令ではない。引き受けるかどうかは、お前が決めろ」
林瓶は顔を上げた。太乙宗に来てから、「依頼」という言葉を口にする者などいなかった。長老は命じ、上役は指示を出し、同輩は頼み事をする。だが「依頼」――それも宗主自らの言葉となれば、その重みはまるで違う。
「お前に玄女峰への薬を届けさせたい。化霊丹は、今後お前が運べ。毎月一回、直接、唐執事の手に渡すのだ。そして今日から、玄女峰へのすべての物資配送もお前が担え」
「薬だけではないのですか?」
「それだけではない」李還真は静かに言った。「化霊丹は毎月一度、別に届ける。それ以外の日は――炭火、食材、薬材の検品だ。蘇晴と連絡を取り合え。唐執事から伝言があれば――それもお前が受け取る」
李還真は書案の上から一枚の令牌を取り上げた。灰黒色の表面には、太乙宗の雲紋が刻まれている。
「名目は――外門配送。内務長老の手配とする」
そう言って、令牌を机の中央へ押し出した。
林瓶にはわかる。この名目は盾であると同時に、枷でもある。表向き、誰も林瓶を止めることはできない。だが、もし伝功長老に目をつけられても、宗主が守ってくれることはないだろう。
迷いはなかった。
「引き受けます」
李還真は林瓶を見た。ほんのわずかに、目尻が動いた。
その視線に気づき、林瓶は静かに言葉を継いだ。
「ご安心ください。伝功長老の件については――自分が何をすべきか、わきまえております」
その言葉を口にした瞬間、もう自分に退路はないのだと悟る。
李還真はしばらく黙っていたが、やがてかすかにうなずいた。そして令牌を林瓶のほうへ押しやる。
「謝臨平のところで手続きを済ませろ。その令牌があれば、関門も通れるはずだ」
林瓶は令牌を両手で受け取った。灰黒色の令牌はひんやりと冷たく、縁は長年使われてきたせいでなめらかにすり減っている。袖口の内袋にしまい、一礼して身を翻すと、外へ出た。
退路はない。
だが今、林瓶の手には確かな鍵がある。




