第15話 疑惑
あの雨の日から、林瓶はどうにも考えがまとまらずにいた。
寮の硬い寝台に横たわり、天井の梁を見つめながら、林瓶は玄霜のことを思い返していた。白い祭服。華奢な肩。雨の中の東屋。
そして、あの一言。
「濡れてる。」
林瓶は布団の端をぎゅっと握りしめ、頭の中の情報をひとつずつ整理していく。
一つ。化霊丹の消費ペースが速くなっていること。蘇晴は「修煉が過酷なのかもしれない」と言っていた。彼女は丹薬の専門家だ。そう言うのなら、間違いないのだろう。
だが――。
二つ。玄祈使という役職の変遷について。あの日、蔵経楼の二階で見つけた『履霜雑録』には、初代玄祈使は宗主の道侶であり、強大な権限を持っていたものの、数百年をかけて少しずつその権限を削られていったと記されていた。
だが、それは遠い昔の話だ。今の十八歳の少女と、いったい何の関係があるのか。
三つ。玄霜は幽閉されていること。蒼雲宗が来訪した際、彼女は峰を下りて一礼したきりだった。散修たちの間でも、「もう何年も姿を見た者はいない」と噂されている。そう聞けば、たしかに不憫な境遇ではある。
四つ。今日、自分の目で確かめたこと。あの瞳は空虚だった。驚きも、警戒も、好奇心もない。
ただ、空だった。
林瓶は四つの断片を並べてみた。だが、それらをひとつにつなげることはできない。
それでも、心のどこかに、もうひとつ別の感触が残っていた。
あの一言は、ただ事実を述べただけだったのだろうか。林瓶には、どうしてもそう思えなかった。
林瓶は布団の中で身を丸め、窓の外を見やった。玄女峰の方角は闇に沈み、何ひとつ見えなかった。
――
数日後。蔵経楼の一階。
林瓶が書架の前で本を漁っていると、背後から声をかけられた。
「何を読んでいる?」
振り返ると、そこに立っていたのは宋明遠だった。月白色の長袍をまとい、手には一冊の書物。顔には穏やかな微笑みを浮かべている。
「宋師兄。」
林瓶は手にしていた本を棚へ戻した。
「いえ、手当たり次第に読んでいるだけです。」
「一階には雑記や入門用の功法しかないからな。」
宋明遠は隣の書架に本を差し込みながら、何気ない口調で言った。
「本当に役に立つ典籍は二階にある。残念ながら、二階はめったに開放されないが。」
林瓶はその言葉をさりげなく受け流し、姿勢を正した。
「宋師兄は、返却ですか?」
「いや、調べものだ。」
宋明遠の視線が一瞬、値踏みするように林瓶の顔をかすめた。
「最近、よくここへ通っていると聞いたぞ。」
「暇つぶしですよ。」
宋明遠は笑った。その笑みは過不足がなく、よく整っていた。
「本を読むのはいいことだ。お前は昇格したばかりで、まだ基盤が固まっていないだろう。功法で迷ったら、いつでも聞きに来い。」
そう言うと、宋明遠は蔵経楼を去っていった。月白色の背中が、静かに遠ざかっていく。
林瓶は書架の前に立ち尽くしたまま、宋明遠の言葉を反芻していた。
「功法で迷ったら、いつでも聞きに来い」――伝功長老の筆頭弟子が、昇格したばかりの元雑役弟子に。
これを単なる親切だと考えるのは、さすがに無理がある。
――
蔵経楼を出ると、一人の外門弟子が入口の石段に立っていた。三十歳前後。角張った顔立ちに、日に焼けた肌。
男は林瓶の姿を認めると、声を潜めて言った。
「あいつには気をつけろ。」
林瓶は足を止めた。
「……誰のことだ?」
「宋明遠だ。」
男の声はさらに低くなる。
「伝功長老の李承道が最近、あいつを玄女峰に通わせている。玄祈使の育成を補佐するという名目でな。」
男はそれだけ言い残すと、振り返りもせず立ち去っていった。
林瓶は蔵経楼の入口で、風に吹かれながら立ち尽くしていた。遠くの玄女峰は霊霧に包まれている。
宋明遠が、あの十八歳の少女に近づいている。
林瓶は寮へ向かって歩き出した。足音は静かだ。だが、鼓動は速まっていた。
――氷の下の亀裂は、すでに水面にまで達している。




