第16話 探り
その夜も、林瓶はなかなか寝付けなかった。張遠の寝息を背に、ゆっくりと身を起こし、外袍を羽織った。
もう、ただ待っているだけではいられない。
音を立てぬよう、林瓶は寮を出た。月明かりが弘武峰へ続く道を白く照らしている。夜はひっそりと静まり返り、聞こえるのは自分の足音と、風に揺れる枯れ枝の擦れる音だけだった。灯りは持たない。月明かりで足りるし、誰かの目につくのも避けたかった。
目指すのは宋明遠の宿舎ではない。まだ、そこまで踏み込む段階ではなかった。まずは弘武峰の地形を、夜の闇の中で自分の目で確かめておきたかった。
山道をゆっくり進む。一歩ごとに足元を確かめ、曲がり角ごとに立ち止まっては耳を澄ませた。遠くに、宋明遠の部屋の灯りがぽつりと見える。窓紙には人影が映っていた。まだ起きているらしい。
林瓶はその場にしゃがみ込み、身じろぎもせずに待った。
窓の向こうで人影が動く。立ち上がり、歩き、また座る。とくに怪しい様子はない。ごくありふれた夜の過ごし方に見えた。
林瓶は息を潜めたまま、その灯りが消えるまで待ち続けた。
それから数日、林瓶は夜ごと弘武峰へ足を運んだ。だが、何も見つからなかった。
――
数日後の朝。空がようやく白みはじめた頃だった。
林瓶は食堂で粥をすすっていた。前日、食堂で「宋師兄が今日、玄女峰に上がるらしい」という噂を耳にしていた。そのひと言が、頭に引っかかっていた。
粥を食べ終えると、林瓶は食堂を出て、弘武峰へ続く道へ向かった。
途中、あの槐の古木の下で足を止める。そこでじっと待った。
やがて、弘武峰の山門からひとりの男が姿を現した。月白色の長袍。宋明遠だった。
林瓶は、宋明遠が十分に近づくのを待ってから、木の陰から一歩進み出た。
「宋師兄、おはようございます。」
宋明遠の足が止まる。その目に、ほんの一瞬だけ驚きがよぎった。だが、それはすぐにいつもの微笑みに隠された。
「林師弟」
口調はゆるやかだった。
「朝早いな。弘武峰の近くで何をしている?」
「はい。荷運びの経路を確かめておりました。各峰への道を、もっとよく知っておこうと思いまして」
宋明遠の微笑みは崩れない。だが、その視線が一瞬だけ、林瓶の顔を射抜くように止まった。
「経路の確認か。ずいぶん気が早いな。昇格したばかりなら、まずは目の前の仕事に専念したほうがいい」
言葉は穏やかだった。だがその奥には、「お前はまだ余計なことを考える立場ではない」という、はっきりした線引きがあった。
「師兄のおっしゃる通りです」
林瓶はうつむいた。
宋明遠はそれ以上何も言わず、歩き去っていった。月白色の背が朝靄の中へ溶けていく。
林瓶は槐の木の下に立ったまま、その姿が完全に見えなくなるまで動かなかった。
――
その二日後の夕方。林瓶が外門寮へ続く路地を歩いていると、前方の槐の古木の下にひとつの人影が立っていた。
宋明遠だ。待っていたのだ。
林瓶が近づくと、宋明遠は顔を上げて微笑んだ。
「林師弟。この前から、お前のことが気になっていてな。功法について、何か分からないことがあるんじゃないかと思ったんだ」
林瓶は答えない。
「ちょうどいい。今なら時間がある。弘武峰の小さな練功場を使わせてやろう」
拒む余地を与えない口ぶりだった。林瓶は黙ってついていった。
――
練功場は静まり返っていた。宋明遠は一枚の紙を取り出す。そこには、簡潔な霊力の流れが描かれていた。
「凝気術だ。試してみろ。たいして悟性は要らない。体内の気を感じて、この線に沿って流すだけだ」
林瓶は膝をつき、紙を前に広げて目を閉じた。呼吸を整え、丹田から気を引き上げようとする。だが膻中のあたりで、壁にぶつかったように霧散してしまった。
二度試したが、駄目だった。
三度目。林瓶は霊目術をほんの一瞬だけ発動した。宋明遠の体内では、霊力が澄んだ青い川のように、淀みなく流れている。丹田から膻中へ。そこから両腕へ。実になめらかだった。
林瓶は霊目術を閉じ、手を下ろした。
「駄目です。気を感じられません」
宋明遠は一歩近づいて腰を落とし、林瓶の手首に指を当てた。触れ方は軽い。二、三呼吸ほどして、指が離れる。何かを確かめたように、そのあと指先をそっと擦った。
「仕方ないな」
宋明遠は紙を懐にしまった。声は相変わらず軽やかだった。
「一度でできるものじゃない。また試してみるといい」
林瓶は立ち上がり、礼をして練功場を出た。出口で一度だけ振り返る。宋明遠はまだ練功場の中央に立ち、視線を落としたまま、あの紙を見つめていた。その目は、紙の上に描かれた霊力の線ではなく、もっと別の何かを見ているようだった。
林瓶は、もう振り返らずに山道を下った。
宋明遠はしばらく黙っていた。やがて紙を折り畳み、袖へ収める。
「――なるほど」




