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第9話 坊市



修繕工事が終わった翌朝、小蔡(サイ)が林瓶を揺り起こした。


「起きろ。今日は山下だ」


内務長老(ないむちょうろう)の指示で、毎月一度の坊市へ仕入れに行く日だ。林瓶はまだ一度も行ったことがなかった。


二人は太乙宗の山門を出た。門を守る外門弟子が身分証を確かめ、頷いて通してくれる。林瓶は振り返った。


太乙宗の峰々が、朝靄の中に幾重にも重なっている。ひときわ高い雲霞峰は雲に隠れ、玄女峰は霊霧に包まれ、その全容は見えない。


その中に、林瓶はもう一か月以上も身を置いている。外から眺めれば、たしかにそれらしく見える。仙家の門派らしく。


――


山下の坊市は、太乙宗の境内とはまるで別世界だった。


町は山裾に沿って広がり、一本の目抜き通りが入口から外れまでまっすぐ伸びている。不揃いな青石の石畳が敷かれ、その両側には木造瓦葺きの店が軒を連ねていた。


通りには、すでに大勢の人が行き交っている。荷を担いで声を張り上げる行商人。籠を抱えた町の庶民。そして法器や玉牌を腰に下げた、さまざまな装いの修士たち。


林瓶の視線は忙しなく動いた。これが、転生してから初めて目にする、太乙宗の外の世界だった。


二人はまず、町でいちばん大きな薬材屋へ向かった。用事を済ませたあと、小蔡は焼き餅を二つ買い、そのうち一つを林瓶に渡した。


できたてで、掌が焼けるほど熱い。表面は香ばしく、中には葱と肉の餡が詰まっている。林瓶はそれをかじりながら、通りを行き交う色とりどりの衣服と、さまざまな声の中を歩いた。


掛け声。値切る声。笑い声。


太乙宗の中では、何もかもが灰色だった。だが、ここには色があった。


――


そのとき、林瓶は視界の端で、路地の奥に動くものを捉えた。


そこに、二人の男が立っていた。


一人は弘武峰の青い長袍をまとっている。背中に見覚えがあった。——陸青だ。


もう一人は黒衣の中年男だった。大柄で、長年戸外で過ごしてきたような、黒く荒れた肌をしている。腰に宗門の標識はない。修士かどうかすら判別できなかった。


陸青は何かを手渡していた。灰青色の布に包まれた、本一冊ほどの大きさの品だ。黒衣の男はそれを受け取ると、重さを確かめるように手の中でもてあそび、ひとつ頷いた。


陸青が短く何かを言う。だが、声が低すぎて聞こえない。黒衣の男は何も答えず、そのまま路地の奥へ消えていった。振り返りもしなかった。


陸青はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて衿を整え、ゆっくりと路地から出てきた。そして何事もなかったかのように、町の中心へ歩いていく。


林瓶は焼き餅をひと口かじった。そして視線を向かいの玉器屋へ移す。陸青が横を通り過ぎても、気づかなかったふりをした。


――


用事をすべて済ませると、小蔡が残った数文で麺を食べようと言い出した。


二人は町外れの麺屋に入った。狭い店先には大きな鍋が据えられ、白い湯気がもうもうと立ち上っている。席に着いて陽春麺を頼み、待つあいだ、林瓶は粗い磁器の茶碗で薄い茶をすすった。


すると隣の卓に、三人の男が座った。


三人とも散修の装いだった。灰色の長袍に、腰には法器。宗門の標識はない。一人は四十がらみの年長者で、顔には風霜にさらされた痕が刻まれている。残る二人は二十前後の若い弟子だった。


年長の散修は茶をすすり、窓の外を眺めながら、何でもない調子で言った。


「この辺りも、寂れたな」


「太乙宗のことですか、師匠?」


「そうだ。太乙宗はな。昔はそれなりに名の通った宗門だったんだ」


年長の散修は箸を置いた。


「二十年以上前の話だ。あの宗門には玄祈使——祭祀を司る女がいてな。その女の修為は非常に高く、霊脈と通じることができた。彼女がいたおかげで、太乙宗の護山大陣は八割以上の威力を発揮できていた。あの頃は、まだ十大宗門の一角だった」


「今は?」


散修は笑った。そこに温もりはなかった。


「今の玄祈使は、何年も誰も見ていない」


林瓶の箸が止まる。


「玄祈使は山に籠って修行している、と太乙宗は言っている。だが、考えてもみろ。何十年も姿を現さず、祭祀にも出てこないんだ。まともなはずがない。他の宗門には、せめて表に出せる顔がいる。太乙宗にはそれすらない」


「玄祈使が代わった、ってことですか?」若い弟子が訊ねた。


「代わったのなら、なおさら新しい顔を見せるべきだろう。新しいのも出さない。古いのも出さない。裏に何かあるとしか思えん」


散修は茶をすすり、それ以上は語らなかった。


だが、若い弟子の一人が声を潜め、さらに訊いた。


「師匠。俺、太乙宗の新しい玄祈使は、すごく若いって聞いたんですけど」


散修は箸を置き、弟子を一瞥した。


「誰に聞いた」


「この前、町で太乙宗の雑役に会いまして。何となく——」


「太乙宗の人間とは、関わるな」


散修の声には、はっきりとした拒絶があった。


「ああいう宗門はな。表向きはきちんとして見えても、中がどうなってるか分かったもんじゃない」


そう言うと、彼はそれきり口を閉ざした。


――


林瓶は麺の汁を飲み干した。碗の底には、数滴の油が丸い膜となって残っている。それがゆっくりと広がっていく。


——「何年も誰も見ていない」


——「裏に何かある」


——「中がどうなってるか分かったもんじゃない」


外の人間の目には、太乙宗の玄祈使はそう映っている。


林瓶が記録で知った玄玉。まだ会ったことのない玄霜。十五年もの空白。そして今、外の人間の何気ない言葉が、それまで断片だった情報をひとつに結びつけようとしていた。


小蔡は麺をすすり上げ、満足そうに碗を置いた。


「食った食った。さあ、戻ろう。遅くなると暗くなる」


林瓶は立ち上がった。店の外へ出ると、午後の日差しが青石の上に白く反射している。小蔡は先を歩きながら、何やら鼻歌を歌っていた。林瓶はその後ろをついていく。


外の人間でさえ知っている。太乙宗の玄祈使がおかしいことを。宗門の中からは見えなかったものが、外から見るとかえってはっきり見える。


林瓶は布袋の薬材の匂いを背に感じながら、山道を登っていった。松の針葉は日の光を浴びて乾いた匂いを放ち、山風が梢のあいだを低く唸りながら吹き抜けていく。


知ってしまったことを、知らなかったふりはできない。



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