第19話 伝言
二日後、林瓶は山麓の坊市へ降りた。謝臨平から頼まれた用件――雑貨の仕入れリストを手に携えて。
品物を買い集めながら、心のどこかであの干し棗の店のことを思い出していた。だが、用事を済ませて店の前を通りかかった、その時だった。
「林、林哥……?」
控えめな声がした。林瓶が振り返ると、灰色の布服を纏った若い娘が立っていた。手には小さな籠。年は二十歳前後か。阿禾だ。以前、聚霊谷の厨房で働いていたことがあり、今は玄女峰で侍女を務めている。
阿禾は落ち着かない様子で周囲を窺い、声を潜めた。
「林哥。お話が……」
林瓶は荷物を担ぎ直し、「一緒に戻ろう」と言って歩き出した。坊市を抜け、宗門へと続く人通りの少ない道に入ると、阿禾が口を開いた。
「執事娘娘が、あなたに伝えてほしいことがあるそうです」
林瓶の足は止まらなかったが、わずかに歩調を緩めた。「何だ」
「最近、玄祈使がよくお話しになるようになったとか。『今日は何の日だったかしら』とお尋ねになるそうです。以前はほとんど口を開かなかったのに。執事娘娘は『修煉に障るのではないか』と案じておられます。でも、誰にも言うなと……」
林瓶の足が止まった。
口数が増えた。「今日は何の日」。彼はあの雨の東屋で、一言だけ言葉を交わした玄霜を思い出した。静寂そのもので、言葉さえ忘れてしまったかのように見えたあの少女が、今、自ら口を開くようになったのだ。
「執事娘娘は、直接宗主に申し上げないのか」林瓶が尋ねた。
「娘娘は玄女峰を離れられないのです。伝功長老の息がかかった者たちが頻繁に訪れていて……娘娘が席を外せば、奴らが玄祈使と二人きりになってしまうから」
林瓶はしばし沈黙した。
「……それで、なぜ俺なんだ。俺は執事娘娘とはほとんど面識がないはずだ」
阿禾は少し躊躇いを見せたが、やがて口を開いた。
「娘娘が仰っていました。あの日、あなたが玄女峰に迷い込んだのは宗主の差し金だったのだと。あなたは信頼に足る人物だ、と」
林瓶の胸の奥で、何かが腑に落ちた。あの偏庁で宗主が自分に向けた一瞥。あれは冷淡さゆえではなかった。他でもない自分という人間を見極めていたのだ。
彼は小さく息を吐き、阿禾に告げた。
「執事娘娘に伝えてくれ。この話は、必ず届けると」
――
林瓶は宿舎へは戻らず、そのまま聚霊谷へと向かった。
谷の奥に佇む煉瓦造りの部屋。入り口には桂花の木がある。彼はその扉を叩いた。
「入れ」
中へ入ると、謝臨平が書案の向こうに座っていた。彼は林瓶の表情を一目見るなり、言葉を交わす前に命じた。
「扉を閉めろ」
林瓶は扉を閉め、机の前に立った。そして阿禾から聞いた一部始終を報告した。玄霜の異変、伝功長老の者たちが連日のように訪れていること。そしてあの雨の日、自分が玄女峰に足を踏み入れたのは、宗主の差し金であったということを。
謝臨平は最後まで黙って耳を傾けていた。やがて立ち上がると、書架の本を整理して振り返った。
「来い」
彼は聚霊谷の裏手から、竹林に覆われた細い山道を登り始めた。林瓶はその背を追う。謝臨平の足取りは、聚霊谷で帳面を抱えて歩く時とはまるで別人のようだった。背筋は真っ直ぐに伸び、その視線は遥か先を見据えている。
やがて、小さな峰が姿を現した。木々の合間に、灰色の瓦と白い壁の静室が数軒、見え隠れしている。山門には扁額もなければ見張りの姿もない。だが、この静謐さこそが宗主の居所に相応しいものだった。
雲霞峰。宗主の居所である。
謝臨平は静室の前で足を止め、扉を軽く叩いた。「宗主。老謝だ」
「入れ」
謝臨平は扉を開けると、林瓶に先に入るよう顎で促した。林瓶は促されるまま、静室へと足を踏み入れた。
――
部屋はそれほど広くはなかった。一つの書案に、数脚の椅子。壁には墨色の褪せた水墨の雲山図が掛けられている。開け放たれた窓から秋の風が吹き込み、机の上の宣紙を微かに揺らしていた。
李還真は書案の向こうに座していた。いつもの紫色の法袍ではなく、灰白色の常服を纏っている。冠も戴かず、髪は木の簪で無造作にまとめられていた。彼は銅の盤に六本の銅針を立て、そのうちの一本を指先で擦っている。ゆっくりと、丹念に。
謝臨平は入り口に留まったまま、「林瓶が、話があるそうです」とだけ告げると、外へ出て扉を閉めた。
部屋には、林瓶と李還真の二人だけが残された。
林瓶は深く息を吸い、阿禾から聞いた話をありのままに伝えた。玄霜が口を開くようになったこと。「今日は何の日か」と尋ねること。執事娘娘が玄女峰を離れられぬ状況にあること。伝功長老の息がかかった者が通い詰めていること。そして、彼女が輔薬の要請を託してきたことを。
話し終えても、李還真は依然として銅針を擦り続けていた。指の腹が銅の表面をゆっくりと往復する。
やがて彼は銅針を盤の窪みに置き、指先で軽く弾いた。針は半回転し、新たな位置で止まった。
彼は顔を上げた。
「分かった」
――わずか二文字。驚きも追及も、労いの言葉すらない。まるで最初からすべてを知っていたかのようだった。林瓶がそれを確認しに来るのを待っていた、ただそれだけのことのように。
林瓶は一礼し、静室を後にした。
扉の外では、謝臨平が数歩離れた場所に佇んでいた。竹林の方を眺めていた彼は、振り返って林瓶の顔を見ると、何も問わなかった。
「戻ろう」
二人は来た道を戻った。秋風が竹林を揺らし、枯れた竹同士が擦れ合って乾いた音を立てている。山道を下りながら、林瓶は思った。言葉は届けた。あとは、待つだけだ。




