第14話 玄女峰
機会は、突然訪れた。
その朝、林瓶が聚霊峰で用事を言い渡されると、周安が一枚の伝票を差し出した。
「丹霞峰から玄女峰の山裾まで、薬材を届けてくれ」
乾燥した霊芝と霊草を麻布で包んだ荷は、二十斤ほどの重さがあった。林瓶はそれを背負い、玄女峰へ向かった。
玄女峰は太乙宗の最西端にある。他の峰とのあいだには、深くはないが幅のある澗が横たわっていた。そこに一本の石橋が架かっている。橋を渡った途端、空気が変わった。
山道は狭い。敷かれた青石には薄く苔が生えている。両脇の木々は密に茂り、枝葉が絡み合って陽の光の大半を遮っていた。林の中は薄暗く、しんと静まり返っている。
――
半刻ほど歩いたころ、空模様が急に崩れた。
秋の雨は前触れもなく降り出す。はじめは、大粒の雨が葉を打つ、ぱらぱらという乾いた音だけだった。だが次の瞬間には、一気に本降りになった。林瓶の頭や肩を水が伝い落ちる。林瓶は薬材の包みを胸に抱え込み、自分の体でかばった。
山道は雨でいっそう滑りやすくなった。足元を確かめながら、慎重に進む。視界は雨の幕に遮られ、心もとない。分かれ道で道を見失ったが、雨はやむ気配を見せなかった。林瓶はそのまま山の上のほうへ歩を進めた。
気づいたときには、来た道は雨の中に呑まれ、もう見えなくなっていた。
林瓶は足を止めた。雨水が顎を伝って落ちる。全身が冷えていく。
引き返すより、もう少し先へ進んだほうがいいかもしれない。この先に、雨宿りできる場所があるかもしれない。
そう思い、林瓶は歩き続けた。そして角を曲がる。
――
その先に。
亭があった。
六角に反った軒。青瓦の屋根。石柱は雨に洗われ、鈍く光っている。亭のまわりには老松が何本か立ち、枝を大きく広げて、まるで亭に傘を差しかけるように覆っていた。松葉の隙間から落ちる雨だれが、軒先に澄んだ音を立てている。
その中に。
一人の少女が立っていた。
白い衣。
傘は差していない。
雨の幕越しで、はっきりとは見えない。ただ、細く長い白い輪郭だけが、亭の影に嵌め込まれたように佇んでいた。雨に滲んだ絵のようだった。顔はわからない。だが、その立ち姿だけで目を奪われる。あまりにも静かだった。生きている人間の静けさというより、初めからそこにあった風景の一部のようだった。
林瓶の足が止まる。
雨の中に立ったまま、髪から水を滴らせながら、林瓶はその白い祭服を見つめた。玄霜だ。あの日、蒼雲宗の来訪の折に遠く見えた、あの白い影。
一瞬、思考が巡る。自分はここにいるべきではない。だが、今さら引き返すのも、かえって怪しまれそうだった。
林瓶は息を吸い、亭の外の石段の下に立って、深く頭を下げた。
「外門弟子の林瓶と申します。薬材を運ぶ途中で道に迷い、こちらへ入り込んでしまいました。お騒がせして申し訳ございません」
その声は雨音に半ばかき消されていた。だが、亭の中には届いた。
沈黙。
林瓶は頭を上げなかった。足元では、雨水が石の上に小さな水たまりを作っている。指先が冷たい。だが、視線を感じた。とても軽い視線だった。圧迫感はない。肩先に落ち葉がふわりと舞い降りたときのように、触れていることはわかるのに、重さは感じない。そんな視線だった。
やがて、声がした。
「濡れてる」
とても軽い声だった。親切からの気遣いでもない。冷たい指摘でもない。ただ、予想と少し違うものが目の前にあったから、それをそのまま口にした。そんな響きだった。
林瓶は顔を上げた。
雨の簾の向こうに、玄霜の顔がある。
白い薄紗が顔を覆い、表情ははっきり見えない。だが、その輪郭だけで、彼女がどれほど痩せているかはわかった。白い祭服は肩の線が落ち、まるで服のほうが主で、彼女の体はそこに掛けられているだけのように見える。肩幅は狭く、全身は風に吹かれれば揺れてしまいそうなほど細い。片隅でひっそりと育つ一本の草のようだった。
彼女の目が、林瓶を見ていた。
好奇心もない。警戒もない。怒りもない。ただ見ていた。舞い落ちる一枚の葉を眺めるように。遠くの雲が流れていくのを見送るように。
心臓の奥が、かすかに震える。
林瓶は視線を外し、うつむいた。
「……大丈夫です」
また、沈黙が落ちた。
聞こえるのは雨の音だけだった。ぼたぼたと松葉を打ち、軒先から滴り、地面に小さな泡を弾けさせている。
やがて。
玄霜が動いた。振り返り、亭の向こう側へと歩き出す。一歩、また一歩。潅木に半ば隠れた小径へ向かっていく。
足音はしなかった。白い祭服の裾が草の葉をかすめ、いくつかの水滴を散らす。その滴はかすかに光った。そして彼女は、曲がり角の向こうへ消えていった。
最後まで、玄霜が再び口を開くことはなかった。
――
林瓶は亭の外に立ち尽くしていた。雨はまだ降っている。玄霜の消えた方向を見つめる。あの小径は、峰のさらに奥へ続いている。玄女殿の輪郭は見えないが、おそらくあの先にあるのだろう。
そのまま数呼吸のあいだ、動けなかった。雨水が衿元から流れ込み、体を震わせる。
林瓶は懐の薬材の包みを確かめた。麻布は半ば濡れていたが、中の霊芝と霊草は、自分の体でかばったおかげで無事だった。
もう一度、誰もいなくなった亭を見上げる。雨はなおも軒先から滴り続けていた。
――
林瓶は来た道を戻った。今度は迷わない。山裾に薬材の包みを置き、乾いた布で覆うと、急いで聚霊谷へ戻った。
聚霊谷に戻るころには、雨は細かな霧雨へと変わりつつあった。服はすっかり濡れ、肌に張りついて冷たい。林瓶は乾いた服に着替え、寝台の端に腰を下ろした。
あの光景が、頭から離れない。
亭。白い衣。雨。そして、あのたったひと言。
「濡れてる」
あの声には、相手を問いただそうとする響きがまるでなかった。自分の領域に現れた見知らぬ人間に向かって、「あなたは誰」と問うような、当たり前の反応すら彼女は見せなかった。
林瓶は寝台に座ったまま、あの瞳を思い返していた。
冷たさでもない。高慢さでもない。今まで見たことのない種類の「在り方」だった。
風ひとつない水面のような。
あまりにも静かで、生きているという実感が希薄だった。
そして林瓶は、あの道を歩いているあいだ、誰ひとりとして会わなかったことに、今さら気づく。
誰にも会わなかった。
あの石橋を渡り返すまで、ただの一人にも。
聚霊谷の寮の部屋は静かだった。窓の外では、雨がまだ細かく降り続いていた。




